KENYA

POLE POLE TRAVEL 3



 

2005年9月。マサイマラの女神はそっと僕に微笑んでくれました。

夢のような、輝やいた、美しい日々でした。

 

TUTAONANA マサイマラ (Sep. 2005)

Chapter

頼まれ物  JACII  SAGRET  マサイマラへ  サバンナの空

ドライブ・サファリ  素敵な朝食  午後の光  ラッキー・デイ

祝杯  Sawa sawa  マサイマラの女神  TUTAONANA

 

 

頼まれ物

 ケニアッタ空港の税関を通るとき、思った通りにオフィサーに止められた。と言うのも、スーツケース以外に、同じぐらいの大きさのダンボール箱を持っていたからだった。実は、それは頼まれ物で、日本から持ってきたものだった。中身はフードミキサーなのだが、それもなんと3個である。そもそも何故こんな物を持って行くようになったのかを話しておこう。

ケニア旅行の計画の際に、到着日にマサイマラに行きたかったのだが、あいにくロッジに空きがなく、ナイロビに1泊しなければならなくなった。それで、以前泊まった安ホテルに泊まろうと考えていた時、ケニア在住の友人からe-mailが届いた。それには、JACIIと言うスワヒリ語学校があって、最近生徒の数が少なく部屋が空いているので、安く宿泊できるが泊まってみないかと言う内容だった。11,000シリングと言う安さである。なんとなく面白そうだったので、詳細を聞いてみることにした。

JACIIは 「日本アフリカ文化交流協会」と言う日本の団体で、創設者の(故)星野芳樹氏の名から、通称「星野学校」とも呼ばれているらしい。そこではスワヒリ語などを教えているそうなのだ。そこに行って、先生や学生達の話を聞いてみるのも面白そうだと思い、泊まってみたいと友人に返事をした。その後、連絡があり、来るに際してミキサーを持ってきて欲しいと聞かされ、それを承諾したのだ。荷物量は少ないので、1個ぐらいなら平気だったからである。

それから、出発の1週間前ぐらいになって、JACIIの日本の関係者から「先生の指示でミキサーを3個送りました。」なんて電話があった。それが着いてみて、あまりの大きさにびっくり。「こんな大きな荷物を持って行けと言うのかよ?」とその常識の無さに呆れてしまった。全く面識のない人間に頼むには、大きすぎる荷物だったのだ。さすがに少々腹が立ったのは言うまでもない。持って行ったとしても、これでは申告せずに税関を抜けるのは無理だと思えた。なので、翌日、送り元の方に連絡を取り、その旨を伝えた。向こうも当然そう思っていたようで、さすがに恐縮し、先生に話してみると一旦電話を切った。

その後すぐに、ナイロビから直接メールが来た。謝りのメールだったが、何とか持ってきて欲しいとの内容だった。もし税関で関税を支払うことになっても良いと言うのである。 そのすぐ後、友人からメールがあり、無理なら断っても良いと書いてあった。そう言われると、僕の天邪鬼気質が出てきてしまう。当初は断ろうかと思っていたが、本人がひどく恐縮し謝ってきたのもあり、そう言うことなら「持って行ってやろうじゃないの!」と言う気になった訳である。

これも何かの縁、面倒臭いが、そうすることで新たな何かがあるかもしれない。無くても、JACIIと繋がりが出来るだけでも、面白いかもしれないなと思ったのだ。とは言え、見返りは望んじゃいないよ。新たな人の繋がりや展開があったら面白いなと思ったのだ。何故かケニアでは、人との繋がりが拡がっていくのである。それが自分でも不思議だし、楽しい。僕にとって、他の場所ではない、不思議な現象だった。

税関で1600シリングの関税を払うことになったのだが、その手続きがやたら面倒臭い。あっちの税関窓口に行ってペイメント・スリップを受け取り、反対側の銀行窓口に行って支払いをしなきゃならなかった。フロアーの端から端に行ったり来たりしなきゃならないのだ。全くいい加減にしてくれと言いたくなった。

税金を支払い終え、荷物とスーツケースを持って到着ゲートを出ると、元気そうな初老の日本人男性が僕を待っていた。僕らは握手して挨拶を交わし、駐車場に止めてある車に向かった。

その男性はJACIIを管理している先生で、快活そうな笑顔と、少々人付き合いが苦手だと思わせるような素っ気無さがあり、それが僕にとっては返って良かった。変に気を回され過ぎるのは、あまり好きではないからだ。ミキサーは彼の依頼だった。

トランクに荷物を積み込み、助手席に座る。フロントガラスを通して見えたのは、晴れ渡った青空ではなく、灰色の雲に覆われたナイロビの空だった。車はJACIIに向けゆっくりと発進した。

 

TOPに戻る

 

JACII

JACIIはナイロビ市街より少し離れたンゴング・ロード脇にある、古い英国式の建物だった。鉄の門には、頑丈な太い鎖が巻かれていた。ここには4匹犬が飼われていて、2匹が親で2匹がその子供のようである。親犬はかなり大きく番犬として飼われているのだろう。しかし、僕にまとわりつくようにじゃれてくるので、本当に番犬として役立つのだろうか、なんて心配してしまう。きっと、夜間など、塀や門を乗り越えてくる輩に対しては吠え立て、敢然と立ち向かうのだろう。

僕は先生の後に続き、建物の中に入った。建物は外観と同じく、古びた洋館と言った、落ち着いた雰囲気である。正面の入口を入ると、階段があり2階(英国式だと1階)に上がった。2階には管理室と、キッチン、応接室、奥には先生の書斎があった。先生がコーヒーを入れてくれると言うので、その間、応接室のソファに座り、本棚に並べられた本の題名などを見ていた。色んな種類の本があったが、「家庭の医学」なんて本もあり、外国での生活では、やはり健康管理は欠かせないのだなあと、妙に納得した。

その後、コーヒーを飲みながらしばらく先生と話をした。まず、何故ミキサーを3台も必要だったかと言う話になった。実は先生は、副職として、豆腐や薩摩揚などの日本食材を作って売っているのだと言った。それも、かなりの量を作っているようだった。それと言うの も、昨今、生徒の数が減っていて、今現在は一人もいないらしく、メイドや、守衛などの給料を支払うためにも、やっているらしいのである。 そんな時、ミキサーが壊れてしまったので、大至急欲しかったと言う訳である。それも、大豆などを入れるので、しっかりしたメーカーの物が欲しく、態々日本で買ってきてもらったと言う訳だった。しかも、3つのミキサーを同時に使って作ると言うのだから、かなりの量である。持ってきて欲しかった訳である。とは言え、10月から5人ほど日本から生徒がやってくると、 先生は少し安心したように言った。学校経営もなかなか大変である。

確かにスワヒリ語を喋れるようになったとしても、東アフリカでしか通用しないし、ケニアであっても、重要な会議などでは英語が使われるらしく、それを取得する意味は、ビジネスと言うよりも文化交流の意味合いが強いと思う。しかし、東アフリカを深く知りたい方には、学んで損はないはずである。僕の旅行で覚えた片言のスワヒリ語の単語であっても、それを言うことで、現地の人の目が穏やかになるのを幾度も感じたからである。それに、言葉を習得すると言う以上に、ここで生活することで大きなものが得られることだってあると思う。皆が必ずそうだとは言えないが、生きている上で 、大切なものを得ることがあるのではないかと言う気がする。ここの卒業生の多くが、ケニアから離れられずにいるのを見ると、そんな気がするのだ。

それから先生は、これまでの色々な出来事や、辛かったこと、ケニアならではと言った話など、とても楽しく話してくれた。最近の日本のことも良く知っていて、その情報源はインターネットである。話は違うが、結構頻繁に迷惑メールがくると嘆いていた。人の良い先生は、迷惑メールが送られてくる度に、返事を書いて返信していたようである。迷惑メールは大概アドレス収集業者が送ってきているものだから、そんなことをしたら、次から次に送られてくるので、返信はしない方が良いと教えてあげた。すると、つい最近 、同じことを生徒から教えてもらったのだと、苦笑した。先生の話はとても面白かったのだが、個人的な話などはこの場では話せないのが非常に残念である。 (Webは公開の場だからね。)しかし、ナイロビであった危険な話などは、日本の常識を持ったままやってくることの危さを教えてもらえるし、旅の参考にもなるので、話しておこうと思う。

まずは先生が実際に体験した話。道を歩いていると、誰かが後ろから付けてくる気配があった。後ろを振り返ると、明らかに目つきの怪しい黒人男がいた。その男は、以前にもこの辺りで見かけた男だった。危険を感じ、咄嗟に走り出すと、その男も追いかけてくる。今までで、一番早く走ったと先生は言った。すると、前方に2,3人の人影が見えた。「助かった。」と思った瞬間、それは見事に打ち砕かれた。どうやら、男の仲間のようなのだ。「このまま走ったら、多勢に無勢、やられる! 後ろは一人。一人なら撃退出来るかもしれない。」一瞬の内にそう思った先生は、走るのを止め、振り返ろうとした。しかし、急激な減速と方向転換でバランスを失い、そこに転んでしまったのだ。絶体絶命と思ったところ、突然の転倒で、後ろから追いかけてきた男はスピードを抑えることが出来ずに、先生を通り越してしまった。先生は立ち上がり、奴を睨み付けるなり空手家のように身構えた。勿論、空手なんてやったことはなかった。すると、奴は戸惑うように後ずさりをした。と、瞬時に踵を返して、そこから逃げ去ったのである。九死に一生を得たとはこのことである。どうやら奴らは計画的で、以前から先生の行動を探っていたらしい。それ以後は、時間をずらしたり、道を変えたりして、単調な行動パターンにならないようにしたらしい。

もう一つ、生徒を襲った事故の話。一人の生徒(女の子)が頭から血を流し、血だらけになって帰ってきた。意識も朦朧としていて、すぐさま病院に担ぎ込んだそうだ。話を聞くと、学校の前の道(ンゴング・ロード)を歩いていると、後方からいきなりマタトゥ(乗り合いバス)に引っ掛けられたと言うのである。しかもマタトゥは、そのまま走り去ったそうである。道の端を歩いていても、そんなことが起きるのである。確かにマタトゥを見ていると、かなり乱暴な運転を見かけたりする。歩行者なんて見えていないのである。なので、歩行者は歩道を歩いていたって、気をつけなければならないのだ。

それは、歩行者ばかりではない。後日、友人から聞いた話であるが、バイクもそうらしい。ケニアではバイクはあまり普及しておらず、運転手の意識の外にあるようで、目に入らず(大概、路肩に寄っているので)引っ掛けられてしまうと言うことが、結構あるそうなのである。

そんな話を、一つや二つではなく、色々と聞かされると、さすがにびびってきてしまうね。でも、それだけ注意しなければならないと言うことなのだ。 でも、空手の話には笑ってしまったね。日本人は皆空手を修練していて達人なんだと言うイメージがあったのかもしれない。極新カラテの大山倍達先生のお陰ってところかな。でも、最近ではジャッキー・チェンの映画の影響でクンフーの方が知られているみたいだ。でもケニア人にしてみてば、カラテもクンフーも同じみたいだけどね。日本人だろうが、香港人だろうが、同じにみえるんだろうね。僕らがアフリカ人を見ているのと一緒である。

いつのまにか、部屋は薄暗くなってきていた。時計を見ると午後6時を過ぎていた。友人と会う約束をしていたので、ご一緒にどうかと尋ねてみたが、留守番がいないからと、先生は申し出を断った。確かにその日は、ここに居候している卒業生たちも皆外出していたのだ。

約束の場所までタクシーで行きたいのだが、タクシーの見つかる場所はないかと尋ねたら、向かいの給油所の先に「ンゴング・ヒル・ホテル」があるので、そこなら大概タクシーが止まっていると教えてくれた。そして、行く場合には、先に給油所のある向かい側に渡ってから行くようにと言われた。それと言うのも、こちら側は危ないからだと言う。向こう側なら逃げ場所がないので、引たくりなどに会う危険性が低くなると言う訳である。引たくる方もまた、逃げ場を考えている訳である。出掛けにまたまたそんなことを聞いて、緊張感が増したのは言うまでもない。

僕はJACIIを出ると、言われたように、すぐにンゴング・ロードを渡り、向こうに見えるホテルまで歩いた。

 

  

TOPに戻る

 

SAGRET

タクシーに乗って向かった先は、市街の外れ、ミリマニ・ロード沿いにあるサグレット・ホテルだった。ホテルの敷地内にはレストランがあって、ニャマチョマと呼ばれる、現地の焼肉料理が食べられる。僕はまだ行ったことがなかったが、美味しいと評判の店である。そこで、友人と、そのまた友人の家族と一緒に食事をする約束をしていたのだ。

6時半に待ち合わせていたのだが、少々早く着いてしまった。レストランの中を見てみるが、ケニア人はいるが、思ったとおり誰も来ていなかった。少しの間レストランの前でぶらぶらしていると、1台の車がやってきた。運転席から手を振る姿があったが、初めそれが友人だとは気付かなかった。やけに肌が黒く見えたのだ。

「こんばんは。」と声を掛けられ、声のする方を見ると、浅黒く焼けた丸顔が、和やかに笑っていた。僕らは再会の握手を交わした。まだ友人の友人家族は来ていなかったが、僕らは先にレストランに入り、ビールでも飲みながら待つことにした。

彼はケンさんと言って、知り合ったのも、ケニア繋がりだった。先に話したメールを送ってくれた友人の紹介でお会いし、それ以来親交がある。彼は以前JAICAで活動していて、農業のプロフェッショナルである。ケニアはそれほど長くないが、気さくな人懐っこい笑顔と、生真面目な性格から、ケニア在住の日本人の間でも信望がある。彼は焼酎など、アルコール類が好きで、来るのに当たり、何か入用はないかと尋ねたら、「酒の摘み」になるようなものが欲しいと返事が来た。それで僕は、「サキイカ」や「柿の種」などをお土産に持ってきていた。ケニアでは、そう言ったものを手に入れるのは難しいからね。勿論、手渡すと喜んでくれたよ。

実は、ケンさんの友人家族とは、紹介される前に僕は知っていた。これまた不思議な、面白い話だと思わない? 正確に言うと、ケンさんの知り合いは旦那さんで、大学の後輩であり、JAICAで一緒に活動した気心知れた仲である。僕の知り合いは奥さんで、それはこのWebサイト(WALKABOUT)がきっかけだった。何度かメールのやり取りをしている内に、それが分かったのである。そして、僕の来訪に際し、皆で一緒に食事をしようと言うことになったのだ。ケンさんは、奥さんとお子さんには会ったことがなかったので、初顔合わせと言うことらしい。なんとも不思議な縁である。奥さんのサイトの名前を取って、ここではモンチャック一家と呼ばせて頂くとしよう。

ビールを1本飲み終わる頃、その家族がやってきた。「初めまして。」僕らは初めて会うのに、前から知っていると言うような、奇妙な感じをぶら下げて握手を交わした。皆、とても良い笑顔だった。モンチャック旦那さんは、JAICAを離れ、今は国際機関で農業の研究をしているらしい。ケニアもかなり長いそうである。奥さんであるモンチャックさんは、3年前にまだ小さな子供を連れてこちらに来たそうだ。サイトを見る限り、かなり活動的だと思わ れる。そのお二人の子は3歳の女の子で、やんちゃ盛りで可愛いかった。家族を日本に残してきているケンさんは、子供を見ると父親の目になって、目尻が緩み放しになっていた。

ニャマチョマの店と言うことで、勿論食べるのはケニア風焼肉である。現地では、ヤギ肉が普通に食べられているので、僕らもそうすることにした。ヤギは以前、ナイロビ市内にあるホテル・コンフォートインにあるレストランで食べたことがあり、なかなか美味しかったのを覚えている。

レストランの厨房の前には肉を入れたガラスケースがあって、それを見て部位を選ぶことが出来る。モンチャック旦那さんが、任されてそちらに行くが、僕も興味があってその後にカメラを持って付いて行った。ケースの中には、ヤギの骨付きの脚肉(Leg)や背肉(Back)の他に、丸鶏もあった。隅のステンレス製のバットには、小腸らしいものが乗せてあった。その中から、脚肉を2本、鶏を1羽焼いてもらうことにした。

それが焼き上がるまで、かなり時間が掛かったが、ポテト・チップスを頼んであったので、それを食べながら談笑して待つことにした。ケニアの話し、JAICAの話し、日本の話し、普段の生活のことなど、話題はつきない。モンチャック一家は10月に、久しぶりに一時帰国するので、日本の美味しい秋の味覚を堪能するのだと、目を細めた。食べ物の話しになると、話が弾む。ヤギ肉でも、出される店でかなり違うらしいのだ。旦那さんの働くオフィスの近くにも美味しいニャマチョマ屋があるそうである。

