TRAVEL ESSAY

Memories


 

旅の思い出

シンガポール  1枚の写真(スイス)  パリ(2000年)

セイシェルの夕日  The Wishing Tree(香港)  マラセレナの新年(ケニア)

ベルン(スイス)  旅と音楽  スイスのハイキング

クアラルンプール1日滞在記  コ・サムイ(タイ)  トラベラー

アムステルダム  冬の散歩道  The Sound of Silence

Song for the Asking  Sunshine on My Shoulders  Looking for Space

森の子供とワンタンミー(KL滞在記)  一期一会  香港

アルプスの春  Bula! フィジーの青い空と海  砂漠のシャンデリア

アントワープ(ベルギー)  グリンデルワルト  アンコールワット(カンボジア)

 

 

 

シンガポール

 

 シンガポールは僕が初めて海外に出た時に行った国である。当時、姉夫婦が住んでいて、遊びに行ったのがその理由である。それ以来、海外を旅するのが大好きになってしまったのだから、そのきっかけとなった思い出の国と言っても間違いない。

 シンガポールは本当に綺麗な都市で、他の南アジアの雑踏とした街と違うところから、旅行通の間では面白くないと言われたりする。また逆にブランド大好き、ショッピング目的の買い物通の間では買い物天国ともてはやされたりもしている。しかし、昨今ではデフレ・スパイラルに落ち込んでいる日本と値段的にも大して違わないのではないかと言う気がする。とは言え、ショッピングはほとんどしないので、定かではない。ちなみに、シンガポールに行った時に必ず買ってくるものがある。それは瓶詰の青トウガラシのピクルスである。その辛味が、結構やみつきになるのだ。

 前置きはさておき、初めての海外旅行以来シンガポールは何度も行っている。その大半が目的地までの経由地点である。姉夫婦が日本に戻るまでは、ご機嫌伺いも兼ねていたのも確かだ。シンガポールに限らず都市と言うのは多かれ少なかれ何処も似たようなものに感じる。東京とシンガポールだって同じようなものだ。シンガポーリアンの多くの人々も日本人みたいで、海外に行った気がしないと感じる人だっているはずだ。僕自身もそうだった。とは言え、じっくり見てみるとやはり違う。そんな所が面白みでもあるのだ。

都市の過ごし方は、やはり短期間で元気に動き回るのが良いと思う。長くいるとだんだん退屈になってくるからだ。僕はお金持ちでもないし、買い物にも興味がない。都会で遊ぶには何かとお金が掛かるものだし、そう言った遊びはあまり好きではないのも理由である。そんな訳で、僕流の遊び方でシンガポールを紹介してみようと思う。

オーチャードロード。1度はこの国に行ったことのある人ならこの通りを知っていると思う。シンガポール一番の繁華街で、有名ブランドショップが軒を連ねている通りである。僕は買い物はしないが、この通りを歩くのは好きである。観光客 を初め、色んな人が歩いているのを見るのも面白いし、月によって変わるデパートの装飾を見るのも楽しい。暑くなればクーラーの効いた地下のアーケードに入れば良いのだ。シンガポーリアンは写真が好きだ。コンパクトカメラを持ち歩き、所かまわず写真を取り まくる。それは風景写真よりも自分たちの写真が多いようだ。デパートの装飾の前でパチリ。地下アトリウムでパチリと、あちこちで写真を撮る人の姿を見かける。そうやって、家族や友人との親交を深めているのかもしれない。店の店員も面白い。お昼時だと食事をしながら平気 な顔で店番をやっているのだ。近くのホーカーズで買ってきたのか、発砲スチロール製の容器に入った お弁当を食べている姿を見かける。それが繁華街のファッション・ビルのど真ん中なのだから驚いてしまう。

昼間の明るく賑やかな通りは、夜になっても賑やかで、逆に涼しくなって一層人通りが多くなる感じだ。多くの人がウィンドウショッピングをしたり、色鮮やかなイルミネーションを眺めたりして歩いている。勿論、家路に向かう為にバスを待って並んでいる人たちも多く見られる。夜が深まってくると、次第に怪しさも伺えてくる。基本的に安全であるが、観光客目当てにポン引きが現れるのである。観光客らしき日本人男性を見つけると声を掛けてくるのだ。大概彼らは下手な日本語で話しかけてくる。「イイオンナ、イルヨ」ってな具合だ。中には、もう良い歳をした女性がいて、ミニスカートを履いて声を掛けていたのには驚いた。見た目から言っても、綺麗とは言えず、40歳は既に通り越していると思えた。生活の為なのか、何なのかは分からないが、とても商売にはならないだろうと思った。しかし、少なく ともこの清潔なシンガポールであっても、性欲が商売として成り立っているのが分かった。

シンガポールには様々な民族の人々が住んでいて、それぞれ特色のある街を作っている。チャイナタウンやリトルインディア、アラブストリートがそうである。早朝、チャイナタウンに行った時のことである。下調べもせずに何が何処にあるのかも分からず気ままに歩いていると、公園のような場所に出た。そこは木々が一杯に枝を伸ばして日陰を作っていて、その下で十人以上の人たちがゆったりと同じ動きをしていた。太極拳である。僕はその様子をしばらく遠目から見ることにした。太極拳の動きは実に優雅で美しい。お年寄りも多くいたが、背筋を伸ばしその動きには力があった。

それから、しばらく歩いていると小さな食堂があった。店のウィンドウ越しに美味しそうな鳥のローストが見えた。中を見るとサラリーマン風の男性が4、5人いたのと、朝食を取っていないこともあり、とりあえず入ってみることにした。入ってすぐに分かったのは、英語が通じないことだった。勿論日本語も通じない。チキンを食べたいと言ったが理解されず、店員のオバさんは当惑しながらもチマキを皿に取った。僕はこれでも良いかとチキンを諦めチマキを食べることにした。ところで、チマキを中国語(広東語、北京語?)で言うとチキンに近い発音になるのだろうか?誰か知っていたら教えて欲しい。 話を戻すが、チマキにしたのは正解だった。貝柱のダシが効いていて実に美味しいのだ。中に入っている豚肉も柔らかくて美味しい。こんなに美味しいチマキを食べたのは初めてだった。味と言い、蒸し具合と言い最高 だった。こう言った、ふとしたことで美味しいものに出会えると嬉しくなる。それが庶民の店であればなおさらだ。ローカル・フードの楽しみはそこにあると思う。その後その店に行く機会はないが、いつかまた行ってみたいと思う。しかし位置もうろ覚えで辿り着けるかどうか怪しいものである。

帰りにMRT駅の近くのショッピングセンターらしい建物に寄ってみると、1階で魚貝や乾物等色んな食材を売っていた。その中に焼鳥屋さんがあって、ローストしたチキンやダックが売られていた。先ほど食堂で見たローストが思い出され、思わず半身のローストダックを買った。ダック(アヒル)は初めて食べるので興味津々と言ったところだった。半身はビニール袋にタレと一緒に入れてもらった。勿論、美味しかったのは言うまでもない。しかし、チマキの感動ほどではなかった。

アラブストリートでは日本でも有名な足裏マッサージの店に行ってみた。連日歩き通しで足がかなり疲れていたからだ。受けてみたら、あまり痛みを感じず、ちょっと拍子抜けしてしまった。TVで見るような痛みに大声を上げるようなことはないようだ。あれはやはりTV向けのパフォーマンスなのだろう。他のマッサージにしろ、ちょっと物足りないぐらいが良いと言う。でも、痛いのがまた快感に繋がるんだよなぁ。と、ちょっと不満が残った。しかし、たぶんそれぐらいが体には良いのだろう。

セントーサ島は観光の定番で、多くの観光客が訪れる場所だ。観光用の施設も充実している。此処でお薦めするのは水族館だ。今では珍しくないが、ドーム状の下から見上げることの出来る水槽を初めて作ったのがこの水族館なのだ。様々な魚を普段とは違うアングルから見られるのは楽しい。手軽にダイバーしか知らない世界を垣間見ることが出来るのだ。時間は限られるが、ライトアップされたセントーサも綺麗である。それから、ホーカーズもあり、手軽にローカルフードを楽しめるのも嬉しい。定番のナシゴレンやミーゴレン、ヌードル類もあるが、ちょっと化学調味料の味が出すぎているのが残念である。

それから、まだ行ったことはないがシンガポール動物園に行ってみたいと思っている。夜の動物の姿が見れるナイト・サファリやオラウータンと食事が出来ると言ったことが知られているが、動物の環境を考えながら運営している姿勢が良い。今や動物園は種を保存する場としても重要な意味があるのだ。

それ以外にも、まだまだ色んな発見や驚きがシンガポールにはあると思う。南国にありながら、日本人よりも肌が白いのではと思わせるシンガポーリアンが結構いるのにも驚かされる。この小さな国は、他のアジア諸国の文化を織り交ぜながら、独自の文化が生きている、そんな感じがする。

また、チャンギ空港のバーでシンガポールスリングを飲みたくなった。カウンターを離れる時にマスターが声を掛けてくれた ”See you next time.” と言う言葉が思い出され、久しぶりに行きたくなってきたのだ。

終わり

07/26/2003

TOPに戻る


 

 

1枚の写真(スイス)

 

 スイスに行くきっかけになったのは、1枚の写真だった。その時まだ刊行したばかりの旅行週刊誌があって、それは7割方がカラー写真で構成されていた。その本の中程に、見開き両ページ全体に渡って、緑のU字谷と雪を頂いた山々の写真が印刷されていた。その写真は広大な空間を感じさせ、僕はそれを見るなり行ってみたいと思ったのだ。しかし、その写真が何処で撮られたのかは分からなかった。左隅に小さく書かれた説明文を頼りに、旅行ガイドを開いてその場所の見当をつけた。そして、その5ヵ月後、スイスに向かったのだ。

 初めてのスイスには航空券だけを持って出掛けた。ガイドブックにホテルの心配はないと書いてあったのと、やはり観光が大きな産業である国であり、「なんとかなるだろう度」も高かったからだ。それに、当初ツァーを探してみたが、じっくり滞在するものはなく、足早に各地を観光するものばかりだったのでそうすることにした。僕の目的は当初から山歩きだった。のんびりと、写真で見た美しい風景の中を歩きたかったのだ。

 チューリッヒ・クローテン空港に着き、両替をしてから駅に行った。駅は空港と繋がっていて便利だ。スイスを初めヨーロッパ各国は鉄道が便利なので旅行者には嬉しい。目的地の行き方さえ分かれば、煩わしい思いをしなくて済むからだ。僕はまず駅の窓口で半額カードを購入した。ユーロパスやスイスパスも考えたが、ハイキング中心の滞在型の旅行には半額カードが一番だと来る前に検討していたのだ。同時にグリンデルワルトまでの片道切符も購入した。往復買うと安くなると窓口の係員が親切に教えてくれたが、帰りはルツェルン経由のルートで帰るつもりだったので、そう言って断った。

半額カードは旅行者でなければ購入することが出来ず、その為、購入時にはパスポートの提示が必要である。しかしそれだけで、購入はいたって簡単だ。有効期限が1ヶ月と3ヶ月のものがあるが、3日もあれば元は取れると思う。ただ、半額カードはユーロパスやスイスパスとは違い、列車に乗るにはその度に窓口で切符を購入しなければならないのだ。しかし、その手間も返って楽しい。自分で旅行していると感じるし、切符は殆どの場合回収されないので、旅の思い出として持って帰れるからだ。 それと、購入した際にカードを入れるケースを貰えるのだが、それもなかなか良い。年によってそのデザインが変わるのも楽しいし、旅行の思い出の一品としても取って置きたくなる。しかし何よりも 、半額カードの利点は他のパスでは割引率の低い、山岳鉄道やゴンドラリフト、バスの料金も半額になるのである。あの有名なユングフラウ鉄道だって半額なのだ。

グリンデルワルトに着いてまず初めにしたことはホテルを探すことだった。電車を降りてすぐ、「日本語観光案内所」の文字が見えたので、とりあえず行ってみた。当時はホテルの1Fにある小さな土産屋のような所だった。今ではでんと大きく構える銀行の1Fにあって、随分立派になったと感心する。係りの女性は僕の要望を聞くと、ホテルに電話を掛け、あっけないぐらいに早く決まった。

ホテルはゾンネンベルグと言って、メインストリートから少し外れた斜面に建っていた。荷物を持って、そこまで上がるのは結構大変だった。部屋に案内してもらうと、そこは3階の隅の部屋で、窓の外にはアイガーが見え、その景色は素晴らしかった。ハーフボード(朝・夕食付)、バス付き、しかもマウンテン・ビューで1泊約7,000円なんて、とても安いと思った。実際、食事も質・量ともに満足いくものだったし、メイドさんたちも親切で楽しかった。こぢんまりとした家庭的な感じがとても気に入った のだ。僕はその後のスイス旅行でも、いつもこのホテルを利用している。次に行く時も、たぶんここにするだろう。ちなみにこのホテルには大きなセントバーナードがいるのだが、かなりの年寄りで今も元気にしているかちょっと心配である。

翌日の朝、僕は歩いてグルントに向かった。グルントはグリンデルワルトの次の駅で、駅の少し向こうにゴンドラリフトの駅がある。そこからリフトに乗って、一気に頂上のメンリッヘンまで登って行こうと思ったのだ。その先に僕の目的の場所がある、そんな気がしていた。きっとそこが写真の場所に違いないと地図から推測していたのだ。

半額カードを提示し、片道切符を購入した。メンリッヘンからクライネシャイデックまで歩くつもりだったからである。 そのルートは平坦で初心者でも楽に歩ける。しかも素晴らしい景色を眺めながらのハイキングは最高である。ちょっと人の姿が多いのが気になるが、誰にでもお薦め出来る。リフトに乗り込 むと、すぐに緑の草原が眼下に見えた。本当に美しい緑だった。リフトはケーブルを伝い、次第に高度を上げて行った。僕はその風景に目を見張った。360度の大パノラマの中に僕はいたのである。左手には雄大なアイガー、メンヒ、ユングフラウがどっしりと両手を拡げていた。僕はその風景を見詰め続けた。

アイガー、メンヒ、ユングフラウとはベルナーオーバラント地方を代表する三つの山で、アイガー北壁を掘り進め、ユングフラウ山頂近くまで登るユングフラウ鉄道は有名である。また、アイガー北壁はその切り立った壁に、各国の登山家がアタックしたことでも知られている。またクリント・イーストウッド主演の「アイガー・サンクション」と言う映画の舞台でも ある。今となっては古い映画だが、結構面白いので見てみるのも良い。その山々の麓、ユングフラウ鉄道の基点がクライネシャイデックである。

メンリッヘンに着くと気温が一気に下がった。一度振り返って来た方向を見ると、緑の丘が続き、グリンデルワルトが小さく見えた。それから先に目をやると、緑の草原の向こうに青い空と白い雲が見えた。僕ははやる気持ちを抑えきれず、ずんずんと先に進んだ。その先には展望ポイントがあった。

僕は思わず息を呑んだ。そこはまさに天上界からの光景そのものだった。大きく張り出した崖の上からU字谷を見下ろしたその景観は、まさしく写真の場所であったのだ。そして、写真の感動が吹き飛んでしまうぐらいに、その風景は雄大で美しかった。ヴェンゲンとラウターブルンネンの家並や崖から落ちる滝が見えた。シュタウプバッハの滝だ。そして、U時谷を囲むように万年雪を頂いた山々がずっと遠く、その先はイタリアまで続いていた。僕はしばらくそこから動けなかった。心が真っ白になり、 いつしか僕は風になっていた。何故か嬉しくて涙が出てきた。

その後クライネシャイデックまで歩き、WAB(山岳鉄道)で帰った。勿論そのハイキングも最高に気持ちが良かったのは言うまでもない。

1枚の写真が僕の心を動かし た。そして、その場所に来た時にはさらに大きな感動が待っていた。こんな旅の仕方があっても良いと思う。「此処に来て良かった。」心からそう思った旅だった。

終わり

08/02/2003

TOPに戻る


 

 

パリ(2000年)

 

年末が近付くと、パリのことが思い出されてくる。僕が初めてパリに行ったのは、1999年の年末から2000年正月にかけてだった。パリで2000年を迎えると言う、メモリアル的な動機が無かったわけではないが、そう思い立ったのは別の理由からで、メモリアル・イヤーとたまたま重なって、正月をパリで過ごすのも悪くないと考えたのだ。パリに行こうと思ったのは11月の終わりだった。何故そう思ったのかはっきりとした理由は思い出せないが、ルノアールの「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」を見たいと言う気持ちからだった。その絵はだいぶ以前から知っていて、楽しげな雰囲気と明るい光に包まれた、とても素敵な絵画なのである。その時、何故か無性にオリジナルを見たいと思ったのだ。そして、思い立ったその場で、ANAのデスクに航空券の予約を入れていた。過ぎてしまうと何てことはなかったのだが、その当時は2000年問題と言うコンピューター に障害が出るのではないかと懸念されていて、年末年始に海外に出掛ける人が例年に比べて少なくなっていた。そのお陰で、ペックス航空券を手に入れることが出来たのだ。

僕の泊まったホテルはメトロ(地下鉄)のオデオン駅の近くで、サン・ジェルマン界隈にあった。ホテル自体は古く、部屋は広いが寝るだけと言った感じだった。しかしホテルの周囲にはマルシェや惣菜屋、スーパーマーケット、レストランにカフェなどがあり、夜遅くまで賑やかで面白かった。 独り身であると、レストランに入るのも気が引けてしまうのだが、此処であったら惣菜屋やスーパーで食べ物や飲み物を買ってホテルで食べることだって出来るのだ。実際、僕は殆ど毎日そうしていた。それでも、食事はそれなりに楽しかった。ボトルでワインを買って帰って、それを飲みながら物思いにふけるのも良い。しかし、本当のところは、1人でいることの寂しさも感じていたのも事実である。

ヨーロッパの夜の街並みはアジアの街並みと違って、オレンジ色の光に包まれていて、その柔らかな光がぼんやりと闇の中に溶け込んでいる。日本を含めたアジアの街では、蛍光灯の白色の光が、その明るさから闇との境を感じるのだ。どちらが好きだと言う訳ではないが、 パリのそのファジーなぼんやりとしたオレンジ色はシックな大人の感じと同時に、妖艶な怪しい雰囲気も感じさせた。それが歴史を感じさせる街並みにとても合うのだ。冷たいはずの石畳でさえ、その光の下では柔らかな暖炉の光に照らされているようなのだ。そんな怪しい魅力に惹かれて、僕は夜遅くまで目的もなく街中を歩いたりしたものだった。

目的の「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」のあるオルセー美術館には、到着した翌朝に行った。まず驚いたのは、オルセー美術館そのものに対してだった。旧駅舎を改造して美術館にしてあるのだが、当時のベル・エポック建築が美しく、建物そのものが芸術品であるかのようだったのだ。内部に入ってすぐ右に行くと、予期せぬ女性との再会に胸が高鳴った。ずっと以前に知っていたのだが、ずっと忘れていた のだ。それはアングルの「泉」の娘だった。初めて彼女を知ったのは小学校高学年の頃で、その裸体がとても美しく思え、それ以来僕の憧れの女性になっていた。しかしいつしか時の流れと共に忘れ去っていたのだ。此処に彼女がいることさえ忘れていた。僕は彼女に出会った瞬間、そこに立ち尽くしていた。その美しさに捕らえられ、足が動かなくなってしまったのだ。しかし、その印象は大きく変わっていた。 若い頃に持った大人の女性と言った印象が、美しい若い娘(少女)になっていた。僕の年齢はもう遥かに彼女を超えていたのだ。その印象の違いが時間の経過を感じさせた。彼女は大人の女性ではなく、美しく可憐な娘だったのだ。しかし、だからと言って、彼女への思いは変わらなかった。否、それ以上だった。オリジナルは美術本の印刷とは比べられないほどに素晴らしかった。僕は完璧に彼女に恋をしてしまっていたのだ。その美しい瞳に捕らえられ、この場から永遠に離れたくないと思った。