ヤギ肉の話しのついでに、ここでは腸や脳も焼いて出してくれると言うが食べてみたいかと聞かれた。そう言われると、興味が沸き食べてみたくなる。どんな味かと尋ねてみた。すると、腸は糞の味がすると言う。糞の味なんて味わったことがないので、詳しく尋ねると 、腸の内部の掃除が綺麗にされていないので、草の発酵したような糞の匂いが残っていると言うのである。イメージ的には、ウシの糞の匂いを想像してみると良い(想像しなくても良い?)。それを聞いて躊躇いを覚えた。味は容易に想像出来たからである。 それではと「脳はよく白子のようだと聞くが、どんな物だろうか?」と聞いてみた。すると、帰ってきた返事は、「毛を一緒に食べているような感じ」と言うことだった。勿論、毛なんて付いていないが、獣臭がすると言うことである。そのイメージはドンピシャ僕の感覚に響いて、食べる前からどんなものだか分かってしまった。そして、無謀な冒険を思い止まったのである。とは言え、いつか試してみたい気もするね。

待ちに待ったニャマチョマが皿に乗せられ持ってこられた。それを係りの男性が、小型の鉈のような大きなナイフで、食べやすいように骨から切り落としてくれた。味付けはシンプルに塩だけだった。塩を指で一掴み取って自分の皿の片隅に盛る。そして切り分けられた肉片を指で掴み、その塩を付けて食すのだ。これがケニア流だった。ヤギ肉は程よく噛み応えがあり、肉本来の味がする。臭みは殆どなかった。牛とも豚とも全然違う味である。脂身はないのだが、決してパサパサしている訳ではない。引き締まった肉は、噛むほどに味が出るのである。皆の美味しい笑顔がそこにあった。

少ししてウガリが持ってこられた。ウガリはトウモロコシの粉を練った食べ物で、現地の主食である。味はあまりなく、スープやソースに浸けて食べることが多い。サグレットではチリソースが出た。以前ウガリを食べた時は、かなりパサパサした感じがしたのだが、サグレットのそれは、ほんのりと水分をまとっていて、なかなか美味しかった。勿論、手で適量を取って食べるのだ。フォークも箸もなしである。ヤギ肉も鶏肉もベタベタ脂ぎっていないので、手で食べるのに向いている。そうやって手掴みで食すのが、なんだか良い気分だった。

モンチャックさんが、僕に対して持っていたイメージと、実際に会った印象がだいぶ違ったと話してくれた。会う前は、「繊細な人」と言うイメージがあったらしい。でも、およそ繊細とは思えない糞や毛の話しに沸き、馬鹿話をする僕を見て、その美しいイメージは果かなくも砕け散ってしまった訳である。ケンさんも、モンチャック旦那さんも、僕も、みんな同じ種類の生き物なのだと。「し、しまった!」僕は後になって、ミステリアスな部分を残して置けば良かったと後悔したね。しかし、である。モンチャックさん、僕にはそんな一面もあると言うことで、ご理解頂けないでしょうか? 本当は、繊細で傷付きやすい心の持ち主なんですよ。(って今更言っても信じちゃくれまいが…)

楽しい宴も、8時半を過ぎたあたりで終わりとした。話していれば、いつまでも終わらなさそうな気配だったが、そうはいかなかったのだ。日曜日だったので、皆、次の日は仕事なのである。子供ももうすぐ寝る時間なのだ。しかし、後から知ったのだが、皆は、僕が着いたばかりで疲れていると、気を回してくれていたのが最大の理由だった。その心遣い、本当に嬉しいじゃないの。この再会と新たな出会いが、僕にとって、とても素晴らしいものだったと、敢えてここで言いたい。ケンさんとモンチャックさん一家には心から感謝するものである。本当に、ありがとうございました。そして、きっとまた、一緒に食事しましょうね。

僕は、不思議なケニアの繋がりを感じていた。

 

TOPに戻る

 

マサイマラへ

目覚めたのは、朝7時過ぎだった。カーテンの向こう側から、白い朝の光が柔らかく部屋に忍び込んでいた。起き上がってカーテンを開けると、今日も曇りなのか、明るい太陽の光はなかった。ベッド3台と小さな家具が置かれた、広く殺風景な部屋は、ずっと使われていないのか、人の温もりを感じさせず、廃屋のそれのように、ひどく冷たく感じられた。

昨日、JACIIに戻ってから就寝したのは、午後9時過ぎだった。時差の影響で眠かったと言うよりも、寮には僕一人しかいず、何もやることがないので早々に寝ることにしたのだ。僕は糸を引くように、眠りに陥っていった。

ふと、人声に気付き目を覚ました。と言うより、ビールを飲んだせいで、トイレに行きたくなり、眠りが浅くなったところに声が聞こえてきたと言うのが正確なところだ。僕は起き上がり、部屋の明かりを付けてから、ドアを開けた。声は、入口を入ってすぐの談話室からだった。日本語で話す男女の声が、静かな、でもくつろいだ雰囲気で、壁の向こうから漏れていた。僕は、そのままトイレに行って戻るか、それとも挨拶でもするか、ちょっと戸惑ったが、せっかくの機会なので、挨拶してみることにした。

「こんばんは。」と談話室に足を踏み入れると、会話が途切れ、話していた2人が僕を凝視した。しかし、すぐに目元は緩み、「こんばんは。」と笑顔で応えてくれた。「1泊だけど、お世話になってます。」と言い、簡単に自己紹介をし合った。今日来たことなど簡単に話した後、僕はトイレに行ってくると、そこを一旦離れた。

戻ってきてから、小さな椅子に座り、彼等と話しをした。女性の方はここの卒業生で、日本に帰らずに、ここに居るようである。男性の方は、髪を小さく束ね編んだ、レゲエ・マンのような髪型をしていた。記憶は定かではないが、彼もまた卒業生だと言ったと思う。何故、記憶が曖昧なのかと言うと、それ以上に印象的な彼のプロフィールがあったからだ。それは何かと言うと、彼は「あいのり」と言う、TV番組に出演していて、日本では今まさにオンエアーしていると言う。残念ながら、僕はその番組名をかろうじて知っているぐらいで、一度も見たことがなかった。それを言っても、彼は別段気にしなかった。

実際の撮影は、もう既に終わっていたが、彼は南アフリカからヨーロッパ(何処だったか忘れてしまった)まで旅したそうである。その後、その旅でとても印象的だったケニアに戻ってきたいと思い、JACIIに来たそうである。そして、一旦帰国した後、再び戻ってきたと言った。再度戻ってきた目的は、「仕入れ」だった。それは、色彩やデザインの素晴らしい手作りのバッグや民芸品、ビーズの飾りなどを仕入れ、日本で売ってみようと言う試みだった。それをネット販売してみようと目論んでいるのだと、右目は不安を湛え、左目は希望に輝いて言った。今はTVが放映されているので、派手な宣伝は出来ないのだと残念そうに言っていた。

若い内に色々なことをやってみるのは良いと思う。彼らを見ていると、本当に若いって良いなって羨ましくなる。そして、僕の若かった時の、情報量の少なさによる選択幅の狭さが、ひどく残念に思えた。今のように、多くの情報が得られれば、きっと違う選択をしたかもしれない。そんな気がするが、かと言って、今の自分を否定する つもりは、さらさらないのも確かだ。敢えて言うが、僕は年齢を重ねるごとに、自分がどんどん好きになっている。子供の頃の自分より、今の方が、自分に素直であると思えるのだ。これを聞いて、不思議に思う人がいると思うが、同時に同意してくれる人もいるのではないかと思う。子供ってのは、大人が思う以上に、親の気持ちや目を意識しているものなのだ。そして、既存の与えられる価値観に反応してしまうのである。そう言う子供もいるのである。きっと、半分はそうじゃないかなって思うね。

楽しい会話が続き、ビールまで1本ご馳走になった。個性的で、明るい好青年だった。年齢や仕事など関係なしに、偶然出会い話すことがとても楽しいと感じる。そこには、損得や地位などなく、人と人だけがある。それが実に良いね。もし彼が、何処かの国の大統領や、映画スターであったとしてでもある。 それが、旅の楽しさでもあるね。

小一時間ほど話し、僕は寝に戻ることにした。彼と彼女は、仕入れた飾りやバッグなどを、もうしばらく整理すると言った。そして、「お休みなさい。」と別れた。とても爽やかな気分だった。

 

8時前にキッチンに行き、朝食を頂いた。3人の女の子がいたが、皆卒業生らしい。その中の一人は、これから一人で ウガンダ国境近くの村に行く予定だと話してくれた。その目的は、ケニアの琴のような楽器を学ぶためだそうである。ナイロビに住む先生に習っているのだが、その先生の師匠の住む村に修行に行くと言う訳である。それを聞いて、「凄いなあ」と、ただただ、その思いと行動力に感心した。「凄い」と言う以外に表現できる言葉が見つからないのだ。僕も此処に住めば、そんな風になるのだろうか? ふとそう思ったら、氷が解けるように、音も無く形を失い、僕の中に溶け込んでしまった。きっと、僕もそうなるんだろうなって気がしたのだ。

簡単な朝食を済ませた後、先生とまた世間話をしていたら、あっと言う間に9時前になっていた。なので、急いで部屋に戻りスーツケースを引いて戻ると、先生が車の前で待っていてくれた。そして、車に荷物を詰め込み、先生は僕をウィルソン空港に送ってくれた。僕はJACIIに泊まって良かったって、本当に思った。新たな人との出会いが、とても新鮮で面白かった。そして皆の素敵な笑顔に会え、とても嬉しかった。

先生は、税関で支払った1600シルを僕に手渡した上に、宿泊料の1000シルは最後まで受け取ろうとしなかった。その気持ちも嬉しかった。そして、大きな荷物であったが、ミキサーを持ってきて良かったなって思った。それにより、新たな人の繋がりが出来たことが、とても素晴らしく思えたのだ。ケニアの繋がりがまた一つ増えたと思うだけで、とても嬉しい気持ちになった。きっとまた、JACIIを尋ねたいと言う気持ちになっていた。

「先生、また来ますから、その時はよろしくお願いします。」

 

ウィルソン空港でチェックインを済ませ、フライト時間を待つ。空は朝より幾分明るさを増してはいたが、まだ白いのっぺりとした雲に覆われていた。もうすぐマサイマラに帰る。そう思うと、何故か自然に口元が緩む。じわじわとその嬉しさが染みてくる。心の中で、僕を再び、その優しい懐に入れて抱いてくれたら、と小さな子供のように思うのだ。僕の心は、まるで時間を逆行するように、子宮に向かっている。マサイマラと言う母の子宮に帰っていくのだ。普段忘れ去っていたものを、大きな母の愛情と温もりを、意識する前に感覚として呼び起こしていた。「マサイマラに帰るのだ。」

午前10時。エア・ケニアはマサイマラに向けて飛び立った。

 

TOPに戻る

 

サバンナの空

飛行機に乗ってすぐに、僕はうとうとと眠ってしまった。そして、次に目を覚ました時には、明るく強い太陽の光があった。ナイロビでは薄曇であったが、マサイマラは晴天だった。飛行機の小さな窓から外を覗き込む。眼下には明るい緑色のサバンナが広がっていた。僕はそれを見て美しいと思うと同時に、ほんの少しの不安を持った。何故かと言うと、乾期のマラは、草は黄色く枯れ、地面は褐色に乾いた、カーキー色の大地が広がっているはずなのだ。それが、こんなにも緑だと言うことは、雨が降ったことを意味している。それも大量の雨が降ったに違いない。乾期の終わりを告げる雨である。

不安と言うのは、雨が降れば、ドライブ・サファリの行動範囲も制限されることにあった。道はマディで、乾期に走れた場所が、湿地と化し、入っていけないようになるのである。僕は緑輝く草原を眺めながら、自分がマサイマラに関しては「雨男」だと言う思いを、さらに強めることになった。

飛行機は、平らに整備しただけの、土が剥き出しの滑走路に着陸した。見たことのある風景が広がっている。「キチュア・テンボ」と機内アナウンスがあった。僕が降りる場所である。今回で6度目のマサイマラになるが、ファースト・ストップでキチュア・テンボに着くのは初めてだったので、少し意表を付かれたような気がした。エア・ケニアは、顧客の乗降数に合わせて、ルートを変えて飛ぶのである。たぶん、今回はキチュアで降りる人が多かったで、最初に降りたのだろう。そして、客を降ろした後、反対にナイロビに帰る客を乗せ、次の目的地を経由し、同様なことをしながら、ナイロビに帰っていくのである。僕の経験上、大概3ストップするようである。

タラップを降りると、そこには懐かしい大地が、穏やかに笑っていた。マラは、また僕を優しく迎え入れてくれた。確かにそう感じていた。滑走路の傍には、茶色い体色のトピの姿が3,4頭見えた。「帰ってきたよ。」僕は小さく呟くように言った。

迎えの人たちを見る。薄茶色のベストとズボン、茶色のシャツを着た、良く知った制服姿の人たちがいた。ムパタ・サファリ・クラブのドライバーである。皆元気そうである。体の大きなオボチャさんを見つけ、再会の握手を交わした。彼はガイドとしても優秀で、明るく、お人よしな性格から、ドライブ・サファリには彼を指名するリピーターも多い。彼らの間では、「オボッチャマ」と呼ばれているらしい。

しかし残念ながら、僕の友人であり、師匠でもあるウィリアムさんの姿はなかった。「ウィリアムさんは、もしかしたら休みかもしれないな。」と、ふとそう思った。でも、それならそれで良かった。以前、僕が来ると言うことで、休みを延期してくれたことがあったからだ。ロッジで働く人たちは皆、2,3ヶ月ずっとここで生活していて、2週間ほどの休みを取って、家族の元に帰るのである。ずっと会っていない家族と早く会いたかったろうに、わざわざ休みを1週間も伸ばしてくれたと聞き、本当に嬉しく思ったのは今でも忘れていない。なので、もし休みであれば、気にせず家に帰って欲しいと思うのだ。

そして、いつも穏やかな笑顔で迎えてくれる日本人スタッフの友人の姿もなかった。きっとロッジにいるのだろう。代わりに初めて見る日本人スタッフがいた。聡明で、しっかりした感じの素敵な女性だった。

僕らは待機していた3台のランドクルーザーにそれぞれ乗り込んだ。僕らの車の運転手は、ドライバーの中で一番若いジェームスさんだった。彼は若いだけでなく、日本語もなかなか上手なのだ。車はロッジに向け発進した。エア・ストゥリップを離れ、小さなクリークを渡る。乾期では干上がっているはずなのだが、勢い良く水が流れていた。やはり、大量の雨が降ったのは間違いなかった。

緑の草原の上にシマウマの群れが見える。同乗者たちは皆、その光景に瞳を輝かせていた。僕の目は、既にマサイの目になろうとしていた。遠く、キリンの親子の姿を見つけた。キリンがいると教えてあげると、皆が、何処にいるのかと、きょろきょろしている。からかうつもりじゃなかったが、それが何故か楽しかった。方向を指差して教えてあげると、感嘆の声が上がった。「目が良いんですね。」と言われ、ちょっと得意気になった。そして、隣に座っていた親子(父娘)の父親の方が、「近くばかりじゃなく、もっと視点を遠くに置かなきゃならないんですね。」と感慨深く言った。

坂を登り、キリンのいる場所に近付く。1頭は子供で、草の中に座り込んでいた。立っているのは母親であろう。班が詰まって黒ずんで見えるその体は大きく、逞しく感じた。僕を除き、皆立ち上がってキリンを見ている。きっと初めてマサイマラに来たのだろう。僕は自分が初めて来た 時のことを思い出し、少し優越感を含ん だ感情を持ちながら、一杯感じて欲しいと思った。そして、「マラはもっともっと凄いんだよ。」って、心の中で呟いた。これから、ここにいる間中、皆に マサイマラを沢山感じて欲しいと、本当に心からそう願っていた。

サバンナの空は真っ青に晴れ渡っていた。

でこぼこで曲がりくねった坂道を登っていく。途中にはマサイの家が見え、時折、道端にマサイが立っていて、手を上げて挨拶してくれる。子供が満面に笑みを浮かべ、手を振る姿はとても可愛かった。

丘の頂上に僕らの滞在するロッジ、「ムパタ・サファリ・クラブ」がある。ここに泊まるのは5回目だった。あと1回は「マラ・セレナ・ロッジ」である。ムパタもセレナも、それぞれ個性があって僕は好きである。両者とも、ロッジから見る眺めは素晴らしい。ムパタのそれは、高台から見渡すと言う感じだが、セレナのそれは、ムパタほど高くはないが、大草原の続くマラ・トライアングルを一望に出来、なんと言っても、高すぎないため、動物を容易に見ることが出来るのが素晴らしい。どちらも素晴らしいロッジだが、ムパタにするのは、やはり親しい友人たちがいるからだった。