オルセー美術館には数々の著名な印象派の画家たちの絵画等が展示されてあった。「ムーラン・・・」もその1つである。明るく輝く光と、その下で楽しく踊る若者たちが活き活きと描かれ、とても素敵なのだ。青みを帯びた影はルノアール・ブルーと呼ばれ、光を愛した画家の気持ちが伝わってくる。忠実に光を写し取ろうとしたモネとは違い、ルノアールは生を光で表現しようとしたかったのではないのだろうか?そんな気がする。

パリの美術館と言えば、ルーブルを抜きには語れないと思う。僕もまたルーブルに足を運んだのは言うまでもない。しかし、あまりのコレクションの多さと質の高さに、帰る頃には頭がボーとしてしまっていた。そのクォリティーの高さに、高次元に維持された感覚(感動)が痺れるように麻痺してしまっていたのだ。とても1日で見きれるものではないのである。有名なモナリザ も見ないで帰ってきてしまっ ていたのを後になって気がついた。ルーブルに今度行く時はじっくりと時間をかけて見たいなと思う。

2000年を迎えるパリは凄かった。これが僕の印象である。パリと言うと、大人の雰囲気に包まれた街と言う イメージがあった。確かに大晦日までは、幾分賑やかであるがそんな感じで、 のんびりと美術館に行ったり、街中を散策したり、メトロに乗ったりして街を楽しんでいた。しかし大晦日の夜になると街は一変したのだ。人が街から溢れ出さんばかりにどんどん増え、シャンゼリゼ通りは通行止めになり、大イベント会場に変貌した。アン・ヴァリッドからエッフェル塔の道も封鎖され、道の真ん中を大勢の人々がエッフェル塔に向かって歩いている姿があった。そして、その道端のあちこちでサンド・ウィッチやオットドッグ、ジュースなどを売る屋台が出て、小腹が空いた人達がそれを買い求める姿があった。僕もオットドッグ (フランスではホットドッグとは言わない)を買って食べた。人の数は増える一方で、今までにはないパリのパワーを僕は感じていた。パリってこんなに元気な街だったんだと、思ったのである。

新年を迎えるに際し、カウントダウンが始まった。僕はセーヌ河にかかるコンコルド橋にいた。カウントする声が一斉に沸いた。そして、遠くエッフェル塔が花火の光に照らされ浮かび上がった。しかし、残念ながら風向きが反対だったため、エッフェル塔はすぐに花火の煙に隠れてしまった。側で見ていたらさぞ美しかっただろうと思う。しかし、それでも記念すべき2000年の新年に沸く街はさらに盛り上がった。皆が通りに繰り出して、車の通っていないシャンゼリゼを大手を振って歩き、歌い、抱き合い、叫んでいた。パリは20世紀の終わりと、来たるべく新世紀を祝っていた。

新年の朝は妙に静かだった。通りには夜の騒ぎを感じさせるかのように、大量のゴミが散らばっていた。 開いていたカフェに入り、カフェオレを注文した。僕は砂糖を入れず、エスプレッソにミルクを入れただけのカフェオレが好きだった。その日も同じ様に砂糖を入れないで飲んだ。

ふと、通りの影がルノアール・ブルーに輝いたような気がした。

終わり

12/06/2003

TOPに戻る


 

 

セイシェルの夕日

 

2度目の海外旅行に選んだ先はセイシェルだった。南国の海の綺麗なところで過ごしたいと言うのがあったのは確かだが、特に特定の場所に行きたいと考えていなかった。世界は広くお金と時間の制約はあるが、何処にでも飛び出して行ける、そんな気持ちだったからだ。世界地図を広げ、目を閉じてその上に指を置き、適当に動かしてここだと思った所で指を止めた。そこがセイシェルだった。インド洋に浮かぶ島からなる国で、憧れのアフリカ大陸の東にあった。僕はいっぺんにそこへ行きたくなった。さっそく、行き方や情報を集めようとしたのだが、これが殆ど無かった。ようやく見つけたガイドブックも、ケニアやタンザニアがメインで、最後の方にセイシェルのことが書かれていた。それでも、シンガポールから行けることが分かった。当時、シンガポールには姉夫婦が住んでいたので、これ幸いと、シンガポールからのツアーを調べてもらうことにしたのだ。日本からのツアーもあったのだが、新婚旅行の顧客が対象のものが多く、また高額でとても参加出来ないと思ったからだ。それで、シンガポールまで格安航空券で行って、シンガポールでセイシェルまでの往復チケットを購入するか、ツアーを利用する方が格段に安くなるはずだと踏んだのである。時間の無い僕にとっては、着いてから探すなんてことが出来なかったので、姉夫婦がいてくれて本当に助かった。そして、姉から連絡が入ると、その場で予約をお願いした。セイシェルは観光が中心の国らしく、滞在先が決まっていないと入国出来ない場合もあるらしい。それで、殆どの観光客はツアー客だと言う。治安が比較的良いと言うのも分かる気がする。そして、僕は9月の終わりに期待と少しの不安を持ってセイシェルに向かったのだ。

早朝、まだ暗い内にセイシェルに着いた。ホテルからの送迎車が来ているはずで、辺りを見回すと、僕の名前を書いた画用紙を持って立っている小柄な男を見つけた。男と僕は互いに確認し合い、車に乗った。客は僕ひとりだった。車はライトを 点け走り始めたが、間もなく日が昇ったようで明るくなった。海沿いの道を進んでいたが、あいにくどんよりと曇っていて、海も灰色に見えた。透き通るような青い海を期待してきていただけに、セイシェルに着いてもさほど感動が湧き上がらなかった。

ホテルはベルジャヤ・マヘ・ビーチと言って、マヘ島の西側に位置していた。帆船をイメージして建てられたホテルは、新しくはないが清潔で、スタッフたちもとても親切だった。部屋は全て海を向いていて、大きな窓から海岸線と向かいに浮かぶ島が見えた。良い眺めには違いなかったが、どんよりと曇った空が僕の気持ちにも垂れ込めていた。僕はなんとなく疲れていたので、ベッドに横になった。

目を覚ますと、明るい光が部屋中一杯に差し込んでいた。僕ははっとなり、体を起こし、窓を開けた。眩いばかりの太陽光に包まれ、アクアマリンに輝く海と深い緑に包まれた山が見えた。早朝に見たばかりの同じ風景が、まったく別のもののようだった。南国の空はどこまでも透き通るような青だった。

セイシェルでの日々は、ホテルでくつろいだり、周辺を歩き廻ったり、ビクトリアまでバスで行ってみたりしていた。プララン島やバード島と言った離島に行くオプションもあったが、僕は一切参加せず、のんびりと贅沢に時間を費やしていたのだ。特にお気に入りだったのは、干潮時にホテルのすぐ側のリーフに行って、熱帯魚や珊瑚を見ることだった。潮が引くと、水深は深いところでも腰ぐらいで、マスクやスノーケルなど特に機材が無くても簡単に美しい魚をみることが出来るのだ。ひざ下ぐらいの水深に、沢山の美しい魚が見られるのだから、僕は夢中になって魚の姿を追っていた。チョウチョウウオやベラ、フグや美しいウツボの姿もあった。そのウツボはブルーにイエローのラインが入った体で、鼻先にピンクのリボンが 付いているのである。和名ではハナヒゲウツボと言うが、英名ではリボンイールと言う。魚たちはどれもサイズは小さいが、それが可愛らしかった。活きた宝石と言う表現がぴったりなのである。僕は毎日のように、潮が上がってくるまでの魅惑の時間を、そうして過ごしていた。

島の人々は皆、とてもきさくに挨拶してくれる。明るい笑顔がとても素敵だ。黒人であるが、セイシェルは過去にイギリスとフランスの植民地だったことがあり、白人との混血が進み、顔立ちなどにそれが伺える。そのような歴史の中で育った彼らのことをクレオールと言う。そして彼らはクレオール・スピリットをとても大切にしているのだ。ホテルのディナーでは時々クレオール料理も出された。フランス料理の影響もあるのだろう、ソースが結構美味しかった。

首都のビクトリアは小さな明るい町で、手軽に散策出来る。マーケットには色鮮やかな果物や野菜、ハーブや香辛料、沢山の魚が売られ、それを見るのも楽しい。マーケットの出口で、上がったばかりの2メートルほどのサメが軽トラックで運ばれてきていた。 街にはスーパーマーケットもあるので、何か入用があった時便利だ。大概の物は売っているので安心できる。此処でお薦めは、お土産にコーヒーや紅茶を購入することである。セイシェルのコーヒーや紅茶は質も良く美味しいし、勿論空港で買うより安いのだ。それから、スライスしたツナの燻製を よく買って帰った。夜な夜な、部屋で真っ暗な海を眺め、潮騒を聞きながら、それを肴にウィスキーを飲んでいたのである。

1週間ほどの滞在であったが、やはり夕日の素晴らしさを語らない訳にはいかない。夕刻になると、ホテルの各階の部屋からのんびりと夕日を眺めている姿が幾つもあり、皆が刻々と変化していく光の芸術に心を溶かしていた。青い空がオレンジ色に変わり、水平線に近いあたりは紫色を帯びる、雲が浮かんでいると、光が直接あたる場所は黄金色に輝き、薄いピンクに染まる。影の部分はほんのりと藍色をしているのだ。その様子は太古から続く壮麗な大パノラマショーで、自分の存在さえ忘れてしまう。勿論、雲が無くてもその素晴らしさは変わらない。太陽が水平線に近付くに連れて、紫色は太陽から離れた場所に移動する。空はいつしか真紅に染まる。その紅も、太陽からの距離で微妙にグラデーションしているのだ。太陽光はその輝きを弱め、空は紫色が強くなる。そして、太陽が沈むに連れて、天上から闇が迫ってくるのだ。光を押さえつけるように、闇が降りかかってくるのである。本当に闇が落ちてくるのだ。そして、僅かに残った光を両腕で押さえつけるようにして夜の世界が訪れるのである。その光景はただ単に美しいだけではなく、ある種の力を感じた。それはダイナミックな宇宙規模の力である。僅かな時間であるが、地球と宇宙の関係を感じ、その神秘に触れた、そんな気がした。

その悠久の営みは今も変わらず続いている。いつかまた、セイシェルの夕日を見に行こうと考えている。

終わり

― フォトギャラリーのセイシェルの夕日の写真も見てくださいね。―

12/13/2003

TOPに戻る


 

The Wishing Tree(香港)

 

今年もクリスマスがやってくる。別にクリスチャンでも何でもないが、街や人々が楽しい気分になるのは悪くない。クリスマスと言う行事をきっかけに、家族や恋人、誰かや自分に対して何かやってみようなんて思ったりすることだって、十分意味があると思うのだ。何かを始めるきっかけとして、クリスマスがあっても良いと思う。むしろ、宗教を越えた別の次元での価値観が生まれているなんて思うのは考え過ぎだろうか? でも実際のところはクリスマスセールが掻き入れ時だと派手な広告を打ち、色鮮やかなイルミネーションで飾り付け 、街を賑やかにし、それに釣られて僕らも何だか楽しくなるってところが本当なのかもしれない。まあ、それはそれで良いと思う。

香港では今ウィンターフェスタが行われている。日本ではクリスマスが過ぎると、その美しい装飾はさっさと取り除かれ、お正月用の飾り付けに変わるのだが、香港では(USAやヨーロッパの多くの国も)年始すぎまで飾られていて、賑やかな香港をいっそう楽しくさせている。高層ビルにはクリスマスのイルミネーションが点り、尖沙咀(チムシャツイ)のプロムナードから見る夜景はとても美しい。100万ドルの夜景と言われるに相応しい眺めである。その夜景を堪能するのにお薦めなのは、スターフェリーに乗ることである。僅か10分足らずのクルーズであるが、とても素敵なのだ。フェリーには仕事帰りの人が多く乗っていて、通勤の足にもなっている。しかし、 意外と航行中は静かなのである。皆が夜景を見ながら疲れを癒しているのかもしれない。僕は香港にいる間、このスターフェリーに何度も乗った、灣仔(ワンチャイ)と尖沙咀を結ぶ航路が特に好きだった。しかも僅か2ドル40セントで楽しめるのだ。もし、香港に行ったら乗って見て欲しい。

今年のウィンターフェスタのメイン会場は中環(セントラル)にある。去年は灣仔だった。会場には大きなウィッシングツリーがあって、夕方からイルミネーションが点滅して美しく夜の会場に浮かび上がるのだ。多くの人たちが立ち止まってその光のショーを見ている姿がある。去年のことであるが、香港観光局のWebページで、このツリーのことを知った。また、願い事を募集していて、運良く採用されればツリーにメッセージが点灯されるとの内容が書いてあった。面白そうだったので、何の気なしにメッセージを書き込んで登録したところ、なんと採用されてしまったのだ。自分のメッセージが香港の夜に輝くなんて、なんて素敵なんだろうと嬉しくなってしまった。e-mailでメッセージが点灯される日時が送られて来て、そこには是非見に来てくださいと書いてあった。そして、もし香港に家族や友人がいるなら、どうぞお知らせくださいと言うような文が添えられてあった。とても香港に行きたくなったのだが、その日時に行くことは到底出来なかった。また香港に友人もいなかった。しかし後日、正月をケニアで過ごした帰りに香港に立ち寄った。メッセージは見られなかったけれど、そのウィッシングツリーだけでも見たかったからである。ツリーは高さ15mぐらいあって、赤・緑・オレンジ・ピンクの電飾が輝いていた。点滅はコンピュータ制御されているらしく、色々なパターンで点滅し、見ている人たちを楽しませてくれていた。色んな国の人々から寄せられた願い事が、このツリーに幾つも輝き、その中の1つが僕のメッセージだったと思うと、何か感慨深いものがあった。

Webサイとを見たところ、今年はどうやらWebからの願い事の募集は行われなかったようだ。少し残念な気がする。しかし、たぶん会場で願い事を募集しているのではないかと思う(定かではないが)。また、会場にはフード・コンペティションで受賞した料理を食べられたり、カンフーの演舞なども見られ楽しいので、期間中に香港に行くことがあったら、行ってみると良い。スケジュールなどは香港観光局のWebサイトを見ると詳しく載っている。また、香港に着いたら空港でパンフレットを貰えるはずだから、それでチェックするのも良いだろう。そして、もし尖沙咀など九龍方面のホテルに泊まっているのなら、帰りに中環や灣仔からスターフェリーに乗って夜景を楽しみながら帰ると言うのも素敵だと思う。

今年、ウィッシングツリーに僕のメッセージは輝かないが、また同じことをお願いしようと思う。

” I wish we can get love and peace on the earth.” 

終わり

12/20/2003

TOPに戻る


 

 

マラセレナ の新年(ケニア)

 

 マサイマラには幾つもの素敵なロッジがあるが、マラセレナロッジもその一つである。2002年から03年にかけての年末年始に、僕はそのロッジに滞在していた。ロッジは保護区内の小高い丘の上にあって、そこから眺める景観はケニアのロッジの1,2位を争うほどと言われているだけあり、とても素晴らしいのである。斜面を囲むように緩やかなU字形に客用コテージ並び、どの部屋からもその景色を楽しめるの だ。その斜面はそれほど急ではなく、ディクディクやバブーンの姿も見られる。夜になれば、ハイエナが斜面を上がってきたりする。しかし、何と言ってもまず驚いたのは、敷地内にいるイワハイラックスにであった。沢山いて彼らもまたロッジの住人だったのだ。イワハイラックスはモルモットのような動物でとても可愛い。しかしネズミの仲間ではなく、ゾウの遠縁にあたると言うから不思議な気がする。DNAを調べて分かったそうだ。予断であるが、DNA鑑定からクジラとカバも祖先が同じだという結果が出たそうである。このような話を聞くと、生物って不思議で魅力的だなって思ってしまう。過去の博物学と言われていた頃は、その外見などから分類を行っていたが、それが全く違うと言った結果が現代科学で分かる例も出てきている。生物とは本当に不思議で、環境に適応するために全く違う種であっても、とても似ることが往々にしてある。それこそ、クジラやイルカは外見を見ただけでは、哺乳類よりも魚類に近い。南米に住むハチドリはまるで昆虫のようだ。生物の不思議は僕をわくわくさせてくれるのである。話をセレナに戻すが、ハイラックスたちは我が物顔でロッジの敷地内で日向ぼっこをしたり、木に登ったり、時にはレストランの中にまで入ってきたりして僕らを楽しませてくれるのだ。

 マラセレナにはとても素敵なサービスがある。それと言うのはヒポ・プールと呼ばれるカバ(ヒポ)の住む河岸で、朝のサファリの後に朝食を取れるのだ。小さな木立の前にマサイが立っていて、僕たちを河に沿う細い道を通って案内してく れる。そして、その先には木漏れ日の落ちる木陰にテーブルが並べてあって、僕らの朝食を用意してスタッフたちが待っているのだ。実は河にそって歩いていかなくても車で行けたのだが、そ こにはロッジのゲストを楽しませようと言う粋な計らいがあったのだ。僕らはまずテーブルにつき、雰囲気を楽しむ。河の向こう岸近くにカバの姿が見える。水の中から 目と鼻だけ出しているものや、浅瀬に上がっているものもいる。親子のカバの姿もあった。また木の枝の所々にパンの切れ端が刺してあり、それを目当てに小鳥たちが寄ってきて、可愛い声が聞こえてくる。僕らはマサイマラにいる幸せを感じていた。少ししてシャンパンを持ってスタッフが現れ、丁寧にグラスに注ぐ。たまたまサファリカーで一緒になった僕らは、まるで親友のようにグラスを合わせ乾杯した。朝食はビュッフェ・タイプでソーセージやポテト、ベーコンやサラダなど、種類もボリュームもたっぷりあって嬉しい。オムレツはゲストのオーダーの都度作られて、ふかふかの物が食べられるのだ。そこに、珍入者がやってくる。イボイノシシの家族だ。どうやらこの辺りに住み着いていて、ロッジの朝食の際には、おこぼれに預かろうと近寄ってくるのだ。しかも平気でどんどん近づいてくる。それをスタッフやマサイたちが足で蹴る真似をしたり、棒を振ったりして追っ払うが、さっと逃げてはまた近寄ってくる。そのやりとりが、また可笑しかった。