車を降りると、いつもの知った顔が出迎えてくれた。友人である日本人スタッフである。穏やかに微笑むその顔は、少しも変っていなかった。「またお世話になります。」僕はそう言って再会を喜んだ。 そして、同じくスタッフのサムソンさんも出迎えてくれていた。彼は日本語がとても上手く、しかも真面目な好青年である。マラソンの強豪選手を輩出し続ける民族のカレンジン出身 で、それを誇りにもしている。そう言うことからか、彼は毎日オロロロの丘を走ってトレーニングしているのである。 別に会社から言われている訳でも、彼がマラソンランナーと言う訳でもない。彼自身の気持ちから走っているのである。そう言った姿勢もまた、彼の生真面目さを現していると思う。実に良い男なのだ。しかし、本人曰く、シティ・ボーイなのだと。ムパタに就職した当時は、周りに何にもないのでホームシックにかかったと言うのだから、きっとそうなんだろうね。僕は、そんな彼と堅く握手を交わした。

何度も来ていたので、ロッジの説明を聞かずに、すぐにバンダに案内してもらった。バンダとは1棟建てのコテージのようなもので、それぞれが独立して建っていて、隣のバンダとの間も広く、しかも木が植えられているので、全くのプライベートと言っても良いぐらいである。そして、崖に沿って建てられたバンダから見る眺めはとても素晴らしいのである。

僕はテラスに出て、さらにそこを降り、草むらを歩いて崖に近付いた。明るい緑色の大地と、その間を蛇行しながら流れる茶色のマラ川が見える。遠くに目を向けると、目が吸い込まれそうになる。どこまでも遠くに引き込まれ るような感覚に堕ちこむのだ。それは一種の感動である。大きく広い大地がどっしりと横たわり、乾燥した風が耳元をくすぐる。ふと、空を見上げると、ハゲワシであろうか、大きな猛禽類のシルエットが、透き通った青の中で、ゆったりと円を描くように飛んでいるのが見えた。

僕はしばらくその景色を楽しんでから、恒例の儀式をしなければと、バンダに戻った。スーツケースを開けて、中から取り出したのはワイルド・ターキーだった。バーボンである。栓を開けて、備え付けのガラスコップに注いだ。しかし、まだ飲むわけにはいかなかった。僕はそれを持って、また外に出る。今度もテラスではなく、その向こうである。直接マサイマラの大地を踏みしめる場所でなければならなかった。僕は眼前に拡がる景色の前で、コップを胸の高さほどに上げ、右手の指をコップに入れて、琥珀色の液体を指に絡ませた。そして、すばやく引き抜いて指を頭上にかざし、指を弾くようにして、液体を散らした。それが僕の儀式だった。戻ってきた喜びと感謝の気持ちを、マラに捧げたかったのだ。

それを3度ほど繰り返してから、僕はウィスキーを飲んだ。爽やかな、とても良い気分だった。

 

TOPに戻る

 

ドライブ・サファリ

午後2時50分。バンダを出た。3時から待望のドライブ・サファリが始まるからである。レセプションには、もう多くのゲストたちが、サファリに期待を胸に潜め待っている姿があった。ドライバーたちがお喋りしている姿が見えた。その中に、懐かしい顔があった。ウィリアムさんだった。僕は彼に近付いて挨拶した。彼はいつもの明るい笑顔でそれに応えてくれた。なんてことのない、さりげないものだが、それが嬉しかった。友達と再会した時とは、そんなものである。お互いに分かっているので、必要以上にはしゃいだりしない。ただ、互いに目を合わせ、握手をすれば分かるのである。そんな関係に近付いたことが、嬉しかった。

名前を呼ばれ、ドライブ・サファリの組分けが行われる。僕の名前は最後の組で呼ばれた。勿論、ウィリアムさんの組である。それは、友人のオフィサーが、そうしてくれていたのは分かっていた。同行者は、2組の親子だった。1組は、来る時に同じ車に乗った、父娘だった。もう1組は母娘だった。親子で旅をするなんて、きっと仲が良いんだろうなって思った。僕らはウィリアムさんの運転するランクルに乗り込んだ。

ウィリアムさんが、英語で自己紹介をする。欠かさずNo.1ドライバーなんだって、僕が茶化してそれに付け加えた。でも、それは冗談なんかではない。彼はマサイマラのドライバー歴25年を誇る優秀なドライバーなのである。他のロッジのドライバーやレンジャーまで彼のことを知っている、信頼の置けるドライバーなのである。そして、僕はこれまで彼の案内の元、数々の素晴らしいシーンに出会えているのだ。それから僕らはお互いに自己紹介をした。

ゲートを出て、坂道を下る。僕にとっては何度も行き来した道でよく知っているが、皆にとっては違う。ここはまだマサイマラ自然保護区の外なんだと教えてあげると、そうなんだと、皆が子供のような瞳の輝きを見せて応えてくれた。

車は丘を越え、オロロロ・ゲートに向かった。ゲートから先がマサイマラ自然保護区である。とは言え、境界を示すものなんて何もないけどね。ゲートを潜り、初めに僕らを迎えてくれたのは、イボイノシシだった。英名では「warthog」と言うのだが、ウィリアムさんは日本名を知っていて「イボイノシシ」と呼んだ。彼は日本人のゲストを多く乗せるので、動物の日本名をよく知っているのだ。それだけではなく、ちょっとした時に発する日本語が、なんともユーモラスで、彼の茶目っ気と人柄を表しているようで、とても楽しくなる。同乗者たちは、初めてみるイボイノシシに興奮気味で、カメラを向けていた。僕はと言うと、やはり6回目ともなると冷静になっていて、距離や状態などを見る余裕もあり、カメラを向けることはしなかった。回を重ねるごとに、だんだん被写体に対しても選ぶようになってきているのである。とは言え、僕も最初は、豆粒ほどにしか見えなくても、シャッターを切り続けていたけどね。とにかく、見るもの全てが新鮮で、美しく、次から次にシャッターを切っていたのを今でも覚えている。皆もきっと同じなんだと思う。それが嬉しくもあった。

車を進めるとキリンが数頭いて、木の葉を食んでいた。その先には、ウォーターバックの群れもいた。緑に変わった草原は、豊かに動物達を育んでいた。車窓から入ってくる風が気持ち良い。皆の顔を見ると、本当に楽しそうである。それを見ると、僕まで嬉しくなる。そして、全身でマラを感じて欲しいと思うのだ。マラの素晴らしさは、どんなに頑張っても、言葉ではとても語りつくせない。此処に来た人だけが感じられる、とても素晴らしいものなのだ。大地が両手一杯に拡がっている。草原はどこまでも続いているかのようだ。こんもりと木々が連なっているのは、川やクリークに沿って生えている木である。草原に生えている木は疎らで、サバンナ独特の風景を見せていた。高所の強い太陽光が、全てを原色に、鮮やかに、美しく照らしていた。

小さなクリークを渡って、少し行った時だった。もの凄い数のヌーの大群がそこにいた。何百頭、否、何千頭もの大群だった。皆の瞳が一気に開いた。今まで見たことのない光景だったのだろう。口々に「凄い!」を連発する。そうなのである。この時期は遠く、セレンゲティからヌーが移動してきていて、動物の数は一変していたのだ。僕が今回の旅で、この時期を選んだのも、それが理由だった。とは言え、他の時期も様々な表情があり、とても素晴らしいことを言っておきたい。

ヌーはすぐ傍までいて、僕らを全く気にしていないようである。黒い体に黒い角、黒い顎鬚。全身黒尽くめで、お爺さんみたいである。地味な感じだが、群れになると圧巻である。遠く向こうを見ると、点々と黒い班が草原に浮かんでいるのが見える。それもまた、ヌーなのである。勿論、野生動物なのだ。世界中探したって、野生動物をこんなに見れる所はないと思うね。とは言え、最終日には、きっと皆ヌーは見飽きたって言うに違いないと思っていた。それぐらいに、この時期はヌーがいるのである。実は僕が初めてマラに来た時もこの時期で、本当に沢山のヌーがいてのだが、その圧倒的な量に、最終日には初めの感動が嘘のように消えていたのを覚えている。そして、帰国して写真を現像してみると、あんなに一杯いたヌーの写真が、殆ど無かったのには我ながら驚いたものだ。いるのが当たり前と思えるほどだったので、カメラを向けるのを忘れてしまっていたのである。これは嘘じゃないよ。確かめたかったら、是非、9月のマラにいらっしゃい!

とは言え、絶対確実だとは言えないことも断っておこう。ヌーの大移動や川渡りは有名であるが、それが鳥の渡りのように、毎年起こるとは言えないのである。ヌーの移動は食料である草を求めて移動するものであり、もしも乾期にタンザニアで雨が降ったら、移動が停まってしまうと言うこともあるのだ。そして、これはあまり知られていないのだが、ヌーの大移動が始まったのは、100年にも満たないってことである。この移動は、人間の活動から生まれたと言って良いと思う。人間の生活エリアが拡がり、国立公園や保護区のように、動物が安心して暮らせる場所が限定されることで、100年以上前にはあちこち移動していたヌーが、マサイマラに大挙して押し寄せることになったのである。これは、人間の活動が野生動物の行動に影響を与えると言う、ダイナミックな例であり、とても興味深いものである。この行動は、生得的なものでは勿論無い。なので、TV番組などで「本能に従って移動し、川を渡っている。」などと言うナレーションを聞いたりすると、フンと鼻で笑ってしまう。そして、正しい情報を流して欲しいものだと心から思うものである。

ヌーの大群から離れ、車は進む。周りに動物の姿が見えなくなっていた。車はスピードを落とし、本道から外れ、横道に入った。それは道と言うより、車が作った轍の跡と言った方が良い。草の中を車は進む。やけに静かである。エンジン音と、草を分ける音が妙に大きく聞こえてきた。ウィリアムさんは、明らかに何かを探しているのが分かった。僕の経験上から、それはたぶんライオンではないかと思われた。つまりここはライオンのテリトリーなのではと思ったのだ。ウィリアムさんは、木の近くに車を寄せてみたりして進む。木の根元付近の草が倒れていて、動物が寝ていたのではないかと思わせる跡があった。他の人は、それに気付いた様子は無かった。僕は静かに心を高揚させ、目は猛禽のそれのようになって、ライオンを探していた。

しかし、ライオンの姿は見つからない。痺れを切らしたのか、ウィリアムさんが、「ここはライオンのテリトリーだ。」と言った。思っていた通りである。そう言われると、皆の目が輝いた。僕はそれを見て、フフッと微笑した。これである。皆の目が活き活きとして、輝く瞬間である。これが嬉しい。お父さんもお母さんも、娘たちも、皆が同じ目をしていた。何度かマラに来て、僕の中でも変化が出てきていた。3度目ぐらいまでは、とにかく動物や自然の圧倒的な美しさや強さに心引かれていたのが、徐々に余裕のようなものが出てきて、同乗者たちの様子を見るのも楽しくなっていた。何よりも、この大好きな素晴らしいマサイマラを感じてくれているのが分かるだけで、本当に嬉しくなるのである。マラをもっと知って欲しい、マラをもっと感じて欲しい。本当にそう思うのである。僕にしても、まだたった6回来ただけである。偉そうなことは言えないけれど、もっともっとマラを感じたい。本当にそう思うのだ。マラは僕にとって特別な場所なのである。

しばらく草の中を進んで行くと、「ゾウさん」とウィリアムさんが日本語で言った。僕もそれは分かっていた。たぶんウィリアムさんは、ずっと前からそれを分かっていたと思う。「どこどこ?」と探すお母さんに、ほらほらと指差す娘、車内が一斉に賑やかになった。

車はゾウに近付いた。7、8頭の群れで、小ゾウもいた。「ジャンボー!」とウィリアムさんが言う。それに続けて「ジャンボー!」と同じようにビデオを回していた娘さんが言った。ゾウは僕らを気にしていない様子で、草を食べている。その向こうにはヌーの群れもいる。野生のアフリカゾウを見ることができたので、皆その感動を抑えきれない様子である。そして、僕はそれを見てまたフフッと笑うのだ。あまり良い趣味とは言えないけど、それも楽しい。皆の反応が直に感じられ、嬉しくなるのである。

そして次には、お目当てのライオンに出会ってしまった。それは僕らが探し当てた訳ではない。別のロッジの車が見つけ、無線で連絡してくれたのである。マラのサファリは、「お互い様」で成り立っていると言っても良い。ドライバーたちは無線で絶えず情報交換をしているのである。そうやって、ゲストたちに多くの動物を見せてくれるのだ。本当に感謝したいね。

とは言っても、あまり動物たちにインパクトを与えないようにしなければならない。そこの加減が結構難しいのである。ベテランのウィリアムさんは、その所をわきまえているので、僕は心底尊敬している。しかし、そうでない車もあるのである。それは大概、お金持ちが泊まるロッジの車で、顧客の要求に安易に応えすぎるのである。僕はそれにひどく腹が立つ。お金があれば何でもして良いなんて道理は成り立ってはいけないのだ。その前に、自然保護の概念があってこそなのである。その立場に立っていれば、幾らでもお金を使っても構わないが、そうでなければ来て貰いたくないね。むしろ、排除したいぐらいだよ。そして、ロッジでも、それは毅然とした態度でその要求を拒むべきだと思うよ。それは、自然保護を浸透させることでもあり、大切なマサイマラを守ることでもあるからね。ガヴァナーズさん、しっかりしてよ!! その歴史と名に恥じないロッジとして、これからも期待しているんだからさ!! ルールを守って、コンサベーションを浸透させることが、ロッジの役割でもあると思うよ。一部の阿呆面したお金持ちなんて、浅い好奇心だけで、二度と戻ってくることなんてないさ。結局、マラを冒涜することにしかならないよ。マラを愛する一人として、行き過ぎたサービスを止めるように切に願うね。マサイマラの最高のロッジに恥じないよう、期待しています。

車はその後、マラセレナ・ロッジの方向に進んだ。チーターがいるのだと、ウィリアムさんが言った。それは、僕がチーターを大好きなのを知っていたからだ。僕に見せてあげようと思ってくれたのを感じていた。しかし、チーターのいる場所に辿り着く前に、帰ることになった。18時には保護区から出なければならないからである。そして、ウィリアムさんは、明日見せてあげるよと約束してくれた。

僕は帰りの車に中で、明日の為に、皆にハーフデイ・サファリのことを説明していた。それは、通常1日に2回あるサファリを、1回にして、朝出発した後、適当な場所でお弁当(朝食)を食べて、お昼に帰ると言うものである。そうすると、かなり遠くまで行けるのである。動物との遭遇は、偶然性が大きなファクターを占めているので、1回が良いのか、2回が良いのかは決められないが、マサイマラの大地で朝食を食べるだけでも楽しい。僕は残りの全部をそうしても良いと思っているぐらいなのである。それには、皆の同意が必要だった。何故なら、人数が揃わないと催行出来ない(車の手配など限られているので)からである。そうやって、皆にハーフデイ・サファリをしようよと提案したのである。しかし、母娘は行きたいと思うのだが、バルーン・サファリを予約しているので分からないと言う返事だった。

ロッジに着くと、友人のオフィサーが出迎えてくれていた。そして、皆に「ハーフデイ・サファリをしませんか?」と聞くのである。まるで図ったような展開で、びっくりした。そう言われ、さっきまで僕に聞かされていたのだと皆が答えた。バルーン・サファリはまだ確定の連絡が来ていないので、明日はないと母娘が知り、それでは是非ハーフデイ・サファリに行きましょうと言うことになった。僕としては望み通りの展開になり、とても嬉しかった。とにかくサバンナの上で食べる朝食は最高なのだ。それだけでも、行った甲斐があると言うものである。僕は皆が賛同してくれて、良かったなって思った。

僕はウィリアムさんに初日のドライブ・サファリのお礼をしようと思ったのだが、彼は両手を上げて軽く笑い、僕に近付こうとしなかった。何故そうしたのかは分かっていた。彼は僕からチップを受け取ることを拒んでいたのだ。それは、僕を友達と認めてくれたのだと僕は思った。そして、それが本当に嬉しかった。

 

TOPに戻る

 

素敵な朝食

午前5時半にロッジのスタッフが、僕を起こしにドアをノックしてくれた。「ありがとう」と声を掛ける。その10分前には目が覚めていたのだが、朝のサファリに、万一寝過ごすことがないように、起こしに来る時間をあらかじめロッジに頼んでいたのだ。まだ外は暗く、明かりが必要なくらいである。パーカーを羽織って、テラスに出た。新鮮な冷えた空気が美味しい。暗い空には、星々が美しく輝いていた。天上にはオリオン座があるはずである。僕は上を眺め、それを確かめた。そして、その少し離れた場所で、一際輝く白青色のシリウスに、「素敵なサファリになりますように。」と願った。シリウスに願い事をするのも、何故か毎回のことである。初めてここに来た時からやっている。それが叶おうが、そうでなかろうが、シリウスの輝きには、何かを託したくなる美しさがある。心を惹きつける輝きを有している。僕はこの星が好きだ。