 確かにこのイボイノシシたちは人間慣れしているとは思うが、人間に依存しているのではない。それは、彼らの体型が他のマラに住むイボイノシシと変わらないことと、昼間にロッジから双眼鏡でその辺りを見ていたら、彼らが普通に生活している姿が見えたからだ。自然保護を考える中で、むやみに野生動物に食物を与えるべきではない。だったら、ここで行われているサービスは間違っているのかと言うとそうとは思えない。ロッジでは彼らに決して食物を与えたりしてはいない。残り物が落ちていたりして、次第に彼らが覚えていったのだと思う。もしかしたら、観光客が餌を与えたのかもしれない。そうやって、食物を簡単に手に入れる術を身につけていったのだと思うが、主食とはなっておらず、今後もそうあって欲しいと思う。これはまさに観光産業と自然の共存の中で生まれた 歪のようなものなのだと思う。僕らがしなければならないことは、それをいかに最小限に抑えるかと言うことだ。素晴らしい自然や動物がこれからも在るように、僕らも考えて行動するべきなのだ。動物に餌をあげたいと思う気持ちは悪いとは思わない。むしろそれは親愛の気持ちから現れる愛情表現なのだと思う。食べ物をプレゼントすると言う愛情表現は多くの動物たちの行動に見られ、人間もまたそうである。そして、その対象を同類以外の物に向けることの出来る人間は素晴らしいと思う。しかし、人間の活動が自然に与える影響を考えると、その影響力はどんどん大きくなっており、その愛すべき表現も自重しなければならないほどになっているのである。個人ではあまり意識出来ないかもしれないが、年間何万人と訪れる観光客が食物を与えたら、動物たちの行動 自体を変えてしまいかねないことになるのである。可愛いから、だけの理由で野生動物に対して何かをするのは非常に危険なことなのだ。自然や野生を失わせることにもなりかねないのである。

 大晦日の日、セレナではレセプションやレストランのある母屋はさらに飾り つけられ、賑やかな雰囲気になった。鳥のシルエットから名前を当てるゲームや、クリスマスツリーの傍に置かれたケーキの重さを当てるゲームなども行われ、その結果は夜のパーティーで発表されるのだ。勿論、当たった人は景品が貰えるのだ。

ディナーを取っていると、「Jambo」を歌いながら、シェフやウェイターが一列になって現れた。先頭のシェフはケーキを持っているようだ。彼らは陽気に歌い踊りながら通路を進み、ぐるりと回って僕らのテーブルの前に来た。すると歌が止み、部屋の明かりが消え、ケーキに刺してあった蝋燭に火が点された。そして、また歌が始まった。「Happy Birthday to you」だった。なんと、セレナで知り合いになったアメリカ人のご婦人の誕生日だったのだ。ご婦人は豪く感動した様子で、息を三回吹いて蝋燭の火を消した。そして、部屋の明かりが点り、テーブルにはケーキが置かれた。勿論、僕はお裾分けを頂いたのは言うまでもない。それは大晦日だからと言うわけではなく、誕生日に行ってくれるサービスなのである。見ていてとても楽しく、一度受けてみたいなぁと思ってしまった。このようなサービスは他のロッジでも行っているので、誕生日にマサイマラに行く予定を立てるのも楽しいと思う。

ディナーも済み、僕らはバーの前の広場に移動した。普段その広場では、夜になるとスタッフの一人が民族楽器を演奏して歌ってくれていた。僕はそのリズムが好きになって、一緒に手拍子を叩いて楽しんでいた。僕の手拍子は、 1/4拍遅らせると言うものだった。それは、以前TVでケニアの民族音楽を見聞きした時のそれを真似たのだ。それが気に入ったのか、親近感を持ったのか、いつのまにか僕はスタッフの間 に知られ、マネージャーに何かと声を掛けられるようになっていた。その日はダンス・ショーなどもあることもあって、殆どの椅子が先客に取られていた。空いている席にご婦人たちは座り、僕は立ってショーを見物することにした。太鼓が運ばれてきてセッティングされる。ゲストや手の開いたスタッフたちも集まってくる。すると、マネージャーが立っている僕を見つけ、態々椅子を持ってきてくれたのだ。僕は礼を言ってその椅子に座った。僕のいた場所は出口に近い、太鼓のすぐ傍だった。

すると12,3歳ぐらいの女の子が傍に来た。実は彼女はマネージャーの娘で、年末年始の休みをお母さんと一緒に過ごそうとロッジに来ていたのだ。僕は立って彼女に座るように促した。彼女は良いのとちょっと躊躇しながら僕を見たので、笑ってそれに応えた。彼女とは手拍子を叩いていた時に知り合った。手拍子を叩いていたら、僕の座っていた長椅子の横に座って、僕とスタッフのコラボレーションを楽しそうに見ていたのだ。そこから、何となく自然発生的に知り合いになったのだ。

何処からか声がしてきて、ショーが始まった。斜向かいの入り口から、赤い布をまとったマサイの男たちが現れた。彼らはベースのような独特の低く響く声を発し、軽やかにステップを踏んだ。すると一人が垂直跳びを始めた。それが終わるとまた別の若者が跳ぶ。次々に何度もジャンプする。マサイ・ダンスだ。彼らの脚は細く、何処からそのジャンプ力が生まれるのか不思議なくらいだ。一度跳ぶだけならまだ分かるが、何度も続けざまに同じぐらいの高さに跳ぶのだ。彼らは筋力だけで跳んでいるのではないと言う。跳ぶにはバネの伸縮するようなタイミングがあるのだそうだ。とは言え、たぶん根本的に僕らとは筋肉の構造が違うのではないかと思う。狩猟民族と農耕民族との違いである。そのスタイルから見れば歴然とする。

マサイのダンスが終わると、賑やかな笛や太鼓の音が鳴った。そして頭や腕に羽をつけ、派手な腰巻を付けた男たちが現れた。男たちはリズムに合わせ、腕を小刻みに震わせた。腕に付けた羽の動きは、まるで求愛する七面鳥が羽を振るわせるようだった。たぶん、何かの鳥の動きを真似て生まれた踊りなのだと思う。それが妙にコミカルで楽しい。

ショーをみていると、またマネージャーが来た。僕が立って彼女の娘が椅子に座っているのに気づいたからだ。僕は「気にしないで。」と言ったが、今度は折りたたみ椅子を持ってきてくれた。他にも立ってみているゲストは沢山いるのに、特別な計らいでとても嬉しかった。僕はありがたく、その椅子に座って見ることにしたのだ。

ドーンと体の芯にまで響く太鼓の音が鳴った。傍にセッティングされた太鼓から発せられた音だった。それと同時に、今度は男女が2列になって現れた。太鼓のリズミカルなリズムに合わせ、広場に入ってくる。そして女が内、男が外の輪になって踊り始めた。黒い肌に汗が滲んで輝く、躍動する男女の肉体が生の喜びを表しているようだ。明るく楽しい歌声と太鼓のリズムが心地よい。いつしか僕の体も揺れていた。ふと横の少女を見ると、その体はすでにリズムに反応し、大きく動いていた。まさに血なのだと思う。意識しなくても血がそうさせるのだ。

血が沸き立つようなダンスショーが終わり、新年もあと一時間と迫った。クイズの正解者の発表があり、その後レストランやハウスメイド、メンテ係りなどのスタッフ代表の紹介などがあった。僕らは盛大な拍手で日ごろの労苦をねぎらった。いよいよカウント・ダウンが近づいてきた。僕はシャンパンを注いだグラスを手にし、息を吹き込むとカメレオンの舌のように伸びる紙の付いた笛を口に銜えてその時を待った。

「10,9,8・・・」小さな花火に火が点けられ、それを持って頭上にかざす。「・・・3,2,1」

歓声が上がり、ゲストもスタッフもごちゃまぜになって、誰とも構わず傍にいる人と抱き合い、新しい年が来たことを喜び合う。「Happy New Year」の声が行き交い、ブーブーと笛が鳴り、大騒ぎだ。いつしか、歓声が一つにまとまる。その 中心はスタッフたちだった。その輪はすぐに皆に伝わって大きな塊となる。そして、皆で声をあげて何度も何度も叫んでいた。「Rain Fall」と。

外では暗闇の中をどしゃぶりの雨が降っていた。

マラセレナで迎えた新年はとても楽しくエキサイティングだった。カウントダウンだって、本当は実際より遅れていたのは事実だ。でも、マラの時間からすると5分やそこら遅れていたからって何の問題もないのだ。「ハクナマタタ」である。それから何故「Rain Fall」と叫んだのかと言うと、あくまで推測であるが、乾季の厳しいケニアにおいては雨が降ることは良いことだから、と言うことではないだろうか。マサイも雨が降ると喜ぶと言う。水の豊かな日本とは違う価値観があるのも当然である。

僕は生まれてこのかた、こんなに賑やかで楽しい新年を迎えたことが無かった。その余韻はその後も続き、僕はギターを弾くスタッフと一緒に午前3時過ぎまで一緒に歌っていた。

終わり

12/27/2003

TOPに戻る


 

 

ベルン(スイス)

 

ベルンはスイスの首都であるが、その規模からすればチューリッヒの方が大きく賑やかである。しかし、僕はチューリッヒよりも断然ベルンが好きだ。ベルンは古都と呼ぶのに相応しく、石畳や歴史を感じさせる建造物が素晴らしい。旧市街全体が世界遺産にも登録されているのだ。比較する必要はないと思うのだが、同じく古都と呼ばれる京都が茶番に思えてくるほどである。京都のそれは、街の所々に寺や名所、史跡などがあるが、ベルンはまさに街全体がタイムスリップしたかのように、古い街並みをいまだに残しているのだ。だから、ガイドマップを開いて、名所巡りをしようなんて気もさらさら起きなくなる。気の向くままに、そぞろ歩きをしたくなる。そして、ちょっと脇道に入ってみたら、思いかけず、建物の壁に描かれた素晴らしいフレスコ画に出会える、なんてこともある。アーレ川に囲まれた旧市街は散策するには丁度良い大きさで、のんびり歩いたり、ウィンドーショッピングをしたり、立ち止まって、大道芸を見たり、クラシカルミュージックの路上演奏を聴いたりするのも楽しい。ベーレン広場にはマーケットもあって、色鮮やかな野菜や果物、生花などが売られ、見ているだけでも楽しくなる。エプロン姿のおばさんが、明るい笑顔で売っている姿を見ると、ついつい買ってしまいたくなる衝動に駆られるのだ。

街の中心を走るマルクト通りとクラム通りの丁度境に、チットグロックと呼ばれている古い時計塔がある。なんでも、ベルンで一番古い建物だと言う。13世紀の代物らしいのだ。昔は牢獄としても使用していたそうである。大きな文字盤の大時計はいまでもしっかり動き続けていて、何世紀にも渡って時を刻んできたのだと思うと、また感慨深いものがある。しかし、実は僕はそのことを知らなかったのだ。またいつものごとく、殆ど下調べもせずにぶらぶらと歩いていたのだ。それを知ったのは、ベルンからチューリッヒ・クローテン空港に向かう列車の中で、地球の歩き方を読んでからだった。行った後でガイドブックを読むなんて、何のためのガイドブックなのかと自分でも呆れてしまうが、後から自分が歩いたであろう道を辿って確かめると言うのも、なかなか面白いものがあるのだ。

ベルンには石造彫刻で飾られた11個の噴水があって、そのどれもが違っている。そして、その一つ一つに名前があるのだ。パイプ吹きの噴水とかツェーリンガー噴水とか、食人鬼噴水なんて怖い名前の付いたものもある。噴水を探して街を歩いてみるのも良いかもしれない。またベルンにはアインシュタインの家がある。相対性理論で有名な物理学者の住んでいた家である。それは時計塔からクラム通りを進んで行くとあった。1Fにあるのだが、気が付かなければ、そのまま通り過ぎてしまうほどである。クラム通りから脇道に入ると、大聖堂がある。その敷地内に大きな公園があって、そこでは老若男女、多くの人達の憩いの場となっているようだった。芝生に寝そべって読書している人や、ベンチに腰掛けて談笑している人など、思い思いに余暇を過ごしている姿があった。ちょっと歩き疲れていた僕もここで休むことにした。脚を投げ出して空いているベンチに座る。大きく枝を張った木々が良い具合に影を落とし、その間を爽やかな風が静かに通り抜けて行く。高校生ぐらいの5、6人ぐらいの男女がふざけあいながら話している姿さえ、穏やかな午後の一部であるかのように思えた。しばらくして、立ち上がると先の手摺のある場所まで進んだ。そこからは青白色をしたアーレ川が見下ろせた。幾つかのスイスの湖もそうであるが、何故このような色をしているのか不思議である。氷河が溶け、その中の成分がそうさせると聞いたことがあるが、それにしても不思議な美しさを持った色なのだ。

ベルンの建物には不思議な扉がある。アーケードのように続く建物の軒先の、道路から一段高くなった所に、扉が上向きに閉まっているのだ。それが、通りにそって幾つもあるのである。まるで核シェルターのようでもあるが、なんとそれは地下室になっていて、ブティックやバーになっているのである。元々何のために作られたのか、以前聞いた気がするが、今やとんと思い出せないでいる。誰か知っていたら教えて欲しい。

ちょっと遅い昼食を食べようと、ベーレン広場の傍のパスタ屋さんでシーフードのスパゲッティを注文した。約1週間ほど魚介類を食べていなかったのでそうしたのだが、やはり山の国、みごとに失敗してしまった。不味くはないが、大して美味しくもなかった。しかし、量だけは十分で、それ以外にもパンが添えられてくるのだ。それでも結局、ビールを飲みながら平らげてしまったのは、食いしん坊の性なのだろうか。やはり言えることは、その土地の物が一番美味しいに違いないと言うことである。

終わり

02/07/2004

TOPに戻る


 

 

旅と音楽

 

音楽は言葉の壁を越え、異国の人々とのコミュニケーションを円滑する術であると思う。僕自身もそのような体験をしたことが少なからずあるからだ。リズムとメロディーはまるで魔法のように心の壁を取り去り、唄う言葉は言葉と言う意味以上の意味を持つのである。言葉を超え、音そのものとして感じることが出来るのだ。そんな経験は誰しもあると思う。外国語の歌を聴いた時に感じるそれと同じだと思う。唄っている内容は分からなくても、好きになる曲があるものである。僕自身その傾向が強く、むしろ唄っている内容が分からないから面白く感じることも多い。人の発する声はまさに感情を含んだ音そのものであるからなのだ。声はどんな楽器よりも雄弁に感情を表現するものだと思う。言葉そのものが、そうして生まれてきたのではないかと言う気がする。

言葉の前段階は、感情を表す声であったのでないかと思う。僕ら人類はその頃の記憶を、ゲノムの中に持ち続けていて、音の様相から、喜びや悲しみ、怒りや愛おしさ等、感覚的に感じ取っているのだと思う。それは人類の共通のものであると思う。メジャーやマイナーなどと、音楽的な表現方法で説明しなくても、人種を問わず、メジャーコードでは楽しさを、マイナーコードでは悲しさを感じると言うことは誰もが感じていることだと思う。このことは人類だけではなく、他の動物とも共通すると思えることもある。猿や犬、猫と言った動物に関しても、やはり同じように楽しい時、悲しい時と、その発する声は違っている。感情を声で表現すると言うのは、進化の過程で生まれてきたのだと僕は考えている。

以前、動物の感情や心理について話したりすると意味の無いもののように言われたことがある。そう言ったのは、有名大学で獣医学を教えていた先生であった。当時では、まだ動物は人間よりも下等で感情や心理に関しても単純なものでしかないと考えられていたからだ。パブロフの犬は条件反射しかしないと言うような、まさしくその事象しか見ることの出来ない(見ようとしない)学者ばかりだったのだ。パブロフの犬はパブロフの考える以上の犬であったことは、実験でも証明されている。犬は考え、餌を貰おうと呼び鈴を自ら鳴らしたのだ。しかし、その事は殆ど見向きされなかった。

その頃、僕は行動学(エソロジー)と言う学問にとても興味を持って、それに関する文献を読んだりしていた。中でもその研究の功労者であるローレンツ博士は今でも僕の尊敬する人物である。その学問はまさに開かれた学問であり、動物の行動だけに収まらず、人間の行動や考え方、哲学にまで及ぶものであると知り、また感じたのである。最近では、行動学も世間並みに浸透し、動物の心理面での研究や治療なども行われるようになった気がする。しかし、メディアなどでは安易に行動と遺伝を結びつける風潮があるのが気になる。DNAに全てを任せるほど、生物は重鈍ではないのだ。柔軟な対応が出来るからこそ生き延びてきたのである。そして音楽もまた、行動学の範疇内にあるのだと、僕は思っている。否、行動学と言う学問自体が生物の生き方そのものを対象にしているのだから、限りない拡がりを持ってくるのだと言える。

音楽があれば旅もまた楽しくなる。街角から聞こえてくるものでも、レストランで流れているものでも、ふと気持ちが重なり合うことがある。「あ、この曲良いな。」ってな具合である。それが、たまたま街角のCDショップから流れてきていたりすると、ついつい脚を運び、その曲がどのCDに入っているのかも分からずに、勘を働かせて適当に買ってみることも少なくない。そうやって香港で購入した広東語の音楽CDはお気に入りの1枚になった。勿論歌っている内容など全く分からない。スイスのベルンでは数人の学生グループが街角に立って、クラシカルミュージックの演奏をしていた。そう言った学生が何組もいた。音楽学校の生徒なのだろうか、そのどれもがそれなりの水準に達していて、ついつい立ち止まって聞き入ってしまう。そして演奏が終わると、躊躇なしに足元に置かれた空の楽器ケースにチップを入れてしまうのだ。特に僕が気に入ったのは弦とアコーディオンの4人組だった。彼らは、クラシカルだけではなく、最近のPOPな曲もアレンジして聞かせてくれた。それがまた、アコースティックな音色と合ってなかなか素敵だった。セイシェルではディナーの時にミュージシャンが演奏してくれ、楽しい雰囲気の中で食事が出来、また食事の後は彼らの傍の椅子に座って、夜遅くまで楽しんだものだ。そう言ったように、音楽は旅をさらに楽しくさせてくれる。

音楽は時には本当に素敵な体験をさせてくれる。その土地の人々と音楽を通じて知り合えた時などがそうである。ケニアのサイディア・フラハと言う養護施設での出来事はケニア旅行記2で書いたが、本当に心が軽やかになった。タイのサムイ島での出来事も、そうである。ホテルの傍にある海に面したレストランで毎夜夕食を取っていたのだが、最後の夜にふとしたきっかけで、そこで働く若者たちと閉店時間になるまで、歌い続けた。僕はギターで彼らの国のPOPミュージックを奏で、一人は小太鼓でリズムを叩く。そして、それに合わせて唄った。勿論、僕はタイ語など解さず唄えないが、それでもとても楽しかった。音楽は心を軽快にさせ、互いの心を共有させる力がある。僕らは友達になっていた。

ふとした時に聞く音楽に、時に笑いを交えた驚きを感じることがある。パプアニューギニアの首都ポートモレスビーのタクシーに乗っていた時のことだ。ラジオから音楽が流れていたのだが、ふと、妙な日本語の歌が聞こえてきた。日本では聞いたことのない曲だったし、シンガーも明らかに日本人ではなかった。初め、それを日本語の歌だとは気づかないほど に下手な発音の歌だったのだ。同乗者も皆、一様に聞いたことが無いと言ったのだから、たぶん日本で作られた歌ではないと思う。では、何故このPNGで日本語の歌などが唄われるのだろうかと考えた。日本は経済的大国だと言われていても、日本語はかなりマイナーな言語である。日本でスワヒリ語の歌を日本人が作詞作曲して歌うようなものだ。そこには、たぶん歴史による処のものがあるのだろう。第二次大戦、太平洋戦争と呼ばれた先の大戦で、日本軍は ここまで進軍していたのだ。そして、日本がPNGを植民地から開放させてくれたと言うこと になり、その結果、かなり親日的であるらしい。お年寄りの中には日本語を話せる人もいたりするのだ。そんな環境で、日本語の歌を作詞作曲した人がいたのではないかと思うのである。そして、それがラジオに まで流れるのだから驚きである。多くの日本人がPNGの位置さえ知らないと言うのに、こんなにも親日的な国があったなんて本当に驚きだった。過去の大戦を肯定するつもりはさらさら無いが、このようなこともあったのだと、しみじみと感じさせられた。マダンのクランケット島で一人の老人と出会った。前歯が抜けているが、元気そうなお爺ちゃんだった。何処から来たのかと尋ねるので、日本からだと答えると、そうかそうかと嬉しそうに笑い、僕に握手を求めてきたのを思いだす。そしてPNGでは音楽を通じ、今でも僕ら日本人に親しみを持ってくれているのを知った。