今回の為に購入した一眼デジカメと、コンパクト・デジカメの2機を持ってバンダを出た。それまでは、フィルム一眼を使っていたのだが、デジカメのボディだけを購入し、それに今まで使っていた300mmズームを装着したものだ。そうすると、思いがけず、300㎜が480mm相当になると言う、ラッキーなおまけまで付いてきた。それは画角の違いから発生するそうなのだが、動物たちをもっとUPで撮りたいと思っていたので、嬉しかったね。一眼デジカメを購入したきっかけは、オーストラリアでの失敗からだった。何と言っても、その場で確かめられるのが良いし、現像にお金を掛けなくても済むのが嬉しい。それと、やはり自分のイメージに近く表現出来るのが良い。フィルムでは、現像された写真の色合いなど、イメージと大分違っていることもあるからだ。自分の記憶と照らし合わせて、修正したり出来るからね。それに、簡単にデータとして取り込め、PCで楽しめるのも良いね。大きな画面で見る写真は、実際に見た印象に近付くような感じがするのである。

ダイニングルームでは、お茶やコーヒーを出してくれ、冷えた体を温めることが出来る。テーブルを見ると、昨日ご一緒した母娘がいて朝の挨拶をした。父娘はまだ来ていなかった。コーヒーを飲んでいると、その父娘がやってきた。同じように朝の挨拶をしたが、お父さんの姿には、ちょっとびっくりしたね。何故って、かなり寒いのに、半袖半ズボンなのだ。「それでは、寒いですよ。」と言うと、「否、大丈夫です。」とかなりの気合の入れようなのだ。しかし、明らかに無謀と思えたので、「本当に寒いから。」と着替えて来るように促した。母娘もそれを見ていて、着替えてくるように後押ししてくれた。お父さんは、皆にそう言われ、ばつが悪そうに恥ずかしがりながら、「では、急いで着替えてきます。」とバンダに走って帰った。それを見ながら、「寒いからって言ったんですけど、大丈夫だって聞かないんですよ。」と、防寒対策ばっちりな娘が恥ずかしそうに言った。否、否、その気合の入れよう、僕は好きですよ。むしろ、そのままサファリに出て、マラの冷たい洗礼を受けるのも良かったのかもしれないな、なんて意地悪なことを思ってしまった。

その父娘とは、昨晩食事をご一緒していた。僕を誘ってくれたのだ。お父さんは、とても温厚な感じがして、その娘もまた、父親に甘えるのではなく、しっかりとした娘に感じた。話を聞いていると、どうやら親の呪縛から逃れたい娘と、心配で仕方ないと言った親の、温かく微笑ましい関係が感じられ、ついつい微笑してしまった。今回の旅行は、娘にとっては初めての海外旅行なのだと言う。それには、僕も驚いたね。だって、初めての旅行にケニアを選ぶとは、かなり大胆、且つ冒険心がなければ、そうそう出来るものじゃない。しかも、一人で来ようと考えていたと聞いて、僕は気に入ったね。見た目は、のんびり屋さんのようなのだか、かなり芯のしっかりした娘さんなのだ。お父さんは、娘がケニアに一人で行くと聞いて、心配になって慌てふためき、だったら一緒に行くと決めたそうだ。そんな話を聞くと、とても心が温かくなるね。僕らは長袖長ズボン、ウィンドブレーカーを着込んだお父さんが来るのを待って、レセプションに向かった。

午前6時過ぎ。ウィリアムさんの運転するサファリカーに乗り込み、出発した。まだ外は暗い。茶色い道が、ヘッド・ライトに照らされ浮かんで見える。がたがたと揺れながら坂道を下る。クリークを渡りきって、少し行くと小さなゾウの群れがいた。その遥か頭上には、青い空に、まだ光を弱めることなく朝の月が輝いていた。少し行くと、朝日が昇り始めた。ウィリアムさんは車を停め、「タイヨウ、キレイ。」と日本語で言った。

太陽がゆっくりと、平べったい稜線から顔を出していた。太陽の周りはピンク色に染まり、離れるほどに微妙にグラデーションを変え、紫色を帯びている。両手一杯に拡がった、開放的な空間が、その雄大さをさらに強く感じさせた。何度見ても飽きることがない。壮麗なスペクタクルである。この瞬間を見るだけでも、価値があると思うね。とは言え、マサイマラはもっともっと深遠で、美しく、興味深いのを僕は知っている。オレンジ色を瞳に映している同乗者たちの、一人一人の顔が、明るく照らされていた。

車はエア・ストゥリップに向かう道に入った。しばらく行くと、ゾウがいた。オレンジ色に染まった草原に、とても良く似合う。1頭のゾウに近づいて、車を停めた。ゾウは僕らを気にもせず、穏やかに、草を食べている。長い鼻を器用に使い、草を毟り取って口に運ぶ。そんな光景を見ていると、何故か落ち着く。僕らは、知らない内にマラの時間に心も体も委ねていた。

車はゾウから離れ、ぐるりと草原を回った。その先にはバッファローがいた。その動物は気性が荒く、時にはライオンよりも危険な存在なのだ。とても危険な動物なのだと、ウィリアムさんから何度も聞いていた。しかし、そこで見たものは、穏やかに草を食み、のんびりとリラックスした表情だった。大きな角が額から分かれて両サイドに伸びている。それ を、真ん中分けしている髪型みたいだと、ビデオを回しているお嬢さんが言った。確かにそう見えるのだ。そして、「セバスチャンみたい。」と言った。言われると、なるほどと思ってしま う。しかし、何故「セバスチャン」なのか? 僕はふと考えてみた。すると、それはアニメの「アルプスの少女ハイジ」に登場してきたセバスチャンに行き着いた。何だか可笑しくなってきたね。そして、そう表現した彼女を可愛いなって思った。

その向こうには、シマウマの群れがいて、走ったりしながら、じゃれあっているのが見えた。それが、なんとも微笑ましく、心が和むような気持ちになる。皆も同じだった。此処では、皆が同じ気持ちになれる。そんな気がした。

車はオロロロ・ゲートを抜け、昨日走った道を進んだ。昨日見たヌーの群れは移動していて、その先にいた。しかし、そのさらに先には、草原を埋め尽くさんばかりのヌーの大群がいて、「ほう!」と溜息をつくぐらいだった。道の両サイドには 数えられないほどのヌーがいる。前方に道を塞いでいるのが見えるが、車が近付くと慌てて避けた。それが、車の進行方向に対して、直角に横切るものだから、ひやひやする。実は、それはヌーだけでなく、シマウマやインパラなどもそうなのである。何故だか分かるかな?それは理に適っていて、捕食獣から逃れる術でもあるのだ。つまり、進行方向と直角に動くことは、捕食獣にとっては捕らえ難いと言うことになるからね。何故、態々横切るのかと思う方もいると思うが、そう考えると理解できますよね。

その先は、道の両側が湿地のようになっているのが分かった。やはり大量の雨が降ったのだ。たぶん、この辺りの土壌は粘土質で、水が溜まりやすいのである。でも、雨が降れば、それもまた楽しいことがある。エランドの小さな群れがいて、車を停めると、周りから「フォワ!」「フォワ!」っと声が聞こえてきた。それはカエルの声だった。乾いた大地を知っている者にとっては、それさえ不思議である。何処にいたのかと思いたくなるのだ。彼らは、乾期の間、地中に潜って、雨の降るのをずっと待っていたのである。広大なサバンナに響くその声が、とても穏やかに思えた。

車はセレナの丘に向かっていた。乾期の雨の降らない時期であれば、もっと前でショート・カット出来る道があったのだが、雨のために、遠回りしなくてはならなかったのだ。しかし、僕らはハーフデイ・サファリなので、時間には余裕がある。特に気にすることもなかった。

分岐に道標が見え、セレナ・ロッジの方向に進む、別の道を進んだ先には、タンザニア国境がある。セレンゲティと繋がっているのだ。国境に広がるサバンナは、太古の大地と、悠久の時間を感じさせる。残念ながら、今回は行くことがなかったが、その光景も素晴らしい。どこまでも草原が続き、自分が本当にちっぽけに思えてくるのである。

セレナのエア・ストゥリップの横を通り、セレナ・ロッジに向かう登りの手前で右に折れた。丘を回るように緩やかにカーブを下り、そしてセレナから離れるように、坂を上がった。その先は以前、車に慣れたチーターの家族に出合った場所だった。(ケニア旅行記2を参照されたし)この一帯は、草丈の短いフラットな草原で、チーターにとっては恰好な場所なのである。つまり、走りやすい猟場なのだ。

少し進むと、セレナの車が停まっていた。近付くと、見覚えのある顔があった。セレナのドライバーのジョンである。僕は手を上げて挨拶した。彼も僕を覚えていてくれ ていたのが嬉しかった。ウィリアムさんが、「ジョンを覚えているの?」と聞いたので、「Yes!」と応えた。

丘を上がると、遠くハゲワシが集まっているのが見えた。他のロッジの車もいる。近付いてみると、ハゲワシが死肉に群がっていた。ハゲコウもいた。小さなジャッカルは、食べたいのだけれど、遠巻きにそれを見ているだけだった。それが何かは分からなかったが、大きさから察するとヌーではないかと思われた。もしチーターがこれを倒したのだとしたら、かなりの凄腕である。チーターはあまり力が強くないので、多くは小さなレイヨウなどを襲うのだ。しかし、中には凄腕のハンターがいて、ヌーなどの大型の草食獣を倒したりする強者もいたりするのだ。このマラにも、そう言ったオスのチーターがいるのを僕は知っている。彼とは一度だけ出合ったことがあった。

僕らが見ている間、ウィリアムさんは、ジョンや他の車と無線で連絡を取り合っていた。そして、車が動き出したと思ったら、他の車も同時に動き出した。そして、間隔を保ちながら走っている。皆でフォーメーションを作って、チーターを探そうと言う訳である。しかし、なかなか見つからない。こんな、ただ広いところで探すのだから、当然のことである。むしろ、見つからない方が多いと思うね。そんな時、ウィリアムさんが車を停めた。前方には、トムソンガゼルがいて、皆が同じ方向をむいているのが見えた。僕の緊張感は一気に高まった。彼らの見る先には、きっと何かがいるのを直感的に分かったのだ。しかし、分からない。と、ウィリアムさんが、「チーター!」と言った。僕には分からなかった。彼は素早くクラッチを繋ぎ、車を発進させた。車がその方向に進む。「いた!」僕はようやくその姿を目に捉えた。「どこ?どこ?」と車内は慌しくなる。皆の興奮が伝わってきた。黄色に黒の斑点のある姿が近付く。本当に美しい。車は回りこむように、彼の前に停まった。ベスト・ポジションである。僕らが一番最初に見つけたのだ。さすがウィリアムさんだね。彼には文句なしに脱帽するね。僕はまだまだ彼の足元にも及ばないのを感じた。

チーターは子供のトムソンガゼルを食べていた。まだ仕留めて、そんなに時間は経っていないように思えた。彼は首から背中にかけて、子供の特徴であるタテガミが残っていたので、若い固体だった。なので、先ほどのヌーを倒したのは、彼ではないと思う。しかし、食事中のチーターに出会えたのは本当に嬉しかった。残酷さは全く感じない。むしろ美味しそうである。僕は夢中になって、カメラを向けていた。それは、他の皆も一緒だった。本当に美しい生き物である。ふと、ウィリアムさんを見ると目が合った。彼は優しく笑みを浮かべた。僕は親指を立てて、それに応えた。

次から次に車がやってきた。ウィリアムさんが、無線で知らせたのだ。僕らは、どうだと言わんばかりに、一番良い位置で観察を続けた。全てウィリアムさんのお陰だけどね。僕は夢中になってシャッターを押し続けていた。他の人たちも同様で、フィルムを使い果たして、何度もフィルムを巻き戻す音が車内に聞こえた。こう言う時は、やはり2GB(ギ ガバイト)の記憶メディアがあると心強いね。残枚数など気にせず撮りまくることが出来るのだ。しかも、ズームが凄い。これまでと同じレンズなのだが、300mm480mm相当になり、大迫力である。撮っていて本当に嬉しくなった。

かなり長い時間、そこにいたと思う。ウィリアムさんが、僕に「もう良いか?」と聞いたので、頷いた。かなり車が集まっていたので、場所を空けてあげるためだった。マラではお互いさまなのである。皆が良いシーンを見られるように、持ちつ持たれつの精神なのだ。そう言ったことを感じるのも嬉しいね。とは言え、僕らは特等席で十分満足するほど見られたので、離れるに際し、全然悔いはなかった。

車は一旦セレナに向けて戻り、右折した場所の少し向こうで、今度は左折した。つまりセレナの丘の反対側に向かったのだ。その先には、蛇行するマラ川と開けた草原がある。セレナ・ロッジから見渡せる場所である。シマウマやトムソンガゼルがいる。バブーン(ヒヒ)もいた。ふと、腰の低い動物の姿を見つけた。ハイエナである。1頭だけで、車の前方を横切り、逃げるように去っていった。その先に、白と黒の鳥がいた。「セクレタリー・バード」と僕は言った。横にいた、お母さんが、それは何?と言うような顔をする。咄嗟で日本名が思い出せない。「ヘビクイワシ」と言った時には既に車は離れてしまっていた。「え?ヘビクイワシ? それって見たかったのよね。」とお母さんが残念そうに言った。う~ん、日本名より英語名を先に思い出すなんて、僕も変な奴だね。マラでは結構ヘビクイワシを見ているので、「たぶんこれからも見られると思うよ。」と言ったが、実際は見ることが出来なかった。お母さん、ごめんね。次回、見に来ましょうね。

車はマラ川に沿って少し走って、潅木の茂る川沿いに停まった。ウィリアムさんが、外に出て、僕らの座る後部のドアを開けた。そうである。今日の朝食は、ここで取るのである。マラに足を下ろす。スニーカーの底に硬い土を感じる。周りを見ると、後ろには草原が広がっていて、シマウマの群れがのんびりとくつろいでいる。川に近付くと、断崖になっていて、2mほど下を茶色い水が流れていた。そこには数頭のカバがいて、頭と鼻を水面に浮かべていた。その向こうにはワニの姿もあった。

ウィリアムさんは、車からマットを取り出して、木陰に敷き始めた。そのマットは紅のチェック柄で、マサイの纏っているのと同じものだった。さすがにお母さんは気が利き、ウィリアムさんの手伝いを始めた。2人でするその姿が、なかなか名コンビに見えた。すると、ウィリアムさんが、「ポレポレ・ママ」と笑って言った。それからお母さんは、皆にポレポレ・ママと呼ばれることになった。なので、これからは母娘はポレポレ親子、そして父娘の方はサワサワ親子と勝手に呼ばせて頂こうと思う。ちなみに、「ポレポレ」とはスワヒリ語で「ゆっくり」と言う意味で、「サワサワ」とは「OK」と言う意味である。

車からクーラーボックスが運ばれて来て、マットの上に置かれた。開くと、中にはポットにティーカップと受け皿、そして、大きめの白いタッパーが人数分入っていた。僕らはタッパーを受け取りマットに座り込んだ。ウィリアムさんが、一人づつ「お茶かコーヒーのどちらが良いか?」 と聞く。そして、「スワヒリ語では、ホット・ティーはチャイ・モト、ホット・コーヒーはカワ・モトと言うんだ。」と教えてくれた。それを聞いて、皆が「へぇ~」と声を上げる。僕は知っていたので、それを微笑ましく眺めていた。「これから川本さんにあったら、コーヒーを思い出しちゃうね。」とママが笑って言った。実はこの話には続きがある。ポレポレ娘が帰国して、会社のお友達にこのことを話したそうだ。すると、「緑茶はヤマモトだね。」と返ってきたそうだ。なかなか上手いことを言うじゃないの!これには1本取られたね。

タッパーを開くと、中にはクロワッサンとベーグル、ハムとチーズを挟んだトーストのサンドイッチ、それから、ソーセージにゆで卵、デザートに小さなリンゴが1個、そして ペアー(梨)ジュースのパックが入っていた。温かいお茶とコーヒーが配られ、お弁当を食べる。青いマラの空の下で食べるサンドイッチは最高である。皆の顔のひとつひとつが、向日葵のように開いていた。木漏れ日が地面で揺れている。その向こうには、カバたちがのんびりと浮かんでいる。そして、木々の向こう側にはシマウマがいるのだ。彼らと同じ大地に胡坐をかいて、食事するなんて、なんて贅沢ではないか。ロッジの美味しく洗練された料理も良いが、僕にとっては、簡単なものであっても、こうやって動物たちの棲む同じ大地で食べることの方がずっと楽しい。この楽しさは、何にも変えられないね。だから僕は、ここに戻って来た時は、出来る限りハーフデイ・サファリをすることにしている。