音楽は不思議な力があるのを僕らは知っている。そして、言葉の数以上にその土地土地の音楽がある。そう考えると、決まったジャンルの音楽ばかり聴いているのは勿体無いと言う気がしてくる。音楽の嗜好に壁を作らず、何でも聴いてみたいなんて気持ちになってくるのだ。そして、それが新しい出会いや心の共有になるのかもしれない。これからも、音楽を いっぱい聴いて、いっぱい歌って、いっぱい感じて、いっぱい笑いたい。

終わり

02/14/2004

TOPに戻る


 

 

スイスのハイキング

 

スイスと言うと、誰もが白い雪を山頂に被った山々と、緑のシャレーを想像すると思う。そして、実際に写真から切り取ったような美しい場所があちこちにあり、心を和ませてくれる。山歩きに興味が無い人でも、きっと歩いてみたくなるような、そんな場所が沢山あるのだ。

スイスには幾つものトレイルコースがあって、初心者から本格的な登山と言ったコースまで様々ある。コースには所々道標があり、道に迷わず歩けるので安心だ。青空の下、緑の草原を歩くのはとても気持ち良いのである。

僕はこれまでグリンデルワルトを中心としたベルナーオーバーラント地域を歩くことが多かった。ツェルマット等、色々な場所にも行ってみたいのだが、どうしても、そちらに足が向くのである。初めてのスイス旅行の時、グリンデルワルトに滞在して以来、山々やその周辺の美しさに捉えられてしまったからである。それと、その場所で友達が出来たと言うことも大きな理由だと思う。

グリンデルワルトには多くの日本人観光客が訪れている。その中には勿論、ハイキング目的の人たちもいる。しかし、まったくハイキングもしないで、電車でユングフラウヨッホまで行き、足早に帰って行ってしまう人達も少なくない。こんなに素敵な自然の中を歩かないで帰ってしまうなんて、なんて勿体無いとつい思ってしまう。足早に観光コースを見て回るツアーだと、そうなってしまうのだろう。韓国からのツアーも、そんな形のものが多いようだ。僕の友達は、何故日本人はハイキングもしないで帰っていくのか、なんて質問するので、返答に困ったのを思い出した。でも、本当にそう思ってしまうぐらいに、素晴らしい所なのだ。

スイスは山間であっても比較的輸送手段の便が良く、手軽にハイキングを楽しめる。電車やリフトで登り、周辺や緑のシャレーを下って帰るのも良い。体力に合わせて、コースを設定すれば良いのだ。本格的な登山は別であるが、子供連れであっても十分に楽しめるのである。そして、コースの起点や終点となる場所には大概レストラン等の施設があって、心地よい汗をかいた後の、旨いビールが飲めるのである。それもまた、ハイキングの楽しみの一つである。テラス席で美しい山々を見ながら、飲む一杯は格別である。

コースの道標には、黄色い矢印のプレートで方向を示し、それに行き先とそこまでに掛かる時間が書かれている非常に分かりやすいものと、石に赤と白のペンキで印を付けたものとがある。地図を片手に分岐で行く方向を決めるのも面白い。とは言え、十分に余裕を持って歩けるかどうかを判断しなくてはならない。いくら手軽に歩けるからとは言っても、やはり自然相手である。甘く見てはいけないのだ。自然の中で遊ぶ時は、必ず危険回避と余裕を常に持って行動することが大事なのである。あまり人の歩いていないコースを歩くのも面白い。むしろ、ふと美しい高山植物の花に出会えたり、思わぬビュー・ポイントがあったりするのだ。花の季節だと、そう言った場所に自分だけの秘密の花園を見つけることもあったりする。そして、ますますハイキングするのが楽しくなっていくのだ。

メンリッヘンから、直接ヴェンゲンに向けて降りていったことがある。U字谷の崖を降りていく訳だが、降りていくに従って、氷河が削って作り上げた谷の様子が本当に良く分かった。ラウターブルンネンが谷底に見え、シュタウプバッハの滝が長い水流となって降り注いでいるのが見える。まるで、宙に浮いて見ているようだ。メンリッヘンの展望台からではなく、またヴェンゲンに下るWABの車窓から見えるのでもない、素敵なアングルからの景色なのだ。時折、ヴェンゲンとメンリッヘンを結ぶゴンドラリフトが横に見えたり、頭上を通ったりした。どんどん降りて行くに従って植生も変わってくる。草や背丈の低い木ばかりだったのが、樅や杉などの森に変わっていった。そう言った変化を見るのも楽しい。ヴェンゲンに着いて、ヘンリッヘンを見上げた時、「ああ、あそこから降りてきたんだ。」と思うと、何か嬉しくなった。

ハイキングは自分の脚で歩くと言ったこと以外に何もない。歩いている過程で感じる様々なものが、ハイキングの魅力そのものであるのだ。小さな花に心を捉えられたり、緑の絨毯の上に座って景色を見たり、爽やかな風を頬で感じたりすること、それがとても気持ちよく、楽しいのだ。

最後に、やはり自然と接するルールを守り、また事故や怪我のことも考え、行動することが必要だと思う。楽しいはずのハイキングが、たった一つのゴミで嫌な気分にさせられたりすることだってある。また、軽はずみな行動から命の危険にさらされる場合だってあるかもしれないのだ。

スイスの山はまだ雪に覆われている。でも確実に春は近付いているのだ。暖かな日差しに誘われて、またハイキングをしたくなってきた。サンドイッチとワインを持って行き、花一杯の草原で、アイガーを眺めながら食べたいなって思うのだ。そして、久しぶりに友達にも会いたくなった。一緒に歩く仲間はハイキングを更に楽しくさせる。感動は分かち合うことで、更に増幅するのである。

去年、友達に女の赤ちゃんが産まれ、写真を送ってきてくれた。ぱっちりとした瞳のとても可愛い娘だった。彼女がもう少し大きくなって、一緒にハイキングするのが楽しみである。

終わり

03/13/2004

TOPに戻る


 

 

クアラルンプール1日滞在記

 

クアラルンプールの話をする前に、余談であるが、こんなことがあった。

ケニアのジョモ・ケニアッタ空港で、アムステルダムを経由し、クアラルンプールに立ち寄ると言うと、セキュリティの係員が急に態度を変えた。バンコク経由で日本に帰れと言うのだ。しかも、航空会社を変えてである。しかし、僕はアムステルダムとクアラルンプールの宿も予約していたし、第一そんなことを言われる筋合いは全く無いのであるから、断固拒否した。そして、パスポートやエアチケット、クレジットカードや予約したアムステルダムのホテルからの受付メールをプリントアウトした用紙を 、どうぞ調べてくださいと渡した。係員はそれをコピーに取ったりしながら確認していたが、まだ納得いかないのか、30分も40分も待たせ、僕を怪しい人物だと決め付けるような態度で、この経由は運行していないなどと言う始末だった。同じルートで来たのだと、はっきり言い、日時と便名を印刷した紙を渡すと、奴は確認するためにKLMの事務所に入っていった。

セキュリティが厳しいとは言え、奴の態度には腹が立ってきた。それだけではない、他の係員も仕事中であるにも関わらず、ピーナッツを食べたりしていて、だらしないったらありゃしないのだ。大統領が代わり良くなることを期待していたが、まだまだ駄目だなと感じてしまう。公的職務の奴ほど堕落しているのは、どの国でもありがちであるが、全く腹が立つ。正味1時間ほど待たされ、ようやくチェックインしても良いこととなったが、奴はまだ僕を怪しいと思っているようで、「たった1日の観光なのか?」と嫌味を言いやがった。僕をテロリストの一員であるかのごとく思っているようだ。ここで一発、「Fuck you!!」「Kiss my ass!!」などと暴言でも吐きたかったが、ぐっとそれを堪え、ストップオーバーなんだと言った。それこそ、また一悶着あって飛行機に乗れなくなっては元も子もない。ケニアは大好きなのだが、奴の態度にはとことん腹が立った。むしろ、長い間待たせて悪かったと言うべきところだ。役人と言う奴らは高慢で鼻持ならない。しかも、賄賂が公然とした事実としてあると聞く。もっと頭を低くし、公僕として使えろと声を大にして言いたいね。そう言う訳で、マレーシアを経由する方々は気をつけてください。

日本にいるとマレーシアは危険な国などと言うイメージはあまり無い。日本からの観光客も多く、日本企業の進出も多く見られる。また、リタイアした人たちの海外移住先と言った、一種の憧れの地でもあるのだ。しかしケニアでは全く違うのである。そのギャップの原因は、イスラム国家だと言うことと、昨今のテロリスト・グループの一部がマレーシアにコネクションがあるのではないかと憶測されていることからなのであろう。しかしである。 調べる前からフライトを違う経由便に変えろと言ったり、飛んでいないなどと嘘を言ったり、その対応には怒りを覚えた。断固抗議するものである。ケニア政府には、もっと公務員の教育を行って欲しいものである。

さて、クアラルンプールであるが、今回わずか1日であるが、初めて滞在することにした。そんな訳で、パスポートや1日分の着替え、デジカメなどをデイパックに詰め込んで、スーツケースは空港の荷物預かり所に置いていくことにした。

早朝に到着したので、まだホテルのチェックインには早かったが、一応場所だけは確認しておこうと、チャイナタウンに向かった。チャイナタウンはKLセントラル駅でLRT(高架電車)に乗り換え、次のパサール・セニ駅で降りた界隈である。ホテルはスイス・インと言って、チャイナタウンの中心に立地し、プタリン通りと言う屋台のひしめく通りに面していた。しかし、早朝のプタリン通りには屋台の姿は無く、汗とも生ゴミの匂いともつかない、饐えた匂いが漂っていた。チェックインは午後2時であることを確認してから、通りを挟んでホテルの前にあるフード・センターに入ってみた。テーブルと椅子がずらりと並んでいて、そこを囲むように幾つかの店が朝食を用意していた。学生らしい姿が何人か見えた。

僕は何気に一つの店先に立ち、看板にある写真付きのメニュを指差して注文してみた。しかし、それは朝のメニュではないらしく、首を横に振られた。言葉は殆ど通じていない。ふと、バットに入れられた炒め麺を見つけ、これはと指差したら、それは大丈夫だった。それから、隣のバットに入っている何やら煮込んだ物も一緒の皿に自分で盛り、勘定を払った。それから、コーラを別の店で買った。飲み物は別の店で扱っているのである。炒め麺はミー・ゴレンと言って、エビを発酵させて作ったエビペーストをほんのり効かせた薄い塩味で、麺はビーフンのような細麺だった。具は小さく切ったサツマアゲのような物とキャベツであるが、なかなか美味い。煮込みの方であるが、名前は分からない。見た目、肉とジャガイモにココナッツミルクにトウガラシを加えて煮込んだ物のようであった。肉のような物を取って口に入れると、一気に汁が噴出してきて驚いた。それも結構辛いのである。それは肉では無く、家常豆腐のようで、たっぷりとトウガラシの効いたスープを吸い込んでいたのである。しかし、その辛さはまた欲しくなる辛さなのだ。さらに驚いたことは、食べた後になって、不思議と爽快感があった。なんとなく体が涼しくなるのである。これがトウガラシ効果と言うものなのだなと思った。

朝食を取ってから、クアラルンプールシティセンター、通称KLCCに行ってみることにした。ゴールデントライアングルとも言われて、ビジネスの中心でもある。あの、2棟の高層ビルで有名なツインタワーのある地区である。観光客丸出しと言うところだが、一度は見ておきたいと思ったからだ。それに、ここには色々な店があるので、見て歩くのも良いなと思ったのだ。ただ、買い物をするかどうかは別である。LRTに乗ってKLCCに向かう。パサール・セニ駅の先は高架ではなく、地下に潜りこんだ。地下鉄になっているのだ。4つ目がKLCC駅だった。KLCC駅とツインタワーまでは地下通路で繋がっていたが、一旦地上に出ることにした。まずはタワーの全貌を見ようと思ったのだ。

地上に出ると、まさにそこから、にょきにょきと天空に突き上げる巨大な2本の建造物がそびえ建っていた。「でかい!!」反射的に発せられた第一声である。よくもこんなスチール製の巨大な筍を、それも2本も建てたものだと感心した。しかし、ここまでくると悪趣味とも感じられてしまう。朝の日を浴びてツインタワーは銀色にギラギラ輝いていた。この建物はペトロナスと言う国営の石油会社のビルだそうで、地階から4階まではショッピングセンターに、その上はオフィスビルになっている。41階にはスカイブリッジと言う展望場があって、観光客も上がれるのだが、人気もあり、一度に登れる人数が限られているので、早めに受付を済ませておかないと、かなりまたされることになるのだ。実際、午前10時前に受付に行ったところ、上がるのは午後1時半になると分かり諦めた。その間、その辺をぶらぶらして待っていても良いのだが、なんとなく面倒臭くなったのだ。

ショッピングセンターには色々なブランドの店が並び、デパートの伊勢丹も入っていた。2階と4階には紀伊国屋書店があり、何の気なしに4階の方に入ってみた。洋書、華書が中心で、和書は2階にあるらしかった。店内は結構広く、様々なジャンルに 別けられ分かり易い。日本語を英訳した漫画本もかなりあるのには驚いた。しかし、TVでは日本製アニメが多く流されているのを後で知ることになり、当然の結果なのだと理解した。しかも、かなりの人気のようである。

店内をぐるりと見てから、動物や魚の図鑑や写真集などを見てみようと思った。その棚にジェーン・グドール博士の著書があり、思わず手に取ってみた。モノクロの若い頃の博士の写真と共に、エジプトハゲワシの写真を見つけ、懐かしい感情が湧き上がった。僕が初めてグドール博士のことを知ったのは、アニマと言う雑誌に載せられた、このワシのレポートだった。小学校4年の時 である。鳥も道具を使うと言うレポートで、セレンゲティに棲むこのワシは石を使って卵を割ると言う内容だった。読むのでもなく、 ぱらぱらと頁をめくってから棚に戻した。

同じ棚の最上段に魚類図鑑があった。それは写真で構成され、「東南アジアのダイビングで見られる魚」と題してあった。それを開いて見ていると、フィジーで見た、親しげに近付いてくる魚の写真があったのだ。(フィジー旅行記 Chapter4日目 参照) 名前を知りたかったので、思わず頭の中で何度もその名を繰り返した。まさか、その場でメモする訳にはいかなかったからである。買っても良かったのだが、まだ来たばかりだったので色々見てからと思い止まったのだ。書店を出てから、覚えた名前を忘れないようにメモに取ったのは言うまでも無い。その魚は「パシフィック・スポッテッド・ラビットフィッシュ」と言う長い名前だった。 (後日、ゴールド・スポッテッド・ラビットフィッシュと判明)

3階の入り口から伊勢丹にも入ってみた。3階は玩具売場やスポーツ用品売り場で、エスカレータを上がり4階に行くとスーパーマーケットになっていて、食料品や日用雑貨が置いてある。薩摩揚の実演販売もやっていた。スーパーを見るのは好きなので、さっそく入ってみた。色とりどりの果物や新鮮な野菜が置かれてい る。エノキやシイタケなどもあり、よく見ると日本から輸入されたものだった。寿司を販売しているコーナーもあり、その形式は日本のデパートやスーパーで見るのと全く同じで、1個1個をラップ で巻いて種類別に並べたものと、何種類かをパックした物とがあった。現地の人たちも結構買って行くようである。その隣は鮮魚コーナーで、マグロやスズキ、タイ、イカなどの刺身もあったが、それらを見ると、ほとんど日本で見る食材ばかりで、特筆するものはなかった。色鮮やかなブダイやベラなどが売られていると思っていたのだが、特に目を留める物は無かったのである。やはり日本人向けなのだろうか?そんな気がした。

肉類においては、記憶が定かではないが、豚肉は置いていなかったように思う。イスラムでは豚は食べてはいけないからなのであろう。置いているのは、主に牛と鶏と羊である。しかし、マレーシアにはインド系のヒンズー教である人たちも多く、牛を食べないので、飲食店は大変だと思う。それで、多くの飲食店では無難な鶏と魚を使ったメニュが多いのだと聞く。

ざっと見てみたが、日本のスーパーと変わりなく、特に面白みも無かったので伊勢丹を出ることにした。やはり現地のマーケットに行かなければ駄目なのだろう。僕の泊まるチャイナタウンはマーケットや屋台があり、楽しめそうである。早めの昼食をここで取って、戻ることにした。

昼食は4階のフードコートで取ることにした。注文したのはナシ・アヤムと言う、ご飯と蒸し鶏の料理で、そこでは別々の皿に分けて出された。それから僕は、大きめに刻んだトウガラシの酢漬けを少し皿の脇に取った。テーブルに着き、蒸し鶏の皿を持って、 こげ茶色の汁ごとご飯の盛った皿に移す。汁の染みたご飯をスプーンで掬い取って頬張ると、鶏の旨みとほんのりと甘く香ばしい味が拡がった。鶏は骨付きのぶつ切りで、柔らかで美味しい。 骨がすっとはずれる柔らかさである。トウガラシの酢漬けを一緒に食べるのもまた良い。ピリッとした刺激が甘い汁と良く合うのである。

このトウガラシの酢漬けはシンガポールに寄った帰りには必ず買って帰ってきたものである。最近は香港を経由することが多くなり、食べるのは久しぶりであった。心なしかシンガポールの物よりも辛い気がした。シンガポールでは、これを摘みにお酒を飲む人もいるらしいが、たぶんマレーシアでもそうなのだろうと思う。何度か試してみたが、悪くはない。しかし、酒の味がしなくなること請け合いである。アルコール度数の高く、あまり味のないウォッカや焼酎などを飲む時には良いかもしれない。またビールにも結構合ったりする。これは癖になる味と辛さで、単調な味に変化を付けてくれる。フライドチキンに添えて食べたりするのも美味しいのだ。あの脂ぎったKFCでさえ、これがあると幾らでも食べられるのだ。(ちょっと誇大表現かな)このトウガラシの酢漬けはスーパーなどで売っているので、もし東南アジアに旅行に行くことがあったら、試しに買ってみると良いかもしれない。値段も安く、変わったお土産としても悪くないと思うのだ。(貰った方は 賛否両論だろうけどね)

チャイナタウンは思っていたほど大きくなく、その北のセントラルマーケット周辺を含め、割と早くに頭の中に地図が出来ていた。朝食を食べたフードセンターからプタリン通りを少し行くと、小さな路地がある。店の影に隠れて気がつかないぐらいの路地である。そこに一歩踏み入れると、そこはマーケットで、道の両側にぎっしりと肉や魚や野菜などの生鮮食料品 が売られていた。このマーケットは午後3時頃には大概の店が終わるが、飲食店は夜遅くまでやっている。入り口は他に3箇所あり、丁度十文字になっていて、一つはハン・ルキル通り、もう一つはツン・H.S.・リー通り、最後の一つはリー通りから駐車場に入った所にある。