食べ終わった後、僕らは一緒の写真を撮ろうと言うことになった。まずは僕がカメラを皆に向けた。一眼デジカメには望遠ズームが装着されているので、コンパクト・デジカメを使うことにしたが、液晶 画面に皆の姿が入りきれていないので、もっと寄るように促し、僕も後ろに下がった。すると、ポレポレ・ママが「もっと後ろ、後ろ。」と笑って言う。振り返ると、後2歩下がったら、川へボチャンだった。おどけて見せると、大笑いになった。何だか、とても嬉しくなった。勿論、川に落ちずに皆の写真を撮ったよ。そして、皆に送ることを約束した。帰国してその写真を見てみると、皆の明るい笑顔が写っていて、とっても良い写真だった。

その後、僕らは車に乗り、マラ・トライアングルをサファリした。そこでは、ライオンに出会うことが出来た。そして、ロッジへの帰り道、ママが「これでカメが見られたら最高なんだけど。」と言った。何故カメかと言うと、実は昨日のサファリの途中、僕が道にカメの姿を発見したのだが、チーターを見ようと車は停まらずに先を急いだのだ。なので、カメを見たのは僕一人(ウィリアムさんも分かっていたと思う)だけだった。それで、そう言ったのだ。

僕が昨日カメを見た付近に差し掛かると、サファリカーが路肩に寄って停まっているのが前方に見えた。近寄ってみると、なんとそこにはヒョウモンリクガメがいたのである。チーターと言い、カメと言い、幸運続きである。「今日はラッキーデイだね。」と皆で口々に言った。そして、ハーフデイ・サファリのことを教えた僕に感謝してくれた。しかし、僕としては自分がそうしたかったのだし、逆に皆が賛同してくれて良かったと思っていたので、お礼を言われて、妙に恥ずかしい気がしたね。でも、本当に最高のサファリだった。やはりこのお礼は、ウィリアムさんにするのが一番相応しいと思う。

「ウィリアムさん、素晴らしいサファリをありがとう!」

 

TOPに戻る

 

午後の光

ハーフデイ・サファリから帰ってきた後は、予定は全くなく、自分の思うままに過ごすことが出来る。とは言え、好奇心旺盛で、色々と体験したい方々には、ロッジでは、オプショナルとして、ウォーキング・サファリや、楽器作りなど用意しているので、それに参加するのも良いだろう。しかし、僕はそれには参加せずに、気ままに自分時間を過ごすと言うのが、お決まりだった。だらしなく、怠惰に過ごすのが好きなのである。

ランチの時間であったが、僕は行かずに、裸足で、テラスにデッキチェアーを持ち出し、水で薄めたウィスキーを飲みながら、午後の光に包まれたサバンナを眺めていた。実は、最初にここに来た時は、勿論ランチを食べていたのだが、美味しいのもあり、また運動する訳でもないので、帰る頃には、胃がかなり疲れてしまった。それで、2回目からは、ランチを抜くと丁度良い体調になったので、よほどお腹が空いていない限りは、取らないことにしているのだ。それは、セレナ・ロッジに泊まった時もそうだった。しかし、レストランに行ったら、きっと食べたくなるだろうね。 それは、とても美味しそうだからである。やはり、初めて来る方には、毎日3食、食べてもらいたいと思うね。太って帰ること、間違いないです。ムパタの食事は、本当に美味しいです。勿体無いなって気もしますが、やはり自分の体調は自分で管理しな ければならないので、僕の場合はそうしたのですが、少しずつ適量食べるのなら、3食食べるのが一番です。僕はがっついてしまうので、駄目ですね。食いしん坊は、そうそう変えられるものではないようです。

しばらくマラ川の蛇行する様子や、向こうに見えるマサイの家々を見たり、その更に向こうにある小さな三角形の影を探したりしていた。その影とは、マサイマラにあるゲートの一つの、ムシアラ・ゲートである。それを肉眼で見つけ、双眼鏡を持ち出して、更に確かめた。何故、初めから双眼鏡で見なかったかと言うと、自分の肉眼で見つけたかったからである。自分の視力を確かめるためでもあった。また、日本で衰えた目の筋肉を鍛え、視力を回復させるためでもあった。マラに来ると、きっと視力が良くなって帰ると思うよ。とにかく、遠く、さらに遠くを見詰めたくなるのである。

遠くに視線を置き続けていると、頭の中が次第にクリアーになってくる感覚がある。目を通して、頭の中に爽やかな風が吹き込み、淀んでいたものを吹き飛ばすのだ。不思議な感覚である。縮こまっていた脳が解放され、自然と同化しようと、一気に昇華するのである。目を通して、広大な空と大地が、それと同じ大きさで、頭の中にあるのだ。その感覚はナチュラル・ハイと言って良いのかもしれない。僕は明らかに覚醒し、一瞬、自然と一体となるのだ。しかし、それは一瞬で、自己に再び戻ってくる。しかし、一瞬であるけれど、望めば何度でもその感覚に陥ることが出来る。それは、もしかしたら、僕らの祖先の記憶が残っているからなのかもしれない。アフリカの大地だからなのかもしれない。

午後2時にほど近い頃、ロッジの敷地内を歩こうと思った。ロッジには、遊歩道があって、散策出来るのである。しかし、今は当初に比べ、歩ける道が少なくなってしまっていた。それは、やはり歩く人があまりいないので、ウォーキング・サファリやスタッフが歩く場所意外の手入れも行われなくなり、草に覆われ、今は崩れたベンチに、僅かにその面影が残るだけである。でも、そこはバブーンの通り道になっているようで、草が倒され、小さな細い獣道になっている。

僕はスニーカーを履き、コンパクト・デジカメを持ってバンダを出た。昼の太陽は眩しく、じりじりと肌を焼く。しかし、爽やかな乾いた空気が、それをあまり感じさせない。石畳の道の両側には、良く手入れされた緑の木々が茂り、時折、鳥の姿が見え隠れした。ダイニング・スペースのあるクラブ・ハウスの前を通り、その先には澄んだ水が張られたプールがある。その光景だけを見ると、ひと泳ぎしたくなるのだが、誰も泳いでいなかった。それと言うのも、かなり冷たいからである。マサイマラは標高が1700m以上あり、赤道に近くても、かなり気温が低くなるのである。日中は28℃ぐらいあるのが、早朝では12℃にまで下がり、防寒着が必要なぐらいである。なので、プールの水も冷たく、もし泳ぎたいのなら、水の温む午後2時前後が良いと思う。とは言っても、それでも冷たいけどね。僕はムパタに5回来ているが、まだ一度も泳いだことがない。それは、泳ぎが下手だからと言うこともあるけどね。しかし、これがヨーロッパやアメリカからの滞在者が多いと、そうでもなくなる。彼らは、僕ら日本人とは基礎代謝量が違っているようで、冷たい水でも平気で泳いで、日光浴を楽しんでいる。日本の冬に、僕らがコートを着込んでいるのに、半袖で歩いている外国人を見かけたりすることがあるけど、何となく分かる気がするね。

プール・サイドを横切り、その向こうの道に進む。一番端のNo.23のバンダまで石畳の道は続いていて、その先は、草を踏み固めただけの道があった。僕はその道に躊躇なく入り、進む。その向こうは、視界が開け、マサイマラを眺望出来る、最高の場所なのを知っていたからだ。実はこのNo.23には以前泊まったことがあった。スィート・タイプのバンダで広く、外にはジャグジーも備えているのだ。ジャグジーに入りながら見る雄大な景色は、それはそれは最高なのである。その先は崖になっていて、何も妨げるものはない。足の向こうには、大きな空間が拡がっている。そのままポンと大地を蹴って飛び出すと、そのまま飛んで行けそうな気持ちになるぐらいだ。不思議に恐怖心は沸いてこない。マサイマラは僕を優しく包んでくれていた。

崖に沿って、草むらの中を小さな道が続いている。そこを進む。目は右に左に下に上に、ゆっくりと見回しながら進む。何か面白い生き物でもいないかと探していたのだ。カメレオンなど見つけられたら、なんて思っていた訳である。しばらく行くと、崖から離れ、小さな林に入った。地味な茶色の蝶はいたが、それ以外に動く物はなく、静まり返っている。林を出て、坂を上る。歩くのが気持ち良い。ロッジの敷地であっても、アフリカの大地をこの脚で歩いているのだと思うと、楽しく、そして嬉しくなってくる。ほんのりと額に汗が滲み出てくるが、乾いた風がすうっと吹き抜け、たちまち蒸発してしまう。それが、冷んやりとして爽やかである。胸一杯にマラの空気を吸い込み、輝ける大地を感じながら歩くことが、とても幸せに思えてくる。一人のちっぽけな人間だけど、生きているのがとても素晴らしいと感じるのだ。何処までも透き通った青い空に真っ白な雲が浮かんでいた。

少し行った先に、ほとんど獣道と言ってもよいぐらいの小道があり、左に折れた。その先にはロッジのゴミ捨て場があるのを知っていたからだ。しばらく歩くと、ビニール袋が落ちていた。さらに進むと、プ ラスティックの欠片などもあり、ゴミ捨て場が近いことが分かる。木陰の向こうに、灰褐色の土が見えた。その木をぐるりと回ると、そこにゴミ捨て場が見えた。スパゲッティの袋や、穴の空いた洗剤の容器などが落ちている。ゴミ捨て場は、大きな穴が開けられていて、そこにゴミを入れて燃やしているのである。そこには、生ゴミだけでなく、ビニール製の袋や、プラスティック容器なども含まれていた。そして、穴が一杯になると、土を盛って埋め、また穴を掘って捨てると言うことを繰り返している。こう言った話を聞くと、たぶん多くの人が幻滅すると思うが、他のロッジでも同じようなものである。

先進国の常識から言えば、ゴミの分別は当たり前であるが、ケニアではまだそこまで行える余裕がないのである。マサイマラでのゴミの収集や、高温の焼却炉が無く、また、それに掛ける費用など、実施するにも、色んな障害をクリアーしなくてはならないのである。 話しは異なるが、ナイロビに行けば、排ガス規制などなく、一酸化炭素と二酸化窒素、カーボンなどを撒き散らして車が走っている。もし排ガス規制などしたら、ケニア中の殆どの車が走れなくなるだろう。皆、おんぼろの日本車を、何度も修理しながら大切に使っているのである。とても、新車を買うなんて出来ないのだ。なので、ナイロビの空気は本当に汚い。しかし、それを駄目だとどうして言えるのだろうか?それが可能になるには、国や人々がそれなりに豊かでなければ出来ない。そして、このマサイマラでも同じなのである。

しかし、何とかしたいものだと思う。 とは言え、それ以上に緊迫した深刻な問題を、今のアフリカは持っているので、取組む優先度から言っても、そう高くはないだろう。しかし、僕らの子孫に、この素晴らしい自然を残していく義務があるはずである。少しずつでも良いから、皆で取組んで欲しいと思う。そう思うのだが、理想ばかりで具体的な方法など浮かばないし、実行するには多くの問題をクリアーにしなければならない、僕は自分の無力さを痛切に感じた。プロジェクトを組んで、地域や政府、援助団体など、大きな流れを作っていかなければ実現はなかなか難しいと思う。

しかし、僕らにだって出来ることがある。とにかく、生ゴミ以外のゴミを出さないようにすることである。モルジブやフィジーなどでは、既にそう言った取り組みも行われている。極力そう言ったゴミが出ないように、様々な努力がなされている。そんな取り組みを参考にしながら、マラ・コンサンバーシーが音頭を取って、全てのロッジと一緒に取組んで行けば、次第に環境に優しいロッジになって行くと思う。今は自然が広大で、気にしていない風にも感じるが、影響が出る前に取組んで欲しいものである。この自然こそが、大きな観光資源であり、収入源である以上、かならず取組まなければならなくなるのは確実である。「マサイマラを守る会」なんて、NGOを作って、大きな流れを作ることが出来たら素晴らしいんだけどな、なんて思ってしまった。

ゴミ捨て場に足を踏み込んで2、3歩進んだ時だった。ガサガサと大きな音を立てて、何かが草むらを移動する音が突然聞こえた。僕の存在に気付き、何者かが逃げ出したのだ。僕は一瞬緊張し、音のする方向を目で追った。そこには、灰色の体を左右に振りながら、バタバタと早足で走っていく、オオトカゲの姿があった。僕の目がそれを捉えた瞬間、急激に気持ちが高まった。鼓動が早くなり、血流が早くなる。わくわくした楽しく、嬉しい感情が一気に膨らみ、風船が割れるようにパチンと弾けた。ナイル・オオトカゲだった。以前エア・ストゥリップ付近で見たものよりかなり大きく、体調1mはあると思われた。ゴミ捨て場の餌を食べてまるまると太っているようである。以前ここで活動していた、日本人ガイドのナオクニ君(ケニア旅行記2を参照されたし)から聞いてはいたが、ここに住むオオトカゲを見たのは初めてだった。

カメラの電源を入れ、腰を低くしてオオトカゲの隠れた潅木に近付く。葉の茂る根元付近から、半身が出てきた。こちらを確かめるように見ているようだ。カメラを最大望遠にして近付け、シャッターを押そうとした瞬間、再び木の陰に隠れてしまった。ゆっくりと近付きながら、様子を見る。すると、今度は反対側から顔を出した。今度こそカメラに収めるぞと思い、カメラを向ける。すると、液晶画面の中に、彼の姿だけでなく、スパゲッティの包装紙が映っているのに気付き、一瞬躊躇してしまった。それがいけなかった。彼は再びさっと木陰に隠れると、それ以降出てこなかったのだ。僕は木陰に近付いて、回りをよく確かめた。すると、木に根元に、大きな穴が空いているのを見つけた。きっとオオトカゲの巣なのだろう。地面まで届く枝に葉をつけた木が、その巣をやさしく匿っているようだった。そして、その巣の前に、へこんだ黄色のプラスティク容器が転がっていた。僕は、嬉しいけれど、何故か哀しい、そんな気持ちを胸に、そこから離れた。

その後、ロッジの野菜畑に行ってみた。ウォーキング・サファリでも立ち寄るそうである。畑の入口に行くと、丁度スタッフがいて挨拶を交わし、中を見ても良いかと尋ねると、快く応じてくれた。彼はこの畑を管理していると言う。そして、育てている野菜を一つ一つ指差して教えてくれ、僕を案内してくれた。入口を入ってすぐに、バナナの木があった。頭上に大きく広がった葉の根元には、熟す前の、緑色のバナナの房がなっていた。奥には、見るからに元気そうに葉を広げる青菜が一面に植えられている。それは、「スクマ・ウィキ」と呼ばれる青菜で、現地ではよく食べられている野菜である。通常は簡単に「スクマ」と呼ばれている。主に炒めたり、茹でたりして食べられている。灰汁が強いので、生食には適していない。青汁の素なのだ、と言えば分かって頂けると思う。この野菜はゲスト用ではなく、スタッフたちの食事のために植えられているのだ。それでも、僕は何度か食べているが、結構好きである。

畦道を挟んでスクマと反対側にはニンジンが植えられていた。ニンジンは茎に幾つもの細い葉が付いて、それが明るいグリーンで綺麗である。ニンジンの向かいにはホウレンソウがあった。こちらも強い太陽光のお陰で元気に育っており、ぱっと見、スクマと見間違えるほどである。日頃、日本で売られている物とは、およそ違った、これこそホウレンソウなのだと言わんがばかりの丈夫さ、元気さ、そして逞しさがあった。太い茎には、太く白 い葉脈の大きな葉が付いていて、その白い部分だけを見ると、白菜のようだ。とは言え、その肉厚の葉は薄っぺらな白菜など全く相手にしていないと言うような感じである。凄いものだなと、その違いに驚きを覚えた。その奥にはタマネギやネギが植えられていて、そのままぐるりと回ってくると、そこにはトマトがあった。まだ紅くなっていない硬い実が付いていたけれど、幾つもなっていて、これも順調に育っているようである。入口の方に数歩進むと、そこにはナスがなっていた。日本でよく見る細長いナスではなく、米ナスのように、丸っこいものだった。小さく、収穫はまだ先かと思われたが、黒紫色で艶があり美味しそうだった。以前、ケンさん(Chapter SAGRETに登場)に聞いたことがあるのだが、ケニアは赤道に近く太陽光が強いので、あまり日に当てると、ナスの皮が厚くなって、食べた時に硬いと感じるそうである。ここで育てられている野菜は、スクマ以外は全てレストランの食事に出されているが、僕は特にこのナスが好きである。確かに皮は硬いが、とても味があるのだ。日本の水っぽいナスなんて、本来のナスの味じゃないと思えてくるね。