狭い空間に生肉の匂いがねっとりと溶けている。 慣れない人には吐き気を催すような堪らない匂いかもしれない。かと言って、腐敗臭の強烈に鼻腔を刺すものとは違い、やんわりと漂っていて、初め臭いと思ったが、慣れてくる匂いである。そこで売られている肉は鶏と豚肉で、鶏は生肉の他に、生きたままでも売られていた。豚肉は店のカウンター兼まな板の上に大きな脚1本(勿論まるごと皮、足付き)がどかんと乗せられ、その横に切り分けられた皮付きのバラ肉や豚足などの様々な部位があった。肝臓など内臓はスチール製のボールに入れられていた。その横で中華包丁を持った人が大きな肉塊を切り分けている。そのような光景は香港でも見ていたが、なにしろ狭いので、目、鼻、耳を通して直接感じさせられ、ちょっとした迫力があった。その斜め向かいは、魚屋で、マナガツオやハタ、ウナギなども売られていた。野菜屋も葉物、根菜、トウガラシなど色々あり、食材豊かである。

不思議だったのは、狭い上に、気温も高く、冷蔵庫だって無いのに、腐った匂いはひとつもしないのだ。ハエだってあまりいない。探すといたと言うぐらいである。砕いた氷の上に魚を乗せている店もあるが、そうでない魚屋もあるし、肉屋は鶏も豚もそのまんまである。その中で生温かい生肉から発せられる肉本来の匂いが感じられるだけである。狭いこともあり、店に出せない分は何処か他の場所に保管し、売れたら次々に持ってくると言うようなことをしているのであろう。そう考えたとしても、よほどの回転率である。多くの人が、ここで買い物をしないことにはありえないと思うのだ。

チャイナタウンにおいては、イスラムは関係ないと言った感じで、堂々と豚肉が捌かれ、売られ、食されている。食堂にしろ露天屋台にしろ、豚肉メニュもある。それは何もチャイナタウンだけでないような気がする。それと言うのも、マレーシアには華人が多く住んでいるからだ。それに印度系マレー人も多いのだから、食文化の多様性が見られてもおかしくはない。まして、海外からの移住を、国を挙げて後押ししている面もある。マレーシアはイスラムを国教にしてはいるものの、その他の宗教も容認している。またイギリス統治下を経て独立、近代化を図ってきた過程には、宗教と世俗的な活動との分離が見られ、それが急速な経済の発展にも繋がったのでないかと言う気がする。マレーシアは色んなものがミックスされた興味深い国に思えてきた。

市場小路を出て、チャイナタウンの先にあるセントラルマーケットに行ってみることにした。セントラルマーケット周辺はバス乗り場が多くあり、人々で賑わっている。大通りのチェン・ロック通りを渡り、S&Mプラザの横を通り、バンコク銀行の前を左に曲がるとセントラルマーケットがあった。扉を開けて中に入る。工芸品や布製品、貴金属から怪しいバッタ物と言いたくなるような物まであった。ぐるりと回ってみて、どうやら僕はメインゲートから入ったのではないのが分かった。どうりで、普通の扉だった訳である。いつもながらのことであるが、僕は何処に行くにも、まともに正面から入った例がないのだ。適当に勘を頼りに行くものであるから、出た所は建物の裏だったり、横だったりするのである。

ここではマーケットと言うものの、生鮮食料品は売っていなかった。土産物屋を一ヶ所に集めた建物である。屋台村ならぬ、土産物屋村である。中には簡単なレストランもあるが、基本的に土産物屋の集合体と言ったところである。明るくはない店内は地上階(日本で言う1F)と1階の2層構造で、そこには、マレーシアの民芸品や陶器、チャイナドレスや布生地、時計に貴金属、CDやプリクラまであった。かと言って、欲しいと触手を動かす物はなく、見て回っただけであった。これが、ショッピングの好きな人であったら、全く異なる印象を受けたかもしれない。様々な物が雑多に存在するこのスペースは、まるで遊園地のように楽しいかもしれないのだが、僕の感覚にはピンとも反応しなかったのだ。

セントラルマーケットを出てぶらぶら歩いていると、ミディンと言うショッピングセンターがあった。中に入ろうとしたら、荷物を預けてからじゃないと駄目だと言われた。言われる方に行ってみると、確かにクロークがあって、そこでバッグや袋など預けている姿があった。たぶん万引き防止と言うこともあるのだろう。わざわざデイパックを預けてまで中に入ることもないかと入るのを止めた。ふと空を見上げると、急速に暗雲が立ち込めてきていた。なんとなく雨になりそうな気配だった。

すぐに、ぽつりぽつりと雨粒を感じた。アーケードに入ったとたん、いきなり大量の雨が降ってきた。スコールとでも言って良いぐらいの物凄さである。間一髪、ずぶ濡れになるのを免れた。さて、どうしようかと思ったら、インターネットの看板が見えたので、入ることにした。狭い入り口からエレベーターで2階(日本では3F)に上がると、扉があり、その中に何台ものパソコンが設置され、何人かの若者がオンラインゲームに興じている姿が見えた。ここでは日本語も使えるPCもあるようで、そのPCの前に座った。

1時間ぐらいPCを見ていたであろうか。その間、バタバタと雨の打ちつける音と、時折、雷鳴が聞こえていた。雨音が聞こえなくなったので、ネットカフェを出たが、雨は 止んでおらず、小降りになっていた。ふと成田空港で買った玩具のような小さな折り畳み傘があるのを思い出し、デイパックから取り出した。このくらいの雨なら、そんなに濡れることはないだろう。午後2時を過ぎたぐらいだったので、その傘を差してホテルに向かった。

ホテルでチェックインを済ませ、7階の部屋に行く。シングル料金だがベットが二つある広く清潔な部屋だった。カーテンを開けて外を眺めると、錆びたトタン屋根が眼下に広がっていた。遠くは雨のために靄って定かではなかった。景色は良くはないが、高い場所から眺めるのは好き なので気に入った。エアコンも程よく利いて快適である。僕は、まずは汗と移動の疲れを落とすためにシャワーを浴びることにした。バスタブは無かったが、体を洗浄するだけの意味ならシャワーで事足りる。考えて見ると、日本を発ってから約半月、シャワーばかりである。少々歩きつかれた脚には、そろそろ風呂が恋しくなってきていた。風呂には心と体の癒し効果があるのだ。心の方は問題ない(なにしろ遊んでいるのだからね)のだが、2日間アムステルダムを歩き回ったせいで、かなり疲労が溜まっているようだった。脚を 踏み出すたびに、鈍い痛みが膝の後ろ側に走っていたのだ。日頃の運動不足のツケが来たようである。マッサージにでも行ってみようかと思った。

シャワーを浴びて出てみると、雨脚はまた強まったようで、びしゃびしゃと雨粒が窓ガラスを叩きつけていた。そしてまた稲光と雷鳴である。僕は雨が落ち着くまでしばらく部屋にいることにした。

 

3時を過ぎたぐらいには、雨はだいぶ収まってきた。短パンにTシャツと言った格好で傘を持たずに外に出る。プタリン通りはアーケードになっているものの、雨が振り込んで来ていて、屋台も道路もびっしょりと濡れていた。でも雨脚が弱まったからか、その中で鉄パイプを組んで新たに屋台を立てている姿もあった。屋台の数は明らかに増えつつあった。それを見ながら僕はまた駅に向かった。ブキ・ビンタンに行こうと思ったからだ。ブキ・ビンタンはクアラルンプールのショッピングやファッションの中心であるのだが、マッサージ屋も多いと聞いていたからだ。疲れた筋肉を揉み解してもらおうと思ったのである。セントラルマーケット周辺からバスが出ているらしいが、どのバス停からなのか探すのが面倒だったので、一旦セントラル駅まで出て、それからモノレールに乗って行くことにした。

セントラル駅に着いたが、モノレールの駅が分からない。インフォメーションに聞いたら、モノレールの駅は外にあるらしかった。言われた方向に進み、エスカレータを降りて外に出ると、向こうに確かに駅らしいものが見える。そこに行ってみると確かにモノレールの駅であった。ブキ・ビンタンまでの切符を買いプラットホームに行く。しばらく待っていると、近代的なスタイルのモノレールがやってきた。吊り下げ式ではなく、高架の上を走る、空港のターミナルビルとサテライトを繋ぐエアロトレインに似ていた。さっそく乗り込み椅子に座る。折り返し運転になるので、進行方向は反対になった。クラン川を横切って進む。高架からは街並みが良く見える。薄汚れた壁の古い建物の中に、突然真新しいビルが建っているなど、雑多でごちゃ混ぜな感じを受けた。ビルの合間から朝に行ったツインタワーも見えた。

ブキ・ビンタン駅で降りると、駅からビルに通路が繋がっていた。また陸橋を渡って反対側に行くとLot10と言うデパートがある。僕はビルの中に入ってみることにした。そのビルはスンガイ・ワン・プラザと言う、ファッションビルのようなデパートのような建物で、中には洋服屋から携帯電話ショップ、マニアックなプラモデル屋まであった。地上階にはスーパーマーケットもあり、とにかく何でもありのビルである。その店舗数も相当なものなのだ。しかも人の数も凄い。どこを歩いても一杯である。僕はざっと見渡すように見てビルを出た。

勘を頼りに適当に方向を決めて進む。なかなかマッサージ屋の看板が見えてこない。駅の周辺で簡単に見つかると思っていたのだが、間違いだった。しばらく歩くと、ビルの搬入口のような所があって、その手前にマッサージの看板を見つけた。その搬入口はスンガイ・ワン・プラザのものだと思う。僕はビルの裏に来ていたのだ。人通りもあまりなく少し寂しい感じがしたが、取り敢えず入ってみることにした。店は地下1Fにあった。

ドアを開けて入ってみると、クリスマスに使うような電飾がドアの回りに飾られている。そして、カウンターの前に男性二人が立っていた。一人は中年、もう一人は二十歳そこそこの若い男だった。中年の男は僕を見るなり、いっらしゃいと満面に営業用の笑みを作って迎え、横にある個室のような部屋に案内した。何か飲み物はと聞くので、お茶を貰った。マッサージを受けたいと言うと、69リンギット (1リンギット=約30円)だと言う。相場は60ぐらいだと聞いていたので、少し高い気がした。すると、すかさず男が「これと、これもあるがどうか?」と握った拳を口に近づけ、それから腰をクイと動かしてみせた。そして、200リンギットだと言う。「ははあ…」と僕はピンと来た。どうやらマッサージだけでなく、性行為もサービスにあるようだ。僕はマッサージだけを頼んだ。

代金は前払いらしく、それを払って個室に案内される。ここで待っていてくれと言われ、硬いマットレスのベッドに腰掛けた。男はドアを開けっ放しにして出ていったので、向かいの部屋が見える。その部屋のドアも開けっ放しになっていて、中には4人の若い女性がいた。華系が二人、印度系と南部アジア系がそれぞれ一人づついた。男の誰かを呼ぶ声が聞こえた。すると、彼女達は一斉にくすくすと笑った。「ジャパニーズだ。」と言う声に、僕のことを言っているのだろう。

すると、髪を金髪に染めた華系の女の子が興味があるのか、ちらちらと僕の方を見るのだ。そして、目が合うと微笑んだ。それから、彼女は友達の方を向いて「ハマサキアユミが好きなんだ。」と言うと、すっと立ち上がり、高い音域で歌を一節歌った。どうやら浜崎あゆみの歌のようである。よく聞き取れなかったが、確かに日本語の一節のようだった。立ち上がって、腰を左右に振りながら踊って歌ってみせる彼女は、驚くほどに細い体をしていた。腕も脚も体も華奢で細く、ちょっと力を加えると折れてしまいそうなぐらいである。浜崎あゆみのことはCMなどで見るぐらいしか知らないが、それでも彼女が憧れていて、その格好を真似しているのが分かった。

彼女はそれからも僕をちらちら見ては、目を合わせ微笑んだ。しかし、誰も彼女たちの中で僕をマッサージしようとする者はいなかった。確かに、あんな細い体を見ると、ちゃんとマッサージ出来るかどうかも怪しいものである。すると、ふと先程の言葉が頭を過ぎった。彼女たちは200リンギットのサービス担当なのだと。しかし、明るく振舞い、お喋りする彼女たちに暗い影は感じられなかった。仕事と割り切って、また慣れきってしまっているのかもしれない。しかし、本当のことは僕には分からない。真実はその奥深くに隠されているかもしれないのだ。ただ言えることは、彼女は浜崎あゆみと同じ日本人である僕に、ほんの少し親しみを持ってくれていると言うことだった。気まぐれな親しみを…。

しばらくして、ようやくマッサージの女性が現れた。太目のがっちりした体格のオバサンだった。若い女性達とは違い、頑丈そのものと言った感じである。しかしその目からは、今では日本の中年女性が失った、母性愛のような万物に対する優しさが滲み出ていた。

オバサンはドアを閉め、僕は言われるままに、パンツ1枚の姿でベッドにうつ伏せになった。オバサンは白いタオルを僕の体に掛け、僕に跨って背中からマッサージを始めた。背中全体を撫ぜるようにしたり、背骨に沿ってぐっと指を押しつけたり、なかなか気持ちが良い。背中から肩、首とマッサージは続く。首が凝っていたのが分かったのだろうか、念入りに揉んでくれる。それが気持ちよく、一瞬、ふっと眠りに引き込まれた。

ドアの外では、若い女性達の声がしていたが、その内、客が来たのか、部屋から出て行く足音が聞こえ、お喋りの声がしなくなった。

脚をマッサージすると言われ、ちょっと恥ずかしい気がしたが両足を開いた。オバサンは片足を両手でもって、脚の付け根から膝に向かって、適当な力を加えながら絞るように何度も下ろす。足先へと血液を送るような感じである。両足とも同じようにするのだが、脚の付け根に手をやる時、たまに手の甲が当たるか当たらないかの微妙なタッチで小袋に触れ、何故かひやりとさせられた。その後、膝からふくらはぎ、足首にかけて同じようにマッサージをする。時々、膝の裏側をぐっと指圧してくれる。歩いていると鈍痛を感じていた場所だ。何も言わなくても、それが分かるのだろうかと感心した。

 仰向けに体の向きを変え、脚のマッサージを続ける。すると、オバサンの手が止まった。そして「スペシャルは?」と聞くのである。僕は要らないとそれを断った。オバサンは頷くと、再び脚のマッサージを始めた。スペシャルとは男性器をマッサージすることで、営業上聞いておいたと言うことだろう。オバサンはその後スペシャルを催促することもなく、淡々とマッサージをしてくれたのである。

 正味40分ぐらいであろうか、マッサージが終わると、心なしか体が軽くなった気がした。血流が良くなったのであろう。僕は短パンとTシャツを着て、オバサンは部屋の内線電話で終わったことを伝えた。その様子を見ていると、やはりここのマッサージのメインはスペシャルや、性交なのだろうと言う気がしてきた。普通のマッサージをする分には、極めて不自然な部屋の作りだからである。内線電話の他に、照明も明るさを調節出来るようになってい るし、角には仕切られたシャワー・スペースもあるのだ。しかし、たまに僕のように疲れを癒そうとマッサージだけを受けに来る客もいるので、このオバサンのような人がいるのであろう。そんな気がした。

 ドアを開けると、向かい側の部屋には印度系の女性が一人だけいて、携帯電話からe-mailでも打っている様子だった。僕は受付で軽く礼を言い、その店を出た。それからも、妙に浜崎あゆみが好きだと言った彼女の笑顔が、しばらく頭から抜け出さないでいた。

 道に沿ってぐるりと回ると、賑やかな通りに出た。ここがメインのブキ・ビンタン通りだったのだ。ブキ・ビンタン通りに面して、幾つものマッサージ屋が並んでいた。店頭には足の裏のツボを描いた絵が貼られ、店内も明るい。マッサージをしませんかと、通行人に声を掛ける係員もいる。先程入ったマッサージ屋とは明らかに違うのである。あのオバサンのマッサージがどれほどのものかは分からないが、ちゃんとしたマッサージも受けてみたいと思ったが、止めた。通行人に声を掛ける、明るく健康そうな女の子の姿を見ていると、何故か止めようと思ったのだ。

僕はまた裏口から入ってしまったようだ。この街の、僅かではあるが、その営みの一部を覗いたような気がした。

午後7時過ぎ、チャイナタウンに戻ると、プタリン通りは一変していた。両側に屋台が並んでいたのが、通りの中にも屋台が出て、歩ける場所は人一人通れる幅ぐらいにしかないのである。まさに通りが屋台に埋め尽くされてしまっていた。これが毎日だと言うのだから、年中お祭り気分である。狭い通路をすれ違う人と 互いに避けながら歩く。衣服や玩具、偽ブランド時計に違法コピーのDVD。なにやら微笑したくなる。前に歩く人が、店先で足を止めようものなら立ち往生してしまう。そこを背中を合わせつつすり抜け前に進む。スリが多いと言われる訳だと妙に納得した。通りが狭い上に、人が多くて、とても品定めをする気になんてなれない。人の熱気と汗で蒸し暑い。子供から大人、学生やチンピラ、中国系、インド系、東南アジア系、マレーシア人、アメリカ人、ヨーロッパ人、日本人等々、あらゆる世代、人種の坩堝と化している。規模とすれば香港の女人街や男人街の方が断然大きいが、その込み具合と言ったら、それ以上である。この狭い通りにぎゅうぎゅうに屋台を詰め込み、買い物に、食事に、遊びに、ナンパに、観光に、と四方八方から人がやってきて、まるで蜂の巣のような騒ぎである。

僕はようやく通りを抜け出し、横道に入った。横道は大衆食堂がずらりと並び、店の前には飲食関係の屋台がこれまたずらりと出ていた。これらの屋台は大概その背後の食堂が出しているのである。お腹が空いていたので、ふらりとフード・コートの前に足を運んだ。そこは白い壁にタイル敷きの床に幾つもテーブルや椅子を並べられたオープン・スペースで、多くの人が夕食を食べている姿があった。煮物、揚げ物など10種類もの惣菜をバットに並べてあり、そこで立ち止まると、間髪入れず「食べますか?」と若い男の威勢良い声が掛かった。その絶妙なタイミングに、勿論と即決した。彼は皿にご飯を盛って、僕に手渡した。それを持って、気に入った惣菜を皿に乗せていく。所謂ぶっかけ飯である。中華ソーセージ1本と、鶏肉の醤油煮込み、豚肉の角煮とオクラの煮物、青菜の湯がいたのと高菜を炒めたものを皿に乗せた。全部で10リンギットと言う安さである。たぶん、1種類につき2リンギットなのではあるまいか。ふと横に立てかけてあった看板を見ると、経済飯と書かれてあった。