そこに白服の男がにこやかにやってきた。僕らは挨拶と握手を交わした。彼は ムパタの若いシェフで、野菜の状態などを見に来たのだ。話をしていると、仕事の話題になった。僕は普段はオフィス・ワークをしていると言うと、ホワイト・カラーは良いねとシェフが言った。どうやら彼らの中では、ブルー・カラーはホワイト・カラーの下にあると 言う意識が強いようなのである。さすがにイギリス統治下にあった国だなと思った。確かにケニア人の多くが同じような意識を持っていると感じたことがあるが、改めて面と向かって言われると、やはり、そうなんだと思った。しかしイメージ的に、シェフもブルー・カラー なのかと疑問を持ち尋ねてみると、やはりそうなのだと言う。厨房で汗を流し、肉体労働をしているからだそうである。先進国とは、その辺りの意識は大分違っているようだ。とは言え、僕には違いなど無かった。
 そして、僕は彼らにこう言った。「僕はホワイト・カラーもブルー・カラーも同格だと思っているよ。むしろ、ブルー・カラーの仕事は基盤の仕事であり、とても大切なものだと思う。だから、僕は君達を尊敬しているよ。 」
 それを聞いて、二人はとても素敵な笑顔で笑った。その笑顔を見て、写真を撮りたくなった。撮らせてもらえないかと尋ねると、快くOKしてくれた。僕は爽やかに微笑む2人の男にカメラを向け、シャッターを押した。

クラブ・ハウスに戻ってみると、エントランスを入ってすぐ右にある書斎スペースに、知った姿を見つけた。一緒にサファリを楽しんだポレポレ親子である。2人の間には、色鮮やかな衣装を纏った漆黒の肌の娘が座っていて、なにやら一緒にやっている。近付いて見てみると、ビーズのアクセサリー作りを、マサイの娘から教わっていた。これも、ロッジのオプションにあり、午後ののんびりした時間に、自分だけのアクセサリーを作るのも楽しいと思う。僕はやったこと がないけれど、なんとなく面白そうだったので、側で見させてもらうことにした。「こんにちは!」と挨拶をした。母娘は手元から顔を上げ、僕をみて明るい笑顔でそれに応えた。マサイの娘は、はにかみながら、口元に微笑を浮かべた。彼女は近所のマサイで、知っている顔だった。控えめでシャイな、とても可愛い娘だった。

小さなテーブルを挟んで、向かいの椅子に座った。5、6色のビーズを使ってブレスレットを作っていた。それは、色を並べただけの単純な物だった。やはり慣れていないと、マサイの作る幾何学的な美しい模様の物は、作るのが難しいのだろう。僕が思うに、その幾何学模様は、頭の中にイメージとしてあって、それを元にビーズを繋げているのだろう。何となく、ペルシャ絨毯を織るのにも似たような感じがした。それを限られた時間内に具現化するには、やはり経験が必要なのだろう。 ポレポレ娘の方が器用にビーズを繋げているのに反し、母の方は上手くいかないのか、並び方が均一になっていなくて、四苦八苦していた。それを見かねたマサイの娘が、それを取って、修正を掛けた。僕はマサイの作るアクセサリーやお土産の話をしながら、その様子を見ていた。

マサイの娘が、小さな蝋燭を取り出して、それに火を点けた。小さな炎がゆらゆらと揺れた。何をするのかと見ていたら、先ほどまでビーズを巻いていた黒色の帯を近づけるのだ。良く見て見ると、ビーズを巻いた帯はゴムの板だった。たぶんタイヤを切り刻んだものじゃないかな。そのゴムの端を、炎に近づけ、その切り口を熱する。切り口は熱によって柔らかく溶け、冷めない内に、反対側の切り口に合わせると、くっついて輪になるのである。「へぇ~」とその生活の知恵に驚いた。マサイの美しいブレスレットは、時代を超え、今ではタイヤのゴムで作られているのだ。廃物利用とは言え、むしろそれが凄いと思った。美に対する意識の強さと、自由な発想が素晴らしいと思ったのだ。

出来上がったブレスレットを並べてみると、角の部分が明らかに違っていた。娘のそれは、綺麗に均等にビーズの粒が並んでいるのだけれど、母のそれは、ちょっと凹凸していたのである。それを見て、娘が得意気な顔をして笑った。でも「普段はお母さんの方が器用なんですよ。」と気遣うのを忘れない。お母さんはそれがとても悔しかったのか、「眼鏡を持ってくるのを忘れちゃったから。」とちょっと恥ずかしそうに言った。よほど娘に負けたのが悔しかったようだ。その仲の良い親子の様子を見ていると、こちらまでも嬉しくなる。「お母さん、眼鏡がなかったからですよね。分かっていますよ。」僕は本当にほのぼのとした、楽しく、優しい気分になっていた。

マサイの娘から、その親子はお土産用に、彼女が作ったアクセサリーを十数個買った。僕の知っている限り、かなり安く買えたと思う。それは、やはり彼女(マサイ)が擦れていなく、シャイなので、僕らの値引き交渉に、つい頭を下げてしまったようだ。素敵なマサイのアクセサリーを買えて、母娘とも嬉しそうだった。それを見ている僕も何故か嬉しかった。そして、今度来るときは、浅草辺りで何色ものビーズを買ってきて、彼女 (マサイ)に、プレゼントしてあげたいなって思った。それが、とても素敵な考えに思え、次回はそうしようと今から思っている。

ポレポレ親子と別れ、自分のバンダに向かう。午後の少し傾いた光に照らされ、全てが輝いていた。

 

TOPに戻る

 

ラッキー・デイ

3日目も、ハーフデイ・サファリに行くことになっていた。皆が昨日の素敵な体験を、また感じたいと思ってくれたからだった。僕は、それが嬉しかった。まだ暗い中、星を眺めながらクラブ・ハウスのダイニング・スペースに行く。そこには、既に皆の姿があった。さすがにサワサワ・パパも、防寒着を着込んでいたね。朝の挨拶を交わしてから、僕は皆にこう言った。「今日は、もしかしたらラッキーなことが起こるかもしれませんよ。」それと言うのも、今朝、バンダを出る前に、いつものように星の煌く宇宙を見ていると、ひゅっと一筋、縦に流れる流れ星を見たからだった。そう言うと、サワサワ・パパが、「私も来る前に見ていたんですが、流れ星は見なかったなぁ。」と少し羨ましそうに言った。

僕らはウィリアムさんの車に乗り込んだ。さあ出発だ。まるで家族のように、和気藹々としている。リラックスした雰囲気が楽しい。マラに来ると、親も娘も、独り者の男も、皆自然でいられるのだ。格好を付けたり、つまらない自尊心などに固執しているのは、阿呆らしくなるほど、マラは大きく雄大だからなのかもしれない。否、それ以前に、そんなことはすっかり忘れ、純粋にマラを感じたいと、皆が思っていたからなのだと思う。きっと、日本で出会っていたら、こんな風にはなれなかったと思う。マラだからなのだと思う。

車はまずオロロロ・ゲートに向かった。ゲートを抜けると、ウィリアムさんが、「此処はライノのテリトリーだ。」と言った。昨日までは、そんなことは言わなかった。これは何かの情報を掴んでいるな、と僕はピンときたね。確かに、この辺りはクロサイのテリトリーであるが、その範囲はかなり広大なので、なかなか見ることが難しいのである。しかも、マラに生息するクロサイは、たった3頭だけなのだ。彼がそう言ったことで、かなり確実な情報があったと推測された。そうなると、心が自然に高揚してくる。

実は、クロサイは今回の僕の旅の目的でもあった。僕はそのクロサイを見たいと強く思っていたのだ。それと言うのも、去年(2004年)の5月に赤ちゃんが産まれ、すくすくと育っていると聞いていたからだった。もっと詳しく言うと、赤ちゃんを生んだのは、「花子」と呼ばれるメスのサイで、この子とは、初めてマラに来た時以来、何故か縁がある。会えない時もあったが、1/2と言う高確率で会えているので、やはり縁があると言っても良いと思う。見た目は大きくて迫力があるが、その瞳はとても優しく可愛いのである。その花子がお母さんになったと言うのだから、会いたくて仕方なかったのだ。そして、娘がお母さんになり、どのように変ったのか、確かめたかった。

僕の興奮が皆に伝わったようで、皆も瞳を輝かせ始めた。僕はそれを見て、微笑したね。ウィリアムさんが、「この先だ。」と言ったので、僕は気を緩めてしまった。その少し後だった。「あそこにいる!」とサワサワ・パパが声を上げて言った。まさか、そんなことと思いながら右の丘を見ると、確かに暗灰色の物体がある。半信半疑で見ていると、その物体が動き出した。「あれ、サイですよね?」彼が同意を求めるように言う。「ライノ!」とウィリアムさんが、確信するように言った。僕もそれを確かめていた。しかし、同時に心の中で「やられた!」と 、悔しさが同時に沸き上がっていた。ウィリアムさんになら仕方ないと諦められるが、まさかサワサワ・パパに先を越されるとは思ってもいなかったのだ。しかし、これは僕の 驕りであると、少し経って気付いた。僕は6度目で慣れきっていて、動物を探すことに関し、明らかにパパよりも真剣さ に欠けていたからだ。ウィリアムさんの言葉に、気を抜いていたのである。しかし、彼は違っていた。窓から外を食い入るように見ていたのである。そして、ウィリアムさんよりも先に発見したのだ。パパがその日の、サイの第一発見者になったのである。僕は文句無く、パパに賞賛の言葉を贈りたい。彼は、来る時の話しなんて嘘のように、娘以上に感動し興奮しているのが、これまでのサファリで分かっていた。その姿がとても嬉しかった。だから、彼が見つけたことは決して偶然なのではない。人一倍、見つけたいと言う意思があったからなのだと思う。「パパさん、やったね!」僕らは車内で歓喜の声を上げた。でも、本当言うと、やっぱり悔しかったな。そして、そんなパパに、僕は心からまたマラに帰ってきて欲しいと思っています。

サイは一頭だけだった。周囲を見渡してみるが、子供の姿はない。オスのサイだった。彼は太郎と呼ばれていて、僕は初めて見るので嬉しかった。太郎、花子と言う名前は、勿論公式な名ではない、ロッジの僕の友人が命名したのだが、それを聞いたミュージシャンの坂本龍一氏が気に入って、それが日本人の間で広まり、そう呼ばれているそうである。サイを見つけたとあって、車が集まってくる。太郎はちょっとそれに戸惑いを覚えているようだった。クロサイは絶滅危惧種でもあり希少価値が高く、見るのも難しいので、見る方にとっては願ってもないチャンスだけどね。彼は行ったり来たりしながら、車を気にしながら進んだ。そして、嫌気が差したのか、方向を変え、森に向かって足早に去っていった。

ウィリアムさんは、車を発進させた。僕らはクロサイを見られた喜びを互いに確かめ合っていた。その時である。「ライノ!」とウィリアムさんが言った。「え?!」と僕は視線を外に移した、向こうに灰色の固体が2つ見えた。岩のようにも見える、大きいのと小さいのが動いていて、近くには別のサファリカーが停まっていた。花子親子である。ウィリアムさんが「この先」と言ったのは、この親子の情報を得ていたからだった。車はサイに近付く。親子のサイの姿がはっきりと見えてくるに従って、僕の心は高揚する。とても元気そうである。車はサイの進む先に止まって、彼女たちの来るのを待った。サイは近付いてきて、手前の水溜りで止まった。そこで水を飲む。僕はその様子を見ていたら、何故か嬉しくて、涙が出そうになった。花子は確かに母親の顔をしていた。以前見た娘の姿はなく、母に変ったんだなと思ってしまうのは何故だろうか? でも、僕にはそう見えたのである。そして、お母さんの後を追う子供が、これからもすくすくと順調に育って欲しいと心から願った。

「子供の名前はジロウ?」とポレポレ娘が聞いてきた。だが、残念だが、まだ子供には名前が付けられていないことを教えてあげた。まだ性別も分かっていないのだ。とは言え、もし男の子だったら、やっぱりジロウではなく、イチロウじゃない? 第一子だしね。

僕らは本当にラッキーだった。何故って、マラに3頭しかいないクロサイを、一度に見ることが出来たのだからね。これは、僕にとっても本当に素晴らしいことだった。今朝見た流れ星の効果かもしれない。そう思った。

早朝の蒼白の中、マラに棲むクロサイの親子を見る皆の目が、とても優しかった。

ウィリアムさんは「ライオンの子供を見せてあげるよ。」と言うと、来た道を戻り始めた。今日のハーフデイ・サファリの目的地は、反対方向だったようだ。その前にサイの情報が入ったので、それを見に連れて行ってくれたのだ。サイのいた場所から察すると、きっとレンジャーからの情報に違いない。僕らは本当にラッキーだとつくづく思った。そして、初めてここに来た皆が、それが普通なのだと思われたくないので、何度もそのことを繰り返して言った。昨日のチーターと言い、今日のサイと言い、とても素晴らしいシーンで、僕の6回の来訪経験の中でも、かなり上位にあったからだ。それを、たった3日で体験出来てしまうなんて贅沢過ぎると、半ば嫉妬にも似たような感情を覚えた。そして、これですっかり満足して、もう来なくても良いと思われたくなかった。皆には、これからも何度も来て欲しいと心から思っていたのだ。

車はオロロロ・ゲートを出て、キチュアテンボ・キャンプの傍の、ムパタに向かう分岐を、そのまま真っ直ぐ進んだ。キチュアテンボは、テンテッド・キャンプだが、とても素晴らしいキャンプである。キャンプと言っても、日本で言うテント・キャンプを想像しちゃ駄目である。ロッジと同じと言っても過言ではないのだ。ゲストのテントはコテージと同じで、プライベートが守られ、清潔なシーツを張ったベッドに、トイレやシャワーがあり、電気も使えるのだ。そして、テントならでは、のワイルドさが良いのである。また、川の傍の森の中にあるので、ベルベットモンキーなどの森林に生息するサルを見ることも出来る。いつか泊まってみるのも良いと思うね。

車はその先で、マラ川を跨ぐ橋を渡り、でこぼこの急斜面を登る。斜面を登りながら、左手に見える山の上にムパタが見えると教えてあげた。皆はなかなか見つけることが出来ない。灰色のバンダが点々とあるのが見えるのだが、緑の中に包まれていて、見つけ難いのだ。それでも、皆見つけることが出来たようだった。その先にはマサイ村があった。そこには雑貨屋さんや公衆電話もあるのだ。

マサイ村を抜け、進む。どんどん進む。低い疎らな木が生えている丘の向こうに、草原が拡がっているのが見えた。前方左手に、三角形の屋根をした建物と、それより低い3、4戸の白い建物が見えた。ムシアラ・ゲートである。車はゲートには向かわずに、草原の中に入っていった。そこはまだ保護区外のようで、マサイのウシが沢山放牧されていて、その中を進んだ。マサイのウシは、日本のウシよりもずっと小さい。日本に来たケニア人が、ホルスタイン種を見て驚いて、持って帰りたいと言った、なんて話しを聞いたことがあるが、それも頷けるね。体高は120130cmほどで、薄い茶色や白の模様が入っているものが多い。角は大きく頑丈そうであるが、やはりライオンなどに襲われたら、太刀打ちできないだろう。

余談であるが、マサイのウシがライオンに襲われることがたまにあるそうである。そうなると、マサイたちは怒り、ライオンを倒しに奮い立つそうである。そして、実際にライオンを殺してしまうことも多いのだとか。法律では、野生動物を殺してはいけないので、そんな時は我慢しろと言われるらしいが、それでも気が収まらない血気盛んなマサイはライオン狩をしてしまうらしい。保護局の方では、仕方ないなと言う感じで、大目に見て、苦笑いをしているそうである。でも、そこにはマサイの伝統も存在しているからなのだと思う。マサイの男はライオンと戦って、初めて男と見なされると聞く。なので、槍1本を手に勇敢にライオンに立ち向かうのだ、と以前マサイ村に行った時に聞かされた。今では、動物たちは保護されているので、それほど何度もある訳ではないと思うが、それこそ、そんな時こそ男を上げようと、槍を手に立ち上がる若者が何人もいるんじゃないかな。ライフルなど使わないことを考えると、保護局が大目に見るのも分かる気がするね。

草原の中をひたすら走る。右も左も前も後ろも、見渡す限り草原である。いつの間にか、風が温かくなっていた。窓から入り込む風が気持ち良い。言葉が少なくなったと思ったら、皆がひたすら続く草原を見詰めていた。

遠く、車が数台停まっているのが見えた。距離は随分ある。車はその方向に向かった。僕らの視力は、かなり良くなっていたと思う。サワサワ・パパなんて、到着した時とは別人かと思われるぐらいである。(まだサイを先に見つけられたのを悔しがっているね)皆、本当に動物を探すのがみるみる上手になっていくのだ。「負けられん!」と密かに対抗意識を燃やす僕がいた。なんちゃってガイドのプライドがそれを許さないのだ。

車の集まっている場所には数頭のライオンの子供がいた。大人のライオンはいなかった。狩に出かけているのかもしれない。ライオンの薄い褐色の体は、草むらに潜り込むと保護色になって見え難くなる。こうやって自然の中で見ると、本当にそう感じられ感動も増すね。チーターだってそうである。一見派手に思えるその体の斑点だが、遠くから見ると景色に溶け込んで分からないのである。特に動物の視線になって見るとそうなのだ。黒い班は、草の間で揺れる影のようにしか見えないのである。フィールドに出ると、そんなことが感じられ本当に面白い。動物園ではとても感じることの出来ないものだね。

遠巻きに、他のサファリカーとは違う白い四駆が停まっていた。ウィリアムさんが、「BBCBig Catだ。」と教えてくれた。数々の素晴らしい映像を送り出している英国のTV、BBC放送のビッグ・キャットと言う番組の車だった。カメラ機材など特に出している様子はなく、中には女性が一人だけいて、手にはノートを持っていた。たぶん、観察記録などを書いているのだろう。ビッグ・キャットだけではないが、そう言った観察活動を続けているからこそ、素晴らしい映像が撮れるのだ。彼女は純粋にBBCのクルーではなく、大型のネコ科の研究者だと思う。観察を続けながら、BBCに協力し、また活動支援を受けているのではないかと思わる。そう言った意味でも、映像だけでなく、BBCの活動を賞賛したいね。そして、これからも素晴らしい映像を送り届けて欲しいですね。

子供のライオンのいる場所から少し離れた所には、オスのライオンが2頭いた。皆にとっては、初のオスである。しかし寝ていて全然起きる気配はない。しかし、それでも皆嬉しそうにカメラを向けていた。ライオンはスワヒリ語でシンバと教えてあげると、ポレポレ親子が「そうなんだ。」と感慨深気に反応を示した。それと言うのも、ミュージカルの「ライオン・キング」が大好きだそうで、その主人公のライオンの名がシンバと言う名だったからである。「そう言うことだったんだ。」と妙に納得していた。

その後、僕らはセレナの丘が見える方向に向かって進んだ。広く草丈の短い場所に出ると、そこはチーターのテリトリーだとウィリアムさんが言った。とは言っても、昨日チーターを見た場所ではない。遥か遠い場所である。しばらく探してみたが、そこにはヌーやトピ、シマウマやトムソンガゼルなど沢山いたが、チーターの姿は見つからなかった。その先に進もうとしたら、向こうから車がやってきた。道はかなりぬかるんでいるようだ。車を停め情報を交換した後、ウィリアムさんは車をUターンさせた。たぶん、この先の泥濘はひどく、通れないのだろう。

僕らは先ほどチーターを探した場所に戻り、その傍を流れるマラ川の木立に車を停めた。後から、もう一台のムパタの車もやってきて停まった。今回は、2グループでの朝食である。僕らに対し、そのグループは遥かに平均年齢が若かった。友達や恋人と言った感じで、明るく若い輝きを放っている。とは言え、羨ましいとは思ってはいないよ。むしろ、もしも僕が彼らの中にいたら、とっても淋しかったかもしれない。きっと、僕の居場所がないような、そんな浮いた感じになっていたと思うからね。そう思うと、このメンバーにしてくれた友人には感謝したいね。それに、こっちだって素敵なお嬢さんが2人もいるんだからね。二人共、とっても可愛いく、育ちの良さを感じたね。勿論それは、お父さん、お母さんへの褒め言葉ですよ。

僕らはちょっと奥の木陰に、彼らは川の見える場所にマットを敷いた。マットに座り、お弁当を受け取る。皆、朗らかな笑みをその口元に湛えている。「なんて楽しいんだろう!」と自然に笑ってしまうのだ。ポレポレ娘がビデオを回しながら、皆に一言インタビューを始めた。サワサワ娘に「サイを見つけたのは誰ですか?」と聞くと、娘はちょっと恥ずかしいのか、 大きな目をくりっとさせ、笑みを浮かべて父親を指差した。その仕草が妙に可愛い。「お父さん。」と言えないところが、何とも可愛い。まだまだ若いね。あと何年かすれば、きっと恥ずかしくなくなる時がやってくるよ。僕には、それがとても微笑ましく思えた。カメラが僕に向けられる。駄目だ。妙に恥ずかしくなる。カメラを向けられると、意識してしまうのだ。確か、質問を受けて、「サイを見られて本当に良かった。」「また来ます!」なんて言ったと思うが、なんだか照れてたね。帰国後、その時の様子などを映したDVDを送ってもらい見たのだが、自分の仕草が妙に変なので、また恥ずかしくなったね。自分の知らない部分を見せられているような感じがした よ。僕はまだまだ自分を知らないのかもしれない。

お弁当の中身は昨日と殆ど同じだった。でも、それでも青空の下で食べる朝食は最高だった。皆がいるからこそ、楽しさも喜びも、感動も倍増する。素敵な人たちに、また出会えたことが嬉しかった。そして、この出会いを大切にしていきたいと思った。マラが微笑んでくれていた。

 

TOPに戻る

 

祝杯

サファリから戻り、その日も昼食は取らずにのんびり過ごした。テラスにデッキチェアーを出して、広大な景色を堪能する。それは僕の日課のようになっていた。毎日見ても全然飽きない。真っ青な空に、三角形の白い雲が幾つも浮かんでいる。明るい太陽光の下、全てが輝いて見えた。風がとても気持ち良い。僕はアフリカの風を感じていた。

昼間から、水で薄めたウィスキーを飲みながら、他に何もせず景色を眺める。そんな時間がとても気に入っている。ホリデイなのだから、だらしなく過ごすのも良い。時折、鳥が飛んできて、近くの木にとまったりする。そんな時は、持っている双眼鏡を出して、 鳥の遊ぶ様子を見たりした。アルコールがふと眠気を誘う。そんな時は、椅子に座ったまま寝てみたり、ベッドに戻り、そのまま寝転んだりした。気ままに、頑張らず、思うままに過ごす。それがとても気持ち良いのだ。

僕以外の他のメンバーは、午後にマサイ村に行くと聞いていた。皆さん、本当に元気で、活動的である。ポレポレ母子もサワサワ父子も、オプショナル・ツアーに参加し、休日を満喫している。僕が見る限り、それは完全にマラの魅力に捕らえられ、限られた時間の中で、もっと知りたい、体験したい、感じたいと言う思いに他ならないと思った。それが、僕にとっても嬉しい。でも、これが最後なんて、哀しいことは言わないでくださいね。マラはもっともっと深遠で、美しく、優しく、厳しいのです。来る度に僕は魅了され、また帰ってくる。でも、そんな自分が好きだったりする。マラは僕にとって特別な場所なのだ。

午後6時45分。僕はバンダを出た。辺りには夕闇が忍び寄り、藍色の空に、星が輝いているのが見えた。僕は、まずバーカウンターに行き、冷えたタスカー(ケニア産のビール)を瓶でもらい、それを持って、崖に張り出した展望デッキに向かった。そこでは、焚火が焚かれているのだ。焚火の傍で、夕方から夜に変っていく様子を見るのが好きだった。そして、大概それは僕一人だけの時間だった。ゲスト達は、ここに焚火をあるのを知らないようである。それとも、特に関心がないのかもしれない。まあ、そんなこと 、どうでも良いことだけどね。でも、一人で揺らめく炎を見ながら、静かに夜を迎えていると、無性に感傷的になってしまうことがある。何故か分からないけれど、誰か傍にいてくれたら 、と思ったりするのだ。そんな時は、焚火を小枝で突付いてみたり、枝をくべたりして、炎と遊ぶと淋しさから解放される。炎には、不思議な力が在る。そんな気がする。

その夜は、僕一人ではなかった。サファリから帰る時、皆に、ディナーの前にこの場所に集まらないかと誘ったら、了解してくれたからだ。とは言え、僕が一番乗りだったけどね。僕は皆が来るまでビールを飲みながら、時折、蒔の位置をずらして、良く燃えるようにしたり、炎の揺らめきを見ながら待っていた。そこにサワサワ父子がやってきた。風上に焚火を囲むように椅子を並べ座る。サファリの話しや、マサイ村の話しなど、楽しく話した。だいぶ経ってから、ポレポレ母子がやってきた。皆で焚火を囲む。ふと宇宙を見上げると、サソリ座が低い位置に見え、それを皆に教えてあげた。アンタレスが赤い光を放っていた。

午後8時前、僕らはダイニングルームに行った。そして、皆で食事したかったので、テーブルを一緒にしてくれるようにスタッフにお願いした。スタッフは快く承諾し、僕らの二つの丸テーブルを寄せてくれた。サワサワ父子にとっては、今夜が最後のディナーだった。僕は、皆と知り合えて本当に嬉しかったのと、皆が揃っての最後の食事と言うこともあり、ワインを頼むことにした。女性たちはあまり飲めないのだが、グラス1杯ぐらいは平気だと言うので、祝杯を挙げたかったのだ。僕は、南アフリカ産の白ワインをウェイターに頼んだ。

白いテーブルクロスの向こうに笑顔が4つ見える。どの顔も、穏やかで優しく、愉しげだ。マラに来ると、本当に短期間の内に親愛を育てあげることが出来る。皆が自然に、肩を張ることなく、飾ることなく、自分でいられるからだと思う。ここは本来の自分に戻れる場所なのだ。

談笑していると、友人のオフィサーがテーブルにやってきた。皆の予定の確認と、心くばりである。明日の朝は、ポレポレ母子は念願のバルーン・サファリに行けることになった。そして、サワサワ父子は朝のサファリを最後に、帰路に着く。僕はまたハーフデイ・サファリをしたいと思っていたが、父子と一緒に朝のサファリに行くことになった。しかし、それでも良いと思った。何故なら、サワサワ父子は既に僕の大切な友人だったからである。しかし、それを聞くと父子は「済みません。」と僕に言うのだ。僕は慌てて「とんでもない!」と首を横に振ってそれを否定した。ハーフデイ・サファリに行けないのは確かに残念であるけど、父子と一緒に最後のサファリをするのは、僕には大切なことに思えたのだ。短い滞在の中で、何を感じたのか、それも知りたかった。きっと、僕と同じものを持ってくれたと思っているが、やはり、それをしっかりと感じたかったのだ。

白ワインが氷を張ったワインクーラーに入れられて持ってこられた。ウェイターがクリスタルのグラスに、ほんのりと黄金色を溶かし込んだ透明なワインを注ぎ、各人の前に置いた。皆にグラスが行き渡り、ウェイターは瓶をクーラーに戻すと、笑顔でそこを離れた。僕らは互いに顔を見合わせ、ワイングラスを摘んで持ち上げた。柔らかなキャンドルの灯で、ぼんやりとオレンジ色に浮かび上がったひとりひとりの顔が、まるで長年の友人のように見えた。皆が口元に穏やかな微笑みを湛え、瞳に同じ輝きを宿らせている。

「ケニアに!」僕は、グラスを目の高さまで上げて言った。皆とグラスを合わせる。クリスタルの軽く重なる透明な音が何度も響いた。

 美しいマサイマラの夜が僕らを包んでいた…。

 

TOPに戻る

 

Sawa sawa

朝のサファリに向かう。ポレポレ母娘がいないので、なんとなく淋しい気がする。それはサワサワ父娘も同じように感じていたと思う。そして、彼らにとっては最後のサファリでもあるので、それ以上に寂しさをその瞳に浮かばせていた。しかし、この最後のサファリで、もっとマラを感じたいと思う気持ちも同時に浮かんでいた。その瞳が僕を嬉しくさせる。僕と同じ物が、父娘の中にも流れている、そう感じたのだ。

車は何度も行き来した坂を下り、オロロロ・ゲートに向かう。エアストゥリップの後方に拡がる草原から、バルーンが2機、浮かび上がるのが見えた。そして、その数分後、太陽が稜線から上がり始めた。バルーンは日の出に合わせて上がるのだ。ウィリアムさんは、車を停め、僕らは日の出の写真を撮った。日の出にバルーンを入れて撮りたかったのだが、あいにく角度が悪く、それは出来なかった。しかし、あのバルーンのどちらかに、ポレポレ母娘が乗っているんだな、と思うと写真を撮りたくなった。母娘に、自分たちの乗っているバルーンの写真を見せてあげたいなって思ったのだ。

ゲートを抜け、昨日、サイを見た場所を通り抜けた。しかし、そこにはもうサイの姿はなかった。しばらく進むが、あまり動物の姿は見えなかった。途中、何羽ものハゲワシが固まって、死肉を啄ばんでいるのが見えた。ウィリアムさんは、車を本道から轍だけの残る脇道に入れた。初日にゾウやライオンを見た辺りだった。ゆっくりと進むが、何も見つからない。まだ温かくなりきれない風が、吹き込んでくるが、窓を開け、その冷たさを楽しんだ。それで良いのだ。全てがなるようになるのである。動物たちとの出会いもまた、そうであって良い。ドライバーの豊富や経験と言う頼り強いものがあったとしても、偶然の要素は大きく、それこそ自然であり、野生動物との遭遇なのである。僕はそうしたことが、とても大切だと思う。人間の思い通りになるなんて、おこがましいことは決して思いたくないし、望んだりしない。マサイマラがこのまま、厳しく優しい自然と野性を育み続けてくれることを、心から望んでいる。

オスのダチョウが1羽いるのが見えた。かなり近くまで近付いたところで、彼はようやく車から離れるように去って行った。雨季になれば小さなクリークになっていると思われる窪みを渡る。その先には、草原に巨大な黒い筋を付けてヌーの大群が移動していた。広大な台地を渡る何 千頭ものヌーの行列は、その規模の大きさから、圧倒的な自然の大きさ、力強さを感じさせる。1頭でみると、ひどく地味なその動物が、延々と続く、巨大な群れとなると、別の生物かと思われるほどに、僕らに衝撃と感動を与えるのだ。こんな場所は、他にない。この光景は決して忘れることなどないだろう。自然、野生、生、死、厳、優、愛、美…。ここには全てがあった。唯一つ、無いものは醜だけである。全てが繋がっていた。無駄なものは何一つなかった。僕らはアフリカの大地を感じていた。

僕は動く車の中で、立ち上がりロールバーに摑まりながら、ヌーの大群を見ていた。そんな時である。近くのブッシュの中に小さな水溜りがあって、その中にカバの姿を見つけた。僕は慌てて声を上げた。「ストップ、ストップ! ヒポ、ヒポ!」すると、ウィリアムさんは何処にいるのだときょろきょろ見た。僕は「その向こうだ!」と言って教えた。座席に座ってみると、確かに何も見えない。たまたま立ち上がっていたから見つけられたのだ。ウィリアムさんは、僕の言われるままに車をバックさせ、ブッシュに車を回した。そこには確かにカバがいた。水溜りを独り占めするかのように、きょとんとした顔をしてカバがこちらを見ていた。しかし、すぐに嫌気が差したのか、水溜りからいそいそと上がると、僕らの前を横切って、むこうの林の方に去っていった。これほど近くでカバを見たのは初めてだった。きょろりとした目と、大きな口、太い体に、短い脚、小さな尻尾。なんともユーモラスなその愛すべき動物に会えたことがとても嬉しかった。

車は本道に戻り、先に進んだ。道の右には丈の長い枯れ草が覆っているのに、左は黒土に、丈の短い新緑が生えていた。この違いは、ヌーによるものだと思う。ヌーの大群が草を食べた結果、道の両側の様相がこんなにも変ってしまったのである。少し進み、左の黒土側に車を入れた。向こうには他のサファリカーが見えた。何かいるようである。ライオンがいるとウィリアムさんが教えてくれた。父娘は最後のサファリに、またライオンが見られると嬉しそうな表情を浮かべた。すると、ウィリアムさんが急に車を停めた。そして、右側を見て「フォックス」と言った。言われるままに右を見る。そこにはツガイのオオミミギツネがいた。近くに車が止まっていて、カメラを向けていた。僕も近くで写真を撮りたいと思ったが、ウィリアムさんが早くライオンの方に行こうとしているのが分かったので、そのままそこを離れた。とは言え、距離はあったけれど写真は撮ったけどね。