スプーンとフォークを貰い、テーブルに着く。ビールの大サイズを注文すると、カールスバーグの大瓶が出てきた。12リンギットである。それからも、食べ物の安さが分かるものである。味はどれも美味しい。醤油味がベースで、とても食べやすいのだ。スパイシーな東南アジア料理ではなく、やはりチャイナタウン、中華料理だった。中華ソーセージはほんのりと甘いのだが、それを汁の染みたご飯と一緒に食べると旨い。鶏も豚も甘辛く柔らかく煮込まれ、ご飯が進む。青菜は特に味をつけていなく、それが返って良い。野菜の青臭さい苦味は旨みにもなるのである。それから、ピリッと辛い高菜、これがアクセントとなって皿を纏め上げる。そして、ビールも旨い。一つの皿で大満足の夕食であった。どれも美味しく、その他の惣菜も試したくなる。色々な組み合わせも出来そうだ。しかし、もうお腹一杯であり、それを試す機会は残念ながらなかった。

しばらく周辺を目的もなくぶらぶら歩いて、ホテルに戻ったのは午後9時過ぎだった。通りは賑やかでまだまだこれからと言った感じである。僕は部屋に戻って、途中セブンイレブンに寄って買ったタイガービールを開けた。ロングサイズの大瓶である。コップに注ぎ、1杯目は一気に飲んだ。ほんのりと苦い液体が喉に心地よい。少しカーテンの隙間を開けて、夜の街を見回した。しかし、そこには錆びたトタン屋根が見えるだけだった。

翌朝8時にホテルを出た。早朝のチャイナタウンは夜の屋台街の喧騒は消え、ゴミや饐えた臭いに、その残影が見えるぐらいだった。しかし、街は静かに鼓動している。朝早くから食堂は営業を始め、朝食の粥を客に供していた。しかし、その様子は穏やかな朝の空気と同じでのんびりとしている。思い思いに粥を啜る客たちも、どこか1本ネジが緩んだように緩慢だった。それは日曜日の朝だったからかもしれない。

僕はパサール・セニ駅からLRTに乗り、隣のKLセントラル駅で降りた。そして来た時と同じくKLIAエクスプレスに乗り継ぎ、KL国際空港に向かった。

クアラルンプール。たった1日の滞在であったが、とても興味深い街だった。ほんの一部しか見ていないが、人々の生活に自由と活気が感じられた。様々なものが入る混じり、絡み、雑多で混沌としているのだが、不思議としっくりと混在している。一つの皿にあれやこれや乗せた、ぶっかけご飯のようである。クアラルンプールはまさに経済飯のようであった。そして、また食べ てみたいと思ったのも確かである。

終わり

06/12/2004

TOPに戻る


 

 

コ・サムイ(タイ)

 

サムイ島は、タイ湾に浮かぶタイで3番目に大きい島で、ビーチリゾートしても知られている。現地語ではコ・サムイ(Koh Samui)と呼ばれ、コ(Koh)は、島と言う意味である。綺麗な海を期待して行ったのだが、9月は雨の多いシーズンのためか、乳褐色に濁っていた。後で分かったのだが、天気の良いシーズンは1月~5月だった。それでも雨と言ってもスコールのようなもので、時折降ってはまた晴れると言った天気である。

僕が滞在したのは島の北東のチョーモン・ビーチにある、インペリアル・ボート・ハウスと言うリゾートだった。そこではリゾートの名の通り、ボートの形をしたバンガローがいくつもあり、その内装はなかなかシックで、船の中にいるような気分を味わえる。しかし僕が泊まったのは普通のホテルタイプの部屋であった。独り身の男としては、そのくらいが丁度良い。

サムイでは、日本の免許証があれば50ccのバイクをレンタルできる。それで、バイクを借りて島内を走って楽しんだりした。バイクがあれば、半日もあれば島を1周出来る。風を受けながら走るのは、とても気持ちが良い。時折、バイクを止めて景色を見たり、マーケットを覗いて見るのも面白かった。島の西側に港があって、その周囲はローカルの人々の暮らしを見ることが出来る。衣料品、食料品などの店、レストラン、マーケットなどがあり、それらを見ながら歩くのも面白い。さすがに魚介類は豊富で、卵を持ったガザミ(渡り蟹)や、エビ、色々な魚が売られていた。特に買い物をする訳ではないのだが、そんな場所を散策するのは楽しいものである。

島での過ごし方は、バイクに乗って島を回る以外は、ビーチで過ごしていた。とは言え、セイシェルのような青く美しい海を期待して行ったものだから、そのギャップは大きかった。季節もあるのだろうが、透明感のない乳褐色に濁った海に、感動はなかった。海に入って、波に揺られて遊んだり、砂浜に打ち上げられた珊瑚の欠片を拾ったりしながら、ゆっくりと過ごすのである。そして夕方になると、決まってビーチの砂浜を歩いて、ホテルの隣にあるレストランに行った。

レストランはシーフードをメインにしていた。浜辺に出された屋根付きの小さな売り場に、新鮮なエビやカニ、魚が並べられ、それらを見て、気に入った物があれば、それを料理してくれるのだ。時にはサメなどもあって、シャーク・ステーキはここの名物料理らしい。しかし、サメやエイと言った軟骨魚は、その肉にアンモニア臭があることを知っていたので、態々食べようとは思わなかったが、今になって思えば、話の種に食べても良かったかなと思ったりする。勿論、それ以外のメニューもあったが、大概並べられた物から選んで食べることが多かった。味付けはシンプルで、食材の味を生かした調理方法で出された。特に辛いと言ったこともなく、食べやすく美味しい。ガザミをボイルしたものに、ピリカラのソースを少量つけて頬張ると、カニの旨さとナンプラーのコクとトウガラシの辛さがアクセントになって、口を動かしながらも笑ってしまう。美味しい物を食べると、笑ってしまうのは何故なのだろう。

ある日、バットにセイゴ(スズキの小さいもの)を見つけ、迷うことなくそれを選んだ。そして、その日に限っては任せずに、スチームにしてくれと調理方法まで指定した。そう言うと、店員も「それは良い。」と言ってくれ、すぐさま調理場に持って行った。僕は砂浜に並んだテーブルの一つに着き、シンハビールを飲みながら料理の来るのを待つことにした。爽やかな風を感じながら、次第に暮れていく海を眺めるのはとても気持ち良い。打ち寄せる波が、浜の微細な砂粒を擦りつけている。珊瑚の欠片が多く混じっているからなのか、その波音は幾分軽いように思えた。暗くなった波打ち際を、楽しそうに歩く男女の姿がシルエットで見える。夜はシルクのショールのように肩を覆い、艶やかに全てを美しく見せる。浜に明かりが点り、背後にあるレストランの本館から音楽が聞こえてくる。漁船なのだろうか、遠く真暗な海の上に、明かりが2つ3つ見えた。

料理が運ばれてきて、テーブルに置かれた。みごとに蒸しあがったセイゴは、見るからに美味しそうだった。それを醤油ベースのソースに付けて食べるのだ。味は文句無く満点である。スズキを蒸して食べる 美味しさを知ったのは、中華の清蒸を知ってからだった。初めて食べたのは、シンガポールのシーフード・センターに行った時で、それまで刺身や焼き魚が多く、蒸したものを食べた記憶は殆どなかった。食べているとは思うが、記憶に残るほどの物はなかったのだと思う。しかし、それを口にしたとたん、その上品な美味しさに脱帽したね。それ以後、白身の魚を買ってきては清蒸モドキ料理を作って食べたりすることも多い。新鮮な魚はやはり刺身でと思うのだが、清蒸料理に関しては全然惜しくないのである。むしろ刺身とは同等、或いはそれ以上と思えるほどである。そこで出された料理は、清蒸ではなく、シンプルに蒸しただけであるが、それでも素材の旨さが引き出されて美味しかった。ちょっと辛いソースも食欲を刺激する。僕は身の一つ一つを骨から外し、もうこれ以上食べる所がないぐらいまでに、完璧に食したのだ。

アルコール類は、シンハビールとメコンと言うウィスキーをよく飲んだ。シンハビールは癖もなく、スムーズな咽越しで飲みやすく美味しい。メコンは甘みがあり、安っぽいバーボンのようであるが、それはそれで美味しいものである。やはり、現地で現地の物を飲むのが一番である。僕は夕方から夜遅くまで、そうやってビールやウィスキーを飲みながら熱帯の柔らかな空気を感じながら過ごしていた。

そうやっていると、若いアルバイト店員とも顔見知りになり、お喋りすることも多くなる。暇になると彼から近付いてきて話はじめることも多かった。僕はタイ語は全く分からないのだが、彼は英語を話すことが出来たのだ。その英語は、どちらかと言うと正式に勉強したのではなく、観光客相手に働いていて覚えたような感じがした。しかし、意思を伝えると言った意味ではそれで十分だった。若い男の子らしく、やはり異性に興味があるようで、日本人の女性はどうだと聞いてきたり、タイの女性はこうなんだと話してくれたりした。どうやら、タイの女性は気丈な方が多いそうである。とは言え、日本女性もそう大差ないのではないかと答えた。

最後の夜は雨が降ってきて、屋根のある本館で食事を取った。食事が終わり、いつものようにメコンを飲んでいると、傍のテーブルの上に1本のギターが置いてあるのを見つけ、ちょっとそれを拝借して弾いてみた。 すると、顔なじみの店員がやってきて、1曲弾いてくれと言う。それで、クラプトンの「ティアーズ・オブ・ヘブン」を奏ったら気に入ったようで、ちょっと待っていてくれと、厨房の奥に行き、小太鼓を持って戻ってきた。「何か奏ってくれ。」と言うので、「ホテル・カリフォルニア」を弾き始めた。すると、彼は小太鼓を両膝で挟み、曲に合わせて叩き始めた。軽い乾いた太鼓 の音がリズムを奏でる。ギターと太鼓の音が雨の降る闇に染み込んでいく。何だか楽しくなってきた。何曲か奏った後、彼は、今度はタイの歌の本を持ち出してきて、弾けるかと尋ねた。本を見てみると、楽譜ではなく、歌詞と、その横にコードを書いた簡単なものだった。どんな曲だか分からないが、弾けないこともないよと答え、とりあえず弾いてみることにした。書いてあるコードを押さえ弾き始めると、彼も太鼓を叩き始めた、そのリズムに合わせてコードを変える。すると、彼がタイ語で歌いだした。すると、ひと段落着いたのか、店員の若い男の子がやってきて、それを聞き始めた。二人は友達で、どうやらギターは彼の物らしい。彼に返そうとすると、続けてくれと言ってくれた。そう言われると後には引けない。僕らは違う曲を奏り始めた。そうしていると、女の子が3人現れた。彼女たちも彼らの友達のようだ。友達が見知らぬ外国人と歌っているのだから、好奇心一杯の瞳を輝かせて僕らを見ては互いに顔を見合わせクスクスと笑った。だんだん賑やかになっていく。楽しくなっていく。途中からギターを持ち主に返したが、それからも一緒になって、閉店時間近くまで飲んで 歌って楽しんだ。帰る頃には、僕以外の客は誰もいなかった。僕らは握手し、「今度は彼女を連れて来いよ。」と言われ、「そうするよ。」と答えて別れた。雨は幾分小雨になっていたが、まだ降り続けていた。

サムイの旅行のほとんど全てが、その夜にあった。今思うと、それなりに楽しんだが、その夜なしでは退屈な旅行だったかもしれない。音楽は見知らぬ僕らを包み込み、打ち解けさせてくれた。歌声と笑顔が溢れ、心は開いていた。

それ以後、僕はサムイに行っていない。今ではもう、彼らもあのレストランにはいないだろう。今度行く時は二人でと思うが、それも何時になることやら、見当もつかないままでいる。

終わり

11/13/2004

TOPに戻る


 

 

トラベラー

 

 旅をしていると、時々バックパッカーですかと聞かれることがある。そんな時僕は、いつも「ただの旅行者」だと答えることにしている。バックパッカーと言われることは特に嫌ではないが、自分の旅の仕方が、世間一般で言われるバックパッカーのそれとは違っていることと、そのイメージで見られるのに抵抗があるからである。

バックパッカーと言う言葉は、ヒッピーなどが世界的に流行った時代に、多くの若者が背中にリュックなどの荷物を背負って旅をしていたことから生まれ、自分で旅を創る旅行者を総じてそう呼ぶようになった。しかし、その根底には当時のヒッピー時代の面影を色濃く残しており、節約旅行と言ったイメージはいつも付きまとっている。巷では貧乏旅行などと言う言葉を良く聞いたり見かけたりするが、この言葉は嫌いだ。それは、あくまで節約旅行であって、貧乏なんかではないからだ。貧しい国に行くと、貧乏旅行をしていると思っている人たちより、はるかに貧しい生活をしている人々がいる。第一、旅行すること自体が裕福である証であるのだ。たぶん気楽に使っていると思うのだが、どうしても抵抗を感じずにはおれないのである。それは多分に、僕の変なところに拘る性格に寄ると思うが、バックパッカー=貧乏旅行と言うイメージも好きではない。

また、自称バックパッカーと言う人たちも、変な固定観念を持っている人たちが少なからずいる。「予約などしないで、現地に行って全て決める。それがバックパッカーだ。」なんて思っている人たちである。でも、そう言う人たちの多くが、「地球の歩き方」を片手に歩いている現実がある。そして、そこに載せられた安宿に泊まったり、名所を見て回ったりしているのだ。「何か違うんじゃない?」って言いたくなるが、それもその人なりの旅の楽しみ方なので否定はしない。

まあ、結局考え方の相違だと思うが、やはりそんなイメージがあるのは歪めない。言わせてもらうなら、僕なりのバックパッカーとは、「自分で旅を創る人」なのだと思う。

 それから、僕の旅の仕方から言うと、最近ではツアーを利用することも多くなった。節約旅行をするには、その方が良い場合が往々にしてあるのである。また、目的によりツアーを利用した方が良い場合があるのも確かである。ツアーも航空券とホテルのみで、全く個人旅行と変わらないものも多くあるので、それを使わない手はないのである。そんな意味で、ツアーと個人旅行の境が薄れてきているのも確かである。かと言って、それはやはりバックパッカーとは言い難い。本当の意味でバックパッカーになれる人は、自由な時間と、旅行出来るだけの資金がある人(個人差はあるが)なのである。そこでまた、その何処に貧乏なんて言葉が見つかるのか、なんて思ってしまう。一見貧しそうに見えても、それは自ら望んでいるのである。本当の貧しさは自分の意思に関わらず、降りかかって来るもので、決して望んだりするものではない。貧しさを望む人は、その時点で既に貧しくなんてないのである。しかも、彼らには帰る場所があるのだ。バックパッカーは色々な意味で、かなり豊かな人たちなのではないかと僕は思う。

 そんな訳で、僕はそう尋ねられたら「ただの旅行者(トラベラー)」だよって答えることにしている。

 

 マサイマラにあるムパタ・サファリ・クラブの敷地で、木陰に座って、明るい光に包まれた緑色のサバンナを見ながら、お喋りしたことを思い出す。その時は、上手く自分の考えを伝えることが出来なかった。話し相手は、同じロッジに泊まっていた二人の女性で、バックパッカーに憧れているなんて話から、そうだねと同意すれば良いものの、僕の天邪鬼気質が出てしまい、でも…と言ってしまったのである。結局、巷に蔓延しているバックパッカーのイメージが嫌だっただけで、バックパッカー=自分で旅を創る人、であれば僕だって憧れるし、そうありたいと願うのは確かだ。

僕らが展望の良いオロロロ丘の上で話をしていると、ロッジのスタッフが現れた。すると、僕らが座っているその場所が、ムパタで行われるマサイ式結婚式を執り行う場所なのだと教えてくれた。僕はそれを聞いて、カスタードクリームのような甘 いプロポーズの言葉でも発してしまいたいような気持ちになった。しかし、あいにく二人共既に既婚者であり、その甘さを全て自分で舐め取った。それほどに、素敵な場所なのである。実はこの場所は、初めて来た時からの僕のお気に入りの場所だった。独りで遊歩道を散歩していて見つけた場所だった。丘の上に一本の木が枝を横に張って伸びていて、その根元は赤茶色の岩盤が見えている。記憶がかなり曖昧なため怪しいが、確か、その木は「恋人の木(?)」と呼ばれていると聞いたことがある。そこから見る景色は広大で、ゆったりとサバンナを楽しむことが出来る。真っ青な空に、白い雲が浮かび、光は強烈で、全て が原色に輝いている。もしも、そんな場所に異性といたら、たちまちの内に恋が芽生えてきそうである。久しく恋愛と言う言葉を忘れてしまっていた僕でさえ、ふと思い出したのだから嘘ではない。とは言え、相手があっての話である。

夜には焚火を囲んで話をした。ムパタでは午後7時前ぐらいに、焚火が焚かれているのである。しかし、多くのゲストたちはそれを知らないでいる。崖の上に作られ た展望デッキで、急激に気温の下がり始めた夜に、炎の揺らぐのを見ながら焚火を囲むのは、暖かでとても楽しい。ここでも気障な台詞の一つや二つ発せそうな気分である。とにかくここにいると、すぐにでもロマンティックな感情になれること請け合いである。

夜も深まり、僕らはバンダ(客用コテージ)に戻る前に、夜空を眺めようとメインゲートの先にある駐車場に行った。それと言うのも、ロッジ内は明かりが灯っていて、それが邪魔だったからである。駐車場の前には大きな木が枝を張って立っていて、ロッジからの明かりを防いでくれている。宇宙を見上げると、満天の星が輝いていた。そのまま横になると、コンクリートで舗装された地面は、まだ熱を持ったままで背中が温かい。横になったまま宇宙を眺める。何等星まで見えているのだろうか、何万個もの星が輝いている。靄のようにうっすらと明るく流れる帯が見える。天の川だった。もし恋人と一緒にいたら、「You are one in a million.」などと真顔で言えたかもしれない。

 何だか恋人たちのためにあるようなロッジのようになってしまったが、それはそれで良い。旅人それぞれのスタイルで、自然を愛する人は必ず気に入る場所となるはずである。それほどにマサイマラは豊かで深淵なの だ。一般に言われるバックパッカーでは、高級ロッジでの滞在など選択肢に含まれないと思うが、こんな素敵な旅をみすみす見逃すなんて勿体ないと思う。変に定義なんて作らず、単に旅人であれば良い。そんな気がする。

僕は「ただの旅行者(トラベラー)」と言う言い方が気に入っている。まさにその通りであるが、トラベラーと言う意味には、単に旅行をしている人を意味するものではないものも感じられるからである。誰だったか、「人生は旅のようなもの だ。」と言っていたと思うが、トラベルと言う言葉には、旅や人との触れ合い、価値観や観念など、様々なものと出会い、そして経験していくのだと言うような意味合いを持っているような気がする。だから、旅先で君は何者かと尋ねられたら、「トラベラー」だと答えるのが、しっくりいくのである。深い意味を読み取って貰えるかどうかは大して問題ではない。要は 自分自身の気持ちなのである。なので、自分を「バックパッカー」とは呼びたくないな。

終わり

12/04/2004

TOPに戻る


 

 

アムステルダム

 

 スキポール空港に着くなり、まず初めに出会ったのはオランダのユーモアだった。それは、小用便器の前に立った時だった。便器のボールの中心に何かいる。見るとハエである。しかし動かないので注視してみると、それは便器にプリントされたハエの絵であった。本物そっくりに描かれたそれを見て、思わずにやりと笑ってしまった。そのセンスとユーモアに感心しつつ、実に愉快な気持ちになったのを思い出す。