ウィリアムさんが急いでいる訳は、ライオンたちのいる場所に来て分かった。そこには多くのサファリカーが遠巻きにライオンのプライドを囲んでいた。7、8頭のライオンがいて、ヌーの群れが走っていくのを見ていた。1頭のメスライオンが動き始めると、他のライオンも動き始めた。ウィリアムさんはそれを見ると、車を移動させた。他の車も次々に移動し、横に広がるように停止した。皆、ライオンの向かった方向を向いている。1頭、また1頭とライオンが散るようにブッシュの中に消えていく。まるでフォーメーションを取るかのようである。ハンティングの準備をしているのだ。僕らは黙ってその様子を見ていた。静かな時間が流れる。こちら側のブッシュの中にライオンの頭が見える。向こうにもいるのが見えた。一番手前にいるライオンと線を結ぶと、丁度三角形を作るフォーメーションだ。ヌーが走っていく。しかし、空気は一向に弾けようとはしない。確かに準備は整っているように思えた。しかし、緊張感は増すのだけれど、空気は動かなかった。そして、とうとう弾けることはなかった。ヌーの群れは走り去ってしまったのだ。

僕は何故か「ふう」と溜息をついた。ウィリアムさんが、後ろを振り返り、「帰ろう。」と言った。父娘の帰る時間があるので、8時半頃にはロッジに戻らなければならなかったからだ。僕らは後ろ髪を引かれる思いでそこを離れた。

「残念だったね。」と僕は言った。父娘も同じ気持ちだった。でも、ハンティングは見られなかったものの、その緊張感を体験出来たことは素晴らしかった。野生を感じ、生を感じた。「うん、凄かった。」と瞳をきらきら輝かせて娘が言った。その輝きの奥に、まだマサイマラを感じていたい、と言う気持ちが見えた。そして、「まだ帰りたくない。」と素直にそう言った。「でも、また戻ってくる理由が出来たね。サーバルもまだ見てないしさ。」と僕は微笑して言った。彼女の瞳がぽっと輝いた。穏やかな、しかし確信に満ちた輝きだった。「そうですね。」と彼女は微笑んだ。僕はその笑顔を見て、とても嬉しくなった。彼女は必ずまたマサイマラに戻ってくると感じていたからだ。

Sawa sawa。大丈夫ですよ。マサイマラはいつでもここで待っていてくれますよ。きっと、ほんの少し足りないぐらいが良いんです。また戻ってきたいって思うでしょ?僕はいつもそうなんですよ。その度に、マラは僕に違う表情を見せてくれて、まだまだ足りない、もっと感じたいと、何度も帰ってくるんです。そして、いつもマラは僕を優しく迎え入れてくれます。きっと、君もそうですよ。何故って、君の心にはもうマサイマラが在るからね。Sawa sawa。何時だって良いんです。マラはここで待っていてくれますよ。

車内が静かになっていた。父も娘も、ただ遠く拡がるサバンナを見詰めていた。しっかりと記憶に刻み込むように、心の襞の隅々にまで刷り込むように、マサイマラを見詰めていた。

 

TOPに戻る

 

マサイマラの女神

午後のサファリには、新たなメンバーの3人が合流した。サワサワ父娘と、とてもしっくり馴染んでいたので、その違いは車に乗る前から感じていた。とは言え、そのメンバーは明るく朗らかで、開放的だった。そのメンバーは男性一人、女性二人で、此処に来る前に、エチオピアで結婚式に参加してきたのだと言う。何でも、結婚した友人はエチオピアのマラソン・ランナーだそうである。きっと、日本で行われた国際レースなどにも出ていて、それで知り合ったのかもしれない。友人の輪と言うものは、本当に不思議な拡がりがあり面白いものである。彼らは後部座席に、僕らは前の座席に座り出発した。

オロロロ丘を下り、小さなクリークを渡ったその先に、キリンとゾウがいた。この付近では、何度もゾウを見ていたので、僕らは取り立ててはしゃぐことはなかったが、新メンバーたちは初めてのサファリらしく、かなりのハイテンションで興奮していた。その向こうにはインパラもいて、後部座席は異様な盛り上がりである。こちらは慣れてしまっていて、平静で殆ど立ち上がることもなく、動物たちを見ていた。たった4日しか違わないのに、もうその違いである。しかし、初めてのサファリで興奮する姿を見るのは、いつもながら楽しく、嬉しくなる。

そんな彼らにポレポレ・ママは動物の名前を教えてあげていた。実は、ママはかなりの動物好きで、上野動物園でボランティア活動をしているそうなのだ。入園者に動物の説明などしているのである。なので、かなり動物のことに詳しく、また日頃から自然や環境のことを考えているようなのである。僕はそれを聞いて、尊敬に近い念を持ったね。何故かと言うと、頭の中でボランティアをしたいと思っていても、実際にはなかなか行動出来ないものだからだ。それを行動に移し、続けているママは素敵だと思ったね。

 

車はオロロロ・ゲートを抜け、しばらく進むと本道を外れ、ブッシュ茂る小道に入っていった。両側は薄黄色の草が、車のドア程の高さに伸びている。乾期に枯れた物である。根元を見ると緑色が伸びていて、新たに芽吹いたのが分かった。しばらく進むと、イボイノシシの家族に出会った。木の根元に3頭いて、のんびりとくつろいでいた。そこを離れ、さらに草を分けるように進む。すると、遠くに1台の車が停まっているのが見えた。そこに向かっているようだ。近付くと、車は轍だけの小道を外れ、ブッシュの中に分け入った。

「!」僕の興奮が一気に増加した。ライオンがいたのだ。しかも何かを食べている。近付くと、そこには3頭のメスライオンがいて、真っ黒な体のヌーを食べていた。獲物は仕留めてからまだそんなに経っていない新鮮なもののようである。ウィリアムさんは車を停め、僕らはライオンの食事を観察することにした。

ヌーの鼻の部分が噛み取られ、白い歯と顎骨が見えている。それは仕留めるために、齧ったからであろう。ライオンはヌーを窒息死させるために鼻に食らいつくのである。3頭はヌーの腹に顔を突っ込み、貪るように食べている。ライオンの 鼻から顎までが血に染まっている。そして、ヌーの腹から、白い大きな袋状のものが見えていた。それはまるで膨らんだ風船のようだった。一頭のライオンがそれに噛み付いた。白い膜を噛んで引っ張る。しかし、なかなか風船は破れない。と、ぷつっと破れ、中からウグイス色をした泥状の大量の草が出てきた。その風船状の物は胃だったのである。すると、胃液と草の発酵した、丸みを帯びた臭いが車内に流れてきた。臭いけれど、鼻腔を刺すものではない。「臭ってきたね。」と僕は言った。

新たなメンバーたちは、皆立ち上がって興味津々と言った様子でそれを見ている。ポレポレ・ママも夢中でカメラのシャッターを押している。しかし、娘だけが違っていた。先までビデオカメラを向けていたのが、今ではカメラを両膝に抱え、ちょっと俯き加減なのだ。「見える? 立っても良いよ。」と僕は言ってみたが、頷くだけで立とうとはしなかった。「これは、やられたな。」と僕は思った。僕にとっては、とてもエキサイティングで興味深いシーンであるけれど、彼女には、ひどく気持ち悪いものになったようだ。チーターの時は獲物が小さく、臭いもしなかったので大丈夫であったが、さすがに大物のヌーとなると、ライオンのダイナミックな食べ方も加え、衝撃的であったのかもしれない。

ウィリアムさんが、「もう良いか?」と聞いた。僕は「え?」と思わず聞き返してしまった。まだまだ観察していたい気がしていたのだ。しかし、皆が十分だと言う顔をして頷いたので、それに同意した。

車がその先に進むと、見たような場所に出た。今朝、ライオンの狩を見ようとした場所だった。すると、先のライオンは、きっと朝に見たライオンだったのだろう。見事に狩を成功させたのだ。そう思うと、やはり狩の場面を見てみたかったなと思った。ヌーの群れが右手から走ってきて、前方を横切っていく。僕は、走っている姿を撮りたかったのでカメラを向けた。次から次に走ってくる。僕は走るスピードに合わせてカメラを平行に動かしシャッターを切った。

本道に戻り、その後、初日にライオンを見た辺りに行った。そこでは一本の木を囲むように車が集まっていた。近付いてみると、オスのライオンが2頭いた。立派なタテガミをしたオスだった。皆また大興奮である。ポレポレ娘は、先ほどよりは多少元気を取戻したのか、座ったままビデオカメラをライオンに向けていた。これまでであれば、立ち上がってビデオを撮っていただろうに、そうしなかったので、やはり完全に回復したようではなかった。

時間が迫り、僕らは帰路に着いた。車内では、ライオンの食事を見られてラッキーだったと皆が口々に言った。すると、新メンバーの男性が、「自分はラッキー・ボーイなんです。」と言った。そして、そうなんですよと他のメンバーも言うのだ。自分で言うぐらいなのだから、確かにそうなのかもしれない。でも、これまでの幸運は彼がいた訳ではないので、素直に同意する気持ちは起きなかったけどね。

新メンバーの女性に、何時日本に帰るのかと聞かれ、僕が明日、ポレポレ母娘が明後日だと話すと、「ご一緒じゃないんですか?」と言った。「一緒に来た訳じゃないですから。」とママが言うと、「ご家族じゃないんですか?」と驚いた様子で言うのだ。とても仲が良く見えたそうなのである。僕が「そうじゃないんですよ。」と笑って言うと、「ご夫婦かと思った。」と言った。

その言葉を聞いた瞬間、僕の中に温かな感情がぽっと灯った。ずっと忘れてしまっていた感情だった。不思議だった。言われるまでは、全く意識していなかったのに、その言葉をきっかけに、彼女を意識し始めていた。とは言え、そこで恋心が芽生えたと言う訳ではない。むしろ、気付かない内に、自然に受け入れていた自分に気付いたのだ。あまりに自然すぎて意識さえしていなかった。それが不思議だった。それは、此処がマサイマラだったからなのだと思う。

マサイマラの女神が微笑んでくれた。そんな気がした。

 

TOPに戻る

 

TUTAONANA

夜の、凛とした透明な空気の向こうに、低く輝く星が見える。僕はテラスに立って、朝を迎える前の夜空を眺めていた。鳥たちはまだ眠りについていて、ひっそりと静まりかえっている。耳を澄ませば、小さく虫の鳴く音が聞こえた。僕は空気の冷たさに、両手をパーカーのポケットに突っ込み、マラでの最後の朝を静かに感じ取ろうとしていた。

朝のサファリは、昨日加わった3人とポレポレ・ママだけだった。ポレポレ娘が来なかったのは、昨日のライオンの食事にショックを受けたからだとママが笑って言った。一緒にサファリ出来ないのが、とても淋しく思えた。朝のサファリは、僕がその日に帰ることもあり、あまり遠くまで行けなかった。ウィリアムさんは懸命にチーターを探してくれていたが、長いブッシュに視界を阻まれ、見つけ出すことが出来なかった。彼がチーターを探したのは、きっと僕がその動物を大好きなのを知っているからだったのかもしれない。特にリクエストした訳ではないが、そんな気がした。僕は彼の気持ちが嬉しかった。立ち上がって、肩をロールバーにもたれ、高い位置から草原を見る。朝の光で、草原は黄金色に輝いている。まだ冷たい朝の風が頬を撫ぜ、僕は穏やかな、しかし、ほんの少し淋しさの含んだ気持ちでマサイマラを感じていた。

座席に座りなおし、隣のママとふと言葉を交わした。「お嬢さんが、ラッキーガールだったんですね。」そして、互いに微笑んだ。僕には本当にそう思えた。多くの素晴らしいシーンに出会えた時、いつも彼女がいたからだ。そして、彼女のいないこのサファリでは、特別なことは何も起きなかった。偶然なのかもしれないが、僕にはそう思えたし、そう思いたかった。

マサイマラが両腕を大きく拡げて僕を包んでくれている。静かで、何も起こらないからこそ、感じられることもある。最後のサファリでは、何故か毎回決まってマラからメッセージを受けているような気がしてならない。初めての時は、「また帰っておいで」と優しく微笑んでくれた。これが最後になるかもしれないと思いながら来た昨年は、ずっとその思いを引き摺っていたのだが、最後のサファリにチーター親子 に出会い、それはマラからの僕への贈り物のように思えた。それはマラが「此処にいるから、何時でも帰っておいで」と囁いてくれたように感じた。僕の気持ちを再びマラに帰らせてくれた のだ。そして今回、沢山の興奮と感動を与えてくれたマラが、「最後は気持ちを落ち着けて、静かにこの旅を考えてみてごらん」と言っているように思えた。この短い旅の中で感じた様々なことを、もう一度振り返って咀嚼する時間を与えてくれているように思えたのだ。そして、それがとても大切な気がした。

ロッジに帰り、ウィリアムさんと堅く握手を交わした。「ありがとう。」その一言だけで十分だった。

バンダに戻り、帰り支度をする。荷物はそれ程ないので、ほんの10分で片付いてしまった。僕はすぐには朝食には行かず、テラスにデッキチェアーを持ち出して、朝の光でぼんやりと霞むサバンナを見ていた。特に何かを考えている訳ではなかった。ただ、拡がる大地を眺めていた。何故かそうしていたかった。それは、もしかしたら、この旅で感じたものを消化し内部に取り込むための時間だったのかもしれない。

朝食を取りにダイニング・スペースに行くと、もうそこにはゲストの姿は殆どなかった。ポレポレ母娘は既に食べ終わった後のようだった。オムレツとベーコンを焼いてもらい、それを食べる。グリーンのテーブルクロスの向こうには、三角形に折られた真っ白なナプキンが2枚立てられている。中央には2枚のゲスト・カードが置いてあり、それぞれに、ポレポレ母娘と僕の名が書いてあった。最後の食事を一緒にしたかったなと、ほんの少しの淋しさを内に感じながら残念に思った。明るい日の光に照らされ、緑の庭が活き活きと輝いているのが見えた。

 

午前10時前。レセプションに行く。毎回感じることであるが、マラを離れると思うと本当に寂しくなる。まだ此処にいて、もっと感じていたい、そう思うのだ。僕は長椅子に座り、出発の時間を待つことにした。すると、向こうの階段を上がってくる二人の姿が見えた。ポレポレ母娘だった。二人共帽子を被り、長袖長ズボンである。そう言えば昨夜、ウォーキング・サファリをすると言っていた。虫に刺されたり、葉や枝で怪我をしないようにするためである。2人も僕の姿を見つけ、顔中笑顔にしてやってきた。お別れの挨拶をしたかったので、本当に良かったと思った。それは母娘も同じだった。僕らは楽しい時間と、素晴らしい体験を共有出来た喜びを感謝しつつ、また再会することを約束して、握手した。そして、まだ出発時間になっていなかったので、長椅子に座り、楽しい日々の思いでや、これからのスケジュールのことなどを話した。

僕の名が呼ばれ、いよいよ帰る時間になった。僕らは立ち上がり、再び互いに感謝しつつ再会を約束した。ポレポレ・ママと握手をする。小さな柔らかな手だった。そして、娘に手を差し出し、手の平を合わせ握る。すると、ぎゅっと握り返してきた。初めの握手の時はそうじゃなかったので少し驚きはしたが、僕はその小さな手を包むように握り続けた。何だかとても嬉しかった。

車に乗り出発を待つ。しかしまだ出発しない。すると、エントランスから杖を持った5人の女性が出てきた。一人は友人のオフィサーで、2人はポレポレ母娘だった。ウォーキング・サファリ一行である。杖はマサイを真似て持たせているのだろう。勿論、何かあった際にも使える護身用でもある。稀であるが、蛇などに遭遇する時もあるからだ。彼女たちはその場に立ち止まって、帰る者たちを見送ってくれている。それを見て、彼女たちの写真を撮りたくなった。僕はカメラをデイパックから取り出し、立ち上がると、車の中から彼女たちに声を掛けた。そして、カメラを向けてシャッターを押した。明るい太陽光が、天井のない車に立つ僕にも、彼女たちにも同じように降り注いでいた。そして、同じように明るい笑顔が5つそこにあった。

車体がブルンと揺れ、エンジン音が低く唸った。いよいよ出発である。マサイマラを離れる時がやってきたのだ。「まだ此処にいたい!」そんな気持ちで一杯だった。手を振って見送ってくれている友人と、ポレポレ・ママ、そして、その娘の姿を、瞳だけを動かして何度も往復させた。

TUTAONANA!

僕は再会を約束するスワヒリの言葉を発していた。視線は、明るく微笑む娘に止まっていた。

「TUTAONANA MASAI MARA」僕は心の中でもう一度呟いた。

 

終わり

 

2005年9月のケニア旅行記、如何でしたか? ケニアは6度目になるのですが、その魅力にどんどん惹かれてしまいます。

今回も、本当に素晴らしい旅になりました。マサイマラは僕の大切な場所なんです。

 

TOPに戻る

 

WALKABOUT

【PR】