 アムステルダムはよく知られた水路に囲まれた街である。目的もなく、ただ歩くのも良い。ガイドブックの大まかな地図を頭にいれているだけで、殆ど下調べらしいものはしていない。背中のデイパックには確かに本は入っているのだが、態々取り出して見ようと思わないのはいつものことである。感覚だけを頼りに進んでいくと、思わずマーケットに出くわしたりする。通り一杯にテント張りの露店が立ち並んでいて、店を一つ一つ覗き込む。魚屋、肉屋、チーズ屋、ピクルス屋、花屋、雑貨屋、下着屋、玩具屋、CD屋、etc…。色んな店が並んでいた。後でガイドブックを確かめてみると、アルベルト・カイプ通りと言う所だった。地元の人たちや観光客が集まる活気のある通りで、見ているだけで楽しくなる。

 シンゲルの花市場を見て、そこからファッショナブルな店の立ち並ぶカルフェル通りをダム広場まで歩くのも楽しい。途中の雑貨屋でコークスクリューを買った。帰りにスーパーマーケットに寄ってワインを買い、ホテルで一杯やろうと思ったからだ。500円ほどの物であるが、こう言った実用性のある雑貨などは、日本に帰ってきてからも使え、しかも使う時に、ふと当地を思い出したりして、安いテーブルワインでも、ほんの少し思い出と言う旨みが加わり、味わいが増す。特に名物でもなんでもないが、ちょっとした雑貨を買って帰るのも良いものである。

 レンブラントの「夜警」が展示してある国立美術館やゴッホ美術館はあまりに有名なので多くを語る必要はないが、勿論お奨め場所である。美術館の前に広がる広場で、のんびり過ごすのも良いかもしれない。そこで小学生ぐらいの子供たちがソフトボールに似た球技をしていた。クリケットに使うような板状の棒を振って球を打ち、ベースを回るのだが、打つ位置とホームベースの位置は違うようだ。また、攻守の変わるタイミングが今一 つよく分からなかった。しかし、確かにルールがあって、子供たちはそれに従ってゲームを楽しんでいた。そんな様子を、ベンチに座ってサンドイッチを食べながら眺めていた。

 市内はトラムが縦横に走っていて、行き方が分かればとても便利である。僕は厚いガイドブックを見るのは面倒なので、観光案内所で購入したトラムの路線の載ってある地図を、胸ポケットに入れて、時折確かめながら利用した。トラムに乗って街を見物するのも面白い。気まぐれに降りてみて、散策するのも良い。

運河沿いに歩いていると、ふと静かな住宅街に入り込み、大通りの喧騒が聞こえなくなる。アーチ型の小さな橋が運河に掛かっていて、それは人と自転車用である。運河には何艘ものボートが係留されていて、緑の木々が覆いかぶさるように、その上に枝を伸ばしていた。その景色は季節によって様々な様相を見せてくれるだろう。そんな先にアンネ・フランクの家があったが、人の行列が出来ていたので入るのを止めた。

 アムステルダムにいて、一番興味深かった場所は、なんと言っても「飾り窓地区」だった。昔、船員相手の酒場や売春宿が集中して出来た場所で、窓のある個室が通りに面して立ち並び、その窓から下着姿の女性が顔を出して いたりするが見える。オランダでは飾り窓での売春が合法化されたので、勿論此処での売春は合法なのである。ポルノショップなどの店もあるが、やはり「飾り窓」の存在が面白かった。

昼間に行くと、大人のテーマパークみたいな感じで、観光客などの見物人が大半で女性の姿も多い。人通りの多い運河に面した通りの飾り窓には、はっとするような綺麗な女性が下着姿でいて、見詰められると、こちらの方がなんだか恥ずかしくなってしまう。生真面目で恥ずかしがり(?)の僕は、当初、目の遣り場に困ったり、視線を外して早足で歩いたりしていた。しかし、周囲の人たちの楽しむ様子を見て、ふと自分が中世からやってきた人間のように思えてきたのだ。そして、斜眼で性を見る自分が恥ずかしくなってきた。性に対し前向きで開放的な彼らの姿の方が、自然に思えてきたのだ。僕はあまりに性を意識しすぎていたのかもしれない。それは、生物として 当然であり、何らタブー視する必要などなかったのだ。

そう思うと、この特異な界隈を歩くのが面白くなってきた。人通りの少ない脇道にある飾り窓には、「え?」と思うようなダイナミックな体格の人や、「その歳で?」と思わず疑ってしまうような人もいた。白人、黒人、東洋人とその人種も様々だった。でもやはり、下着姿の美人と目が合うと、恥ずかしくなってしまうね。

夜になると、通りはネオンがギラギラ輝き、怪しい雰囲気が増す。赤いカーテンが引かれて中が見えない部屋が多くなっていた。つまり客が入っているのである。傍観者側の立場としては、面白くなくなってきたので、そこを去ることにした。

 途上国において問題となっている売春と、ここで行われている売春の決定的な違いは、違法・合法と言う前に、職業選択の自由があるかないか、の違いであるように思う。ここで働く女性達は、少なくてもこの職業しか選択の余地が無かったとは思えない。確かに、マフィアが東欧の少女達を人身売買して売春させると言う話もあるが、それはこのような場所ではなく、もっと地下に潜んだ、見えない所の話である。(それは厳しく取り締まり、撲滅させる必要がある)まして、飾り窓で働くにはライセンスが必要なため、ここで働くなど到底無理な話なのである。ここで働く女性たちは、若かろうが何だろうが、まさしくプロなのである。

飾り窓界隈には、コーヒーショップが多くある。店の前を通ると、何とも言えない妙な臭い匂いがして、鼻に皺を寄せることも多い。後になってそれがマリファナの匂いだと分かった。コーヒーショップとは、コーヒーを飲む所ではなく、マリファナなどを喫する所なのである。オランダではマリファナも合法で、自宅で栽培している人もいると聞く。コーヒーを飲む場所はカフェである。くれぐれも間違わないように。

「オランダは売春もマリファナも合法だなんて、なんて国なんだ?」なんて思えてくるかもしれないが、逆に自由と個人の意思を尊重した民度の高い国とも思えてくる。自由と言う概念は、それに従う程に、個人の責任が重く圧し掛かってくるものである。何かと規制に縛られ、自由と我侭の区別もつかない能天気な若者が多くいる国では理解し難いかもしれないが、自由とはそう言うものなのである。外に向かって限りなく開かれているが、内に向かっては、厳しく自己責任に委ねられる。言い訳は通用しないのだ。誰のせいでもない。自分なのである。

小さなことかも知れないが、トラムに乗っていても、そうかもしれないと感じた。それと言うのも、トラムは無賃乗車をしようと思えばいくらでも出来てしまうのである。検札に見つかれば、多額(最高でも30ユーロ程度だが)の罰金を課せられると聞いているが、検札など殆ど無い に等しい。アムステルダムに2日間いて一度もお目にかかったことがないのだ。そんな状況であるが、市民は切符や定期を購入して利用している。自由だからこそ、ルールを守るのだと言う意識が染み付いているようである。

過去からの歴史や文化、教育が育んだものに違いないと思うが、規則を守らないために、さらに規則や罰則を次から次に設ける何処かの国とはえらい違いである。そう思うと、売春やマリファナまでも合法化できるオランダと言う国は、凄いと思う。それが、良いとか悪いとか言う話ではない。まして、この国でも多くの議論や討論を重ねた結果選択されたのであるから、むしろそれを尊重したいと思う。そして、そこには国民の自由の精神と、人格尊重が脈々と強く流れ、受け継がれているからに他ならないと感じるのである。

アムステルダム、また行ってみたいな。

終わり

12/11/2004

TOPに戻る


 

 

冬の散歩道

 

2000年の元旦。僕はパリにいた。大晦日の夜、世紀の節目は熱く輝き、街には人々が溢れ、パリのパワーを感じた。翌朝午前8時過ぎ。ホテルを出た。サンジェルマン通りには人影は殆ど無く、お祭り騒ぎの終わった後の、大量のゴミとくすんだ色の朝があった。パリの朝は気だるい雰囲気に包まれている。大晦日の熱狂が更にそうさせ、街は二日酔いに侵された中年オヤジのような表情を見せていた。少し先の教会前の広場に接しているカフェに入った。常連らしい数人の客がいた。きっと彼らは何があろうと、その生活リズムを壊さず、頑なにカフェ通いを続けているのだろう。

僕は窓際の席に座りカフェオレを頼んだ。それはすぐに運ばれてきた。砂糖は入っておらず、自分の好みでテーブルにある砂糖を入れて甘みを調節すれば良い。とは言え、僕はミルクだけの入ったカフェオレが好きなので、砂糖はいれたりしない。カップの柄を持ち口に運ぶ。熱い液体をそっと啜ると、ミルクの豊かなベールを纏った褐色の貴婦人の個性が感じられた。エスプレッソに入れられたコーヒーは香りも華やいでいて、鼻腔をくすぐる。少し泡立ったミルクがまろやかにそれを包み込んでいる。窓越しに通りを見ると、まだ傾いたままの冬の柔らかな朝の日差しが、通りを照らしていた。

僕はデイパックから一冊の本を取り出した。「ゲーテ格言集」だった。おもむろにページを拡げそこに書かれている一節を読んだ。

-すべては等しく、すべては等しくない。すべては有益であり、かつ有害である。すべては語ると同時に無言であり、理性的であると同時に非理性的である。人が個々の事がらについて表白することはしばしば相矛盾する。-

すべての相反するものが存在する。それが真理なのかもしれない。矛盾と感じるものも、じつは鏡の裏表であったりするかもしれないのだ。

たまには少し休んで、のんびり考えることも良い。彼の哲学者たちも、パリのカフェで考え、語り合い、議論を戦わせた。たまには内に向かって語りかけるのも良いものである。とは言え、「お昼に何を食べたいのか?」や「パリに住むにはどうしたら良いのか」と言った程度である。生きる意味や真理を紐解くなんてやっていたら、そのまま化石になってしまう。せっかくの温かなカフェオレを冷たくさましてしまうのだけは御免である。

カフェオレで体を温めてから、カフェを出た。別段行き先など決まっていなかった。メトロの駅があったので、ポケットにしまいこんでいたメトロの路線地図を取り出して見た。それはガイドブックから切り取ったものだった。モンパルナスと言う響きがなんとなく良かったので、そこに行ってみることにした。地下にあるメトロの駅に降りる冷たい階段を下り、カルネ(切符)を改札に通してプラットホームに入った。カルネとは10枚綴りの割引切符でお得である。日本の回数券のようなものであるが、割引率も高く、また乗降駅が定められている訳でもないので、とても便利なのだ。電車に乗り込むと、かなり空いていた。元旦の朝は、どこもかしこもひっそりとしていた。

モンパルナスを歩いてみたが、特にこれと言ったものは感じられなかった。街に不釣合いなモンパルナスタワーの存在が気になる程度だった。大通りには歩行者の姿があるが、ちょっと外れて路地に入ると、人影は殆ど無く、マンションの壁に囲まれた通りはひっそりと佇んでいた。目的などなかった。ただ、街を歩いていた。ただ、ただ、歩いていただけだった。それだけだった。

モンパルナスを離れ、メトロに乗って移動した。途中メトロは地下から地上に出て、そのまま高架線を走った。ビルの間をゆるゆると走る。少し行くと川が見えた。セーヌ川である。そしてまた地下に潜り込んだ。イエナと言う駅で降り、地上に出る。通りを進むと、シャイヨー宮があった。広い階段を上った先には、セーヌ川を挟んで、エッフェル塔がどっしりと建つのが見えた。パリに来たのだから、一度はエッフェル塔を見ておこうと思っていたのだ。シャイヨー宮から見る塔はなかなか見事だった。塔の中腹に輝いている「AN 2000」と言う文字が新しい世紀を感じさせた。

エッフェル塔に向かって降りて行くと、何本もの木が倒れている。パリを襲った嵐のために、樹齢ウン年と言う古木までもが倒れてしまったのだ。それはチュイルリー公園でも見たものだった。もしかしたら、ナポレオンや第二次大戦など見てきたかもしれないと思うと、ひどく残念な気がした。エッフェル塔に向かってまっすぐ架かるイエナ橋の前の広場には多くの人がいた。その殆どが観光客なのかもしれない。メリーゴーランドがあって、子供や大人がそれに乗ってぐるぐる回っていた。僕はメリーゴーランドに乗って楽しいと思ったことは一度もないが、乗っているのを眺めるのは楽しいものである。上下に揺れながら回る白馬に跨った女の子が、それを外から見守る親を見つけては満面に笑みを浮かべ、手を振っている。その光景がとても和やかであり、優しく染み込んできた。僕の心は涸れかかっていたのかもしれない。そして、独りでいることがちょっと淋しいと感じた。ちょっとと言ったのは僕のやせ我慢かもしれないな。

イエナ橋を渡りきって、エッフェル塔を間近に感じた時だった。エッフェル塔の下まで行こうと思っていたのだが、ふと考えが変わった。このままセーヌ川沿いを歩こうと思ったのだ。何故そう思ったのかは定かではないが、たぶん人が多すぎたからだと思う。僕は増水したセーヌ川を眺めながら川沿いを歩くことにした。

セーヌ川の増水はひどく、川の両岸の遊歩道までが冠水していた。川に浮かぶレストランも休業状態だった。しばらく歩くとビルアケム橋が見えてくる。橋の下には細長い島がある。それは人工の島で、1825年に作られたそうである。その島には橋の中腹に階段があって降りられるようになっていた。そこは並木道が一直線に続いていて、「白鳥の小径」と呼ばれている。白鳥はいなかったが、カモが数羽いて羽を休めていた。冬の散歩道にはうってつけの場所だった。ゆっくりと自分のペースで歩く。地元の人であろうか、犬を連れた人とすれ違う。自然に笑みか零れ、目だけで挨拶を交わした。

島の先端に着くと、そこには小さな自由の女神像があった。ニューヨークのリバティ島のそれは実際には見たことがないが、外洋を見据える巨像と同じく、この小さな像も、セーヌを見据えていた。

終わり

01/22/2005

TOPに戻る


 

 

The Sound of Silence

 

マサイマラの夜。パーカーを羽織って、サバンナを見る。大地は墨を流したように真っ暗で、遠くの山の峰がその陰をくっきりと夜空に現していた。夜の空は、星々の煌きで大地の暗さよりもずっと明るく、本を開いて読むことが出来そうなくらいである。何億もの星が宇宙に散らばり、柔らかな光を届けている。聞こえる音は何も無かった。しんとした静けさが、広大な拡がりを感じさせる。突然、「Boow…Boow…」と何処からか動物の鳴く声が聞こえた。カバの声だった。それっきりで、また静けさが戻った。ここにいると、僕という人間の存在さえも失ってしまう。蟻ほどの実在も感じないのだ。空間を漂う微細な塵と同じで、ただ流されていくだけである。意思も思想も、信仰さえなく、ただ、ただ、溶けていく。

それが、いつしか同化して無限の拡がりを持ち始める。あれほど小さかったものが、みるみる大きく膨らんでくる。呼吸がサバンナを渡る風になり、手は冷たい空気となって、草原に眠る動物たちを静かに撫ぜる。数え切れないほどの星の輝きを胸の内に潜め、宇宙と自然の神秘に心を委ねるのだ。

 

聞こえるかい? 静寂の音が…。 聞こえるかい? 物言わぬ声が…。

 

僕らはまだ感じることが出来るんだ。ここに来てごらん、きっと君も聞こえるはずさ。

終わり

02/01/2005

TOPに戻る


 

 

Song for the Asking

 

サイディアフラハはキテンゲラにある小さな施設だった。そこでは何人かの子供たちが養育されていた。施設は金網に囲まれているが、それは外部から守るためで、決して子供たちが逃げ出さないようにするものではない。ここケニアでは、それが当たり前なのだ。それでも何度か泥棒が入ってきたと、カリル園長先生が話してくれた。この施設は、日本人である荒川 勝巳さんと共同で起こしたNGOで、養護施設の運営や、職業訓練など地域コミュニティの支援などを行っている。外国(日本)からの支援を受けていることで、妬まれることもあると園長先生から聞いた。ケニア人の多くが、外国人は皆お金持ちだと思っているらしく、外国人と付き合ったり、結婚したりすると、上手くやりやがったと思われたりするのだ。また友達と思っていても、ケニア人と外国人の間には、地溝帯よりも深い溝があったりするのである。NGO団体であってもそれは同じなのである。

しかし、施設は質素と言う以外に言葉は浮かばなかった。僕が訪ねた頃は、まだ電気も無かった。乾いた褐色の剥き出しの地面に、幾つかのコンクリートの壁の家が建てられ、その片隅には、小さな畑があり、スクマ(青菜)が育てられていた。それから、数羽の鶏がいた。勿論、どちらも食用である。施設には2匹の犬が飼われていた。これは泥棒除けである。夜間忍び込んでくる輩に対し、吠えたり噛付いたりするのだ。

施設の訪問記録ノートに名前や住所を記入してから、施設内を案内してもらった。そして、子供たちと彼らの母代わりになっている寮母さんを紹介された。子供たちは皆、明るく元気で、施設に保護されているなんてこと忘れてしまうぐらいだった。僕らはダイニングルームに集まって、自己紹介をし、一晩泊まることを伝えた。子供たちは歓迎の歌を歌ってくれたり、縦笛を吹いてくれたりした。縦笛は学校のイベントで披露するために、猛特訓して練習したそうである。素朴で温かな歓迎がとても嬉しかった。

それが終わると、寮母さんと、僕を連れてきてくれた女性は一緒に夕食の準備に取り掛かった。彼女はナイロビの旅行会社に働いていて、僕がケニアの人々の生の生活に触れてみたいと言ったところ、個人的に此処に誘ってくれたのである。彼女は日本から送られてきたシチューの素を持ってきていて、それで美味しいシチューを子供たちに食べさせてあげたいと張り切っていた。此処のキッチンは、厚い土壁が盛られたカマドだった。ガスなど無く、木片を燃やして調理するのである。彼女は寮母さんと楽しそうに話しながら支度を始めた。

僕はダイニングルームで子供たちと一緒に遊んだ。縦笛を借りて、昔覚えた「きらきら星」を吹いてみせると、「ワッ」と歓喜の声が上がった。子供たちはとても人懐っこくて、僕の傍に座り、僕の顔を見ては無垢な笑顔を見せるのだ。唯一知っていたケニアの歌である「ジャンボ ジャンボ」のフレーズを少し歌ってみると、とたんに反応し、大合唱になった。僕は歌詞は殆ど知らなかったので、彼らの歌うのを真似て、その後に続く。その発音がおかしいと、注意され、また歌う。僕が手拍子を入れると、さらに拍車が掛かった。笑いと歌声が混じり、そこいら中に響く勢いである。それを、隣のキッチンから食事を作る二人が幸せそうな笑顔で覗いていた。大声で歌ったのは本当に久しぶりだった。

さんざん 歌い、笑ったので体が熱くなり、体を冷やすために表に出た。子供たちも一緒についてくる。すると犬が1匹やってきた。僕はその犬が泥棒除けに飼われているなんて知らなかったので、そっと手を差し出した。すると、犬は僕の拳をくんくんと嗅いだ。少しの間嗅がせて、大丈夫だと思ったので、その犬の頭や耳裏を撫ぜてあげた。子供たちはびっくりした様子をみせて、丁度そこへやってきた園長先生に、「噛んだりしないよ!!」と、どうしてなのと言わんばかりの表情で言った。園長先生もちょっと驚いた様子を見せたが、「中にいるからだ。」と言った。そして、「外から入ってくる者には吠えたり噛付いたりするんだよ。」と言った。でも、子供や園長先生の表情に薄っすらと「?」が浮かんでいた。それがすごく嬉しくなった。きっとあの犬は、見知らぬ人には攻撃的になるのかもしれない。子供たちが傍にいたとは言え、あまりにすんなりと頭を撫ぜさせたのだから、きっと驚いたのだろう。撫ぜた後の手の平はひどく臭かったけれど、犬にも仲間と認めてもらえたような気がして嬉しかった。

食事の後は、ラジオを点けて音楽に合わせて踊った。子供たちも寮母さんも、彼女も僕も踊った。子供たちに一緒に踊ろうと言われたら、恥ずかしいなんて言ってられない。腕を上げ、腰を振って踊ると大爆笑手足の短い日本人の僕の踊りが、滑稽に見えたのだろう。ズーラと言う名の小さな女の子が僕の傍にやってきて、一緒に踊ってくれる。小さいけれど、すらりと伸びた手足はしなやかで、その動きは猫のように美しい。血で踊っているのだと感覚的に分かる。彼らを見ていると、踊ることは生活の一部であり、特別なことでも何でもないのだ。音楽があれば自然に踊りが始まる。血がそうさせているのだ。僕はひとしきり一緒に踊ったが、とうとう疲れてしまい。椅子にへたり込んでしまった。しかし子供たちは元気なものである。疲れを知らないとはこのことで、元気に踊り回っていた。男の子に「君はマイケル・ジャクソンみたいだね。」と冗談を飛ばす。すると彼は真に受けたのか、「マイケル! マイケル!」と嬉しそうに叫ぶと、くるくると体を回転させた。

踊った後は皆でテーブルを囲み、話をした。園長先生は、ビーズのアクセサリーを束にしながら、僕に尋ねた。「もし良かったら、これを日本の事務所に届けてもらえないか?」と。僕は勿論承諾した。ほんの少しかもしれないが、協力出来るのは僕にとっても嬉しいことだった。ビーズのアクセサリーは、日本の団体が運営しているショップで売られ、それを活動資金の一部としているのだ。そのアクセサリーは全て手作りであることも僕は知っていた。

いつもの就寝時間はとっくに過ぎていたようだった。それに気付いて、子供たちに寝るように園長先生が言った。子供たちはまだ離れたくない様子だった。寮母さんが、さあさあとそれを促すように、子供たちを立たせた。僕らも、そろそろ寝ることにすると伝えると、園長先生が、ゲストルームに連れて行ってくれた。ゲストルームと言っても、特に用意されたものではない。施設の一角にある空き部屋である。中にはベッドが一つ置いてあるだけだった。しかし、蚊帳の下げられたベッドには、清潔な白いシーツが敷かれてあった。明かりは懐中電灯一つである。僕はすぐにベッドに潜り込み、電灯を切った。暗い室内よりも窓の外の方がずっと明るい。月光が薄っすらと差込み、部屋に影が出来ていた。静かな、静かな時間が流れていた。

翌朝、僕は一人の男性に質問された。昨日は会っていなかったが、彼もこの施設に住んでいる人だった。「ここはどうだい?」と僕に聞く。僕はその時、すぐに返事が出来なかった。言葉が思い浮かばなかったのだ。そして、「風が気持ち良い。」とだけ言った。彼は少し当惑したような顔をしたが、そうかと頷いた。白状するが、僕は本当にその問いに対し答えが見つからなかったのだ。何もかもが、いっぺんに何の緩衝もなく、直接僕の内部に入ってきて、それを消化出来ずにいたのだ。沢山のものが、同時に僕に中に取り込まれ、生まれ、何が何だか分からない、そんな状態だった。別にパニックに陥っている訳ではない。それは静かに佇んだ、深く濁った沼のようで、僕は、その中を覗こうとするのだけど、何も見えないのだ。しかし、ねっとりとした濃密な水の中で何かが蠢いているのを感じている。しかし、その正体が分からないでいるのである。

僕は施設を離れるに際し、1本のアーミーナイフを置いていくことにした。昨晩、栓抜きが壊れてしまったのを見たので、これなら簡単に壊れることはないだろうと思ったのと、感謝の気持ちを表したいと思ったからだ。そのナイフは高校時代から長年愛用してきたものだったからこそ、ここで使ってもらいたいと思った。僕の気持ちがここに残るような気がしたからだ。今もそのナイフは使われているだろうか? そして、子供たちの成長を見守り続けていてくれたらと思う。

 いつかまた、一緒に歌えたら…。その時は、お望みの歌を捧げよう。皆が笑顔を見せてくれるように。

終わり

02/12/2005

TOPに戻る


 

 

Sunshine on My Shoulders

 

 湖の街、ルツェルンから電車で1時間ほど行った所に、「天使の村」と言う名前のエンゲルベルク村 がある。スイス中央の、山に囲まれた小さな村で、アルペン・リゾートとしても知られているそうである。 しかし、ガイドブックに少しだけ載っている程度で、どう言う場所なのか興味を覚え、行ってみることにした。エンゲルベルク駅を出て、村の中心と反対の右側に進み、川を渡ると小さな遊歩道に出る。そこには緑の牧場が広がっていて、遠く向こうには、美しい岩峰群、レゲート・ヴィントゲーレンが見え た。早朝の新鮮な光の中で、少し雪を被ったその岩峰群は白く輝いていた。岩峰を背に進んでいくと、ティトゥリス山頂まで上るロープウェーの駅がある。僕はそれに乗って、まずは山頂から下界を眺めることにした。

 クライン・ティトゥ リス(山頂)駅は、丁度標高が10,000フィート(3,028メートル)の場所にある。駅にはレストランやお土産屋などあるが、氷河に出来た洞窟にも入れるようになっている。洞窟に入ってみると、かなりの大きさで、探検隊にでもなったような気分になる。ライトアップされた氷の壁がとても美しかった。駅から外に出ると、そこは一面の銀世界。夏でも雪は解けずに残っているので、夏スキーでも賑わうそうである。しかし、その時は、スキーをしている人は誰もいなかった。とは言え、真っ白な雪を見ると、そこに足を踏み込んでみたくなるのは誰しも同じようで、 多くの人たちの、展望台の周りの雪原で遊んでいる姿があった。

 勿論、僕も雪の上を歩いた。足跡の無い所を見つけては、業とそこに足跡を残す。子供の頃とちっとも変わっていない。何故かそれが嬉しいのだ。ざくざくと雪を踏み分け、ロープを張った所まで登った。その先は断崖絶壁。もっとずっと高い所に行きたい人は、3歩ほど前にお進みくださいって所だ。標高3,504メートルのステンホルンの切り立った頂に風が当たり、気流が巻き込まれて雲が出来ている。山頂を挟んで右側は真っ青な空があるのだけれど、左側には白い雲がもくもくと出来て、流れていた。その様は雄大な高山の美しさを感じさせる。そこから眼を右手に移していくと、山々の青い峰が連なり、遠く、グリンデルワルトを見下ろすヴェッターホルンまで続いていた。

 ロープウェーに乗り、エンゲルベルクまで戻る途中にある、トゥリュプゼー駅で降りた。ここからエンゲルベルクまでハイキングをしながら帰ろうと思ったからだ。ティトゥリスに上ることよりも、このハイキングの方が目的の大半だった。トゥリュプゼーは青々とした水を湛えていた。水面は風に揺らいで、小さな波を浮かべ、それが明るい光を受けてキラキラと輝いている。湖畔は 少し黄色に色付いた緑に包まれ、湖を見下ろすように、雪を頂いたティトゥルスの岩壁がどっしりとそそり立っていた。穏やかな初秋の光に包まれたその光景を見ていると、何故か「幸せ」とでも言うような、感覚と感情が程よく溶け合った、とても気持ち良い何かが、僕の内に拡がっていた。

  湖に沿うように伸びた湖畔の小道を歩く。なんて清々しく気持ち良いのだろう。太陽の光を背に受け、透き通った空気を肺一杯に吸い込み、歩くのが楽しくなってくる。視線はあっちへ向いたり、こっちへ向いたり、留まることがない。12才の僕と同じである。小さな花を見つけたかと思うと、おもむろに天を見上げ、何処までも透き通った青い空に感嘆する。振り返って、白く輝く雪を頂いた峰をなぞってみたり、湖面に反射する光の煌きを追いかけたりするのだ。全てが新鮮に、生気に満ち溢れ、美しく、僕の中に入ってくるのだ。

 湖を離れ、急な崖を下り、分岐を別れ、森林帯を抜けた辺りで、ロープウェーの駅が見えた。駅には向かわず、開けた牧場の広がる景色を眺めながら歩いていると、1件のレストランが見えてきた。その軒先に、自転車のような物が置いてある。しかし、それにはペダルもサドルも付いていない。駆動系は全く無く、足を載せるステップが付いているだけだった。所謂、キックボードの親玉みたいな物である。しかし、ブレーキは付いていて、下りのためだけに作られた乗り物である。これは、トロッティ・バイクと言う名だった。僕は、急にそれに乗ってみたくなった。レストランに入って聞いてみると、二つ返事でOK。返却はエンゲルベルグのロープウェーの駅で良いと説明を受け、レンタル料金を払い、赤いバイクと黄色のヘルメットを借りた。

 2度ほど地面を蹴って出発。バイクはなだらかな斜面を軽快に走る。緑一杯の中を風を切って進むのは本当に気持ち良い。道は牧草地の中を蛇行しているので、ステップの上で体重移動し、カーブを曲がるのも面白い。自然に口から歓声を発していた。しばらく下ると、まっすぐに伸びた道になる。その終わりの方は若干上りになっているのでスピードを落とさずにそのまま進む。何人かのハイカーの歩いている後ろから、軽快に彼らを抜き去る。その一瞬に、手を上げて挨拶すると、彼らも「ほほう」と言うような表情をしながら手を上げて挨拶してくれた。緩やかな上りは思っていたよりも長く、地面を蹴って進まなければならなかったが、気になるほどではなかった。上りが終わると、森の中に入った。少し行くと、左手下にロープウェーの駅舎が見えた。もうすぐ終点である。道は一旦駅から離れ、それからUターンして駅に繋がっていた。駅舎に着くと、赤い作業着を来た係員がいて、笑顔で僕を迎えてくれた。彼はただニコニコ笑って、バイクとヘルメットを受けとり、僕の満足そうな顔を見て頷いた。

 朝に歩いた小道を戻る。午後の光はまだ明るかったが、日は傾いていて、僅かに夕方の気配が村を包んでいた。レゲート・ヴィントゲーレンが、ほんのりと黄金色を纏っている。途中にベンチがあったので、そこに座って休むことにした。それほど疲れは感じていなかったが、まだここに居たかったのだ。僕は靴を脱ぎ、脚を投げ出して、しばらくの間、光に満ちた美しい風景を眺めることにした。

 最高の日だった。

終わり

2/26/2005

TOPに戻る


 

Looking for Space

 

 自然を感じたい、動物が好きだ、異国の文化を感じたい。旅の目的は人それぞれあると思うが、僕のそれには、意識せずとも、自分の居場所を見つけたいと思う気持ちが何処かしらあるような気がする。長年暮らしているこの街が、僕の帰るべき場所だなんて思っちゃいないし、生まれ育った田舎は故郷と言う感覚はあるけれど、そこが僕の居場所だとは感じちゃいない。僕が旅に出たいと思う気持ちには、ただ単に興味や好奇心だけでなく、自分の居場所を見つけたいと言う欲求があるように思う。つまり、今の僕は風来坊の根無し草。風に吹くまま転がっていく。自分の居場所が見つからず、落ち着く場所を探し続けているのだ。同年代の多くの人たちが、善良な市民となって温かな家庭を築き、子供の笑顔に眉を拡げているのに、未だに18歳の飢えた餓鬼のように、彷徨っているのである。

 ふと見上げた宇宙は、星々が煌き、僕を取り囲んでいた。ケニアのマサイマラでも、セイシェルのマヘ島でも、スイスのグリンデルワルトでも・・・ 深遠を湛えた宇宙から、何万光年もの光を僕の瞳に映す。星々の配列は異なっているが、それは僕らの小ささを際立たせているだけである。小さな小さな僕らの星の、そのまた小さな小さな一人の人間にはそう見えるのである。ミジンコがクジラを感じられない以上に、僕らは小さな存在なのだ。

 夜空を静かに見ているのが好きだ。人工の光の届かない場所で見る宇宙は本当に美しい。その黒は闇と言うには深淵で、深く遠く引き込まれる。それに反して、星の輝きは平面的である。単に明るさの強弱として感じるだけで、3次元を感じることなど出来やしない。唯一分かるのは月だけである。僕らの生活で感じられる距離感など全く無意味であるのだ。

 偶然に、ふと星が流れるのを見た。マサイマラで、セイシェルで、スイスで…。流れ星は自分で思っている以上に多いのかもしれない。普段生活をしている中では、人工の光がそれを見ることを邪魔するし、それ以前に夜空を見上げることなど無いのだ。煌く星の拡がる宇宙の何処かに自分の居場所があるなんて、B級SF映画や三文メルヘン小説みたいなことは一片にも思わないが、この星の何処かに、居場所があるのではないかと言う気持ちは持ち続けている。そして、ふいに現れた流れ星に、願いをするのを忘れてしまったことを後悔してしまうのだ。流れ星に願いをしたって、何ら変化が起きたりしないことを分かっていながらね。改めて、人間というものは、観念に支配された生物だなと苦笑してしまう。それも、与えられた観念である。文化、宗教、科学、etc…。自分が意識する以前に、深く個々の内部に入り込んでいたりするのだ。それが、流れ星に願いを掛ける程度のことなら可愛いものなのかもしれない。

 自分の居場所を見つける旅の終わりは何時になるのか見当がつかない。もしかしたら、本当はそこを訪れていたのだけれど、気が付かずにいるのかもしれない。分からないなりに進んでいくだけである。太古の昔、大陸を移動していった僕らの祖先もきっとそうだったに違いない。そして、彼らも宇宙を見上げていたことだろう。僕の中にも、脈々と彼らの血が受け継がれている。そんな気がする。

 I’m looking for space…

終わり

3/12/2005

TOPに戻る


 

森の子供とワンタンミー(KL滞在記)

 

 クアラルンプールに着いたのは夜だった。空港からKLエクスプレスに乗り継いで、KLセントラル駅で降りる。そこからプトラLRTに乗り換えるのだが、ほんの20mほど歩くだけなのに、熱帯特有の湿気と暑さに閉口してしまった。湿度100%とも思えるねばねばした空気が体にまとわりつき、爽やかな乾燥したアデレードから来た身みは、かなり辛い。1分ほどでじわじわと汗が染み出してきた。プラットホームに出るとLRTはすぐに来て、これ幸いと冷房の効いた車両にいそいそと乗り込んだ。とは言え、降りる駅は次のパサール・セニ駅だった。束の間の安息の後、再び熱湿の中へと出た。駅を出ると、もうの11時前だからか、人影はまばらだった。僕はチャイナタウンにあるホテル「スイス・イン」に足早に向かった。

KLを訪れるのは2回目で、どちらもトランジットで立ち寄ることにしたものだ。前回、スイス・インに泊まったので、今回もそうすることにした。高級ホテルではないが、エアコン、シャワー付きのリーズナブルなホテルである。今回もWebから予約を入れ、1泊朝食付きで108リンギット(1RM=約30円)だった。今回は2泊3日であるが、夜に到着するのと、午前に出発するので、自由な時間は1日だけだった。予定は全くと言って良いほどなかった。唯一、出発前に友人から教えてもらったマッサージ屋には行こうと思っていた。友人には、その他のお奨めツアーなども教えて貰っていたのだが、オーストラリ アでの気持ちの変化もあり、ツアーは利用しないことにしたのだ。親切に情報を教えてくれた友人には済まないと思った。しかし、僕としては普段の旅のスタイルに戻った訳で、むしろ妙な安堵感にも似たようなものがあった。

ホテルの部屋は、チェックインの時間が遅かったのもあるが、前回とは比べ物にならないぐらいの狭いシングルルームだった。たぶん、これが値段相応の部屋なのだろう。2階のプタリン通りに面した部屋で、窓にはスモークが貼られていて、賑やかな通りから中が見えないようにされていた。たぶん、悪い部類の部屋だろう。前回は同じぐらいの値段で、7階にあるダブルルームを使わせてもらえ、なかなか居心地が良かったので、ちょっと残念だった。まっ、値段を考えれば文句は言えないけどね。でも逆に、夜の賑やかな通りをここから眺めてみるのも面白そうだなと思い、ちょっと楽しい気分にもなった。とは言え、木曜の 午後11時の通りは、屋台の姿も消え、暗く湿った、お祭り後の静けさが辺りを覆っていた。

エアコンが効いていたので、寝苦しいこともなく、ぐっすり眠ることが出来た。午前9時前に1Fのレストランに朝食を食べに行った。ビュッフェ式の朝食で、種類も結構あり嬉しい。マレー料理が中心でどれも美味しそうだった。日本のジャコのような小魚の干したフリカケもあり、食べてみるとなかなかいけた。僕はあれやこれや皿に取って、十分にエネルギーを補充した。

部屋に戻って出掛ける準備をする。とは言ってもディ・パックにカメラ、汗拭きのためのタオル、そして折畳傘を入れるぐらいである。ガイドブックを取り出して、取りあえずKLの項を見てみることにした。友人に教わったバトゥ洞窟やピューター工場見学ツアーのことが書いてある。その下に国立動物園と書いてあり、約200種類の動物を飼育、水族館もあると書いてあり、行ってみようと思った。しかし、ガイドブックに書いてある行き方を見ると、レンバン・アンパンからバスで行くと書いてあるのだが、アンパン地区と言った大まかなエリアは分かったが、そのレンバン・アンパンってのが、どこにあるのか皆目分からない。そして地図を見ていたら、ツインタワーの近くにツーリズム・センターの文字を見つけた。そこに行けば教えてくれるだろう、そう思った。僕は役立たずのガイドブックを取りあえずディ・パックに入れてホテルを出た。

ホテルを出ると、昨夜雨が降ったようで、もの凄い湿気が待っていた。まずは通りの向かいの市場を覗くことにする。狭く薄暗い小道の両脇に肉屋や魚屋、八百屋などがひしめき合うように並んでいる。生肉の匂いが、暖かな湿気た空気に溶け込んで、鼻の奥がくすぐったくなる。肉屋のまな板には、大きな肉塊がどかんと置かれ、その横で大きな中華包丁を持った店主が、皮付きのバラ肉をブロック状に切り分けていた。魚屋では見栄えと新鮮さを保つために、小さな氷塊をばらばらと敷き詰め、その上に魚を並べていた。朝の市場にはあちらこちらに買い物客の姿があり、活気があると言うほどでもないが、どこかゆったりとした雰囲気があった。

市場を離れ、パサール・セニ駅に行き、チケットを買ってKLCCに向かった。そこからツーリズム・センターまで歩いていこうと思ったからだ。僕はこれまで旅する中で、観光案内所の類は殆ど利用することがなかった。しかし、今回のオーストラリアの旅行では色々な情報を得られたこともあり、またKLはあてもなくぶらりと歩くには大きすぎる都市でもあったので、行ってみることにしたのだ。

KLCCはクアラルンプールの顔ともなったツインタワーがでんと聳えている。LRTの駅からは地下道で繋がっているので、外界の暑さをさほど感じずに行けるので便利である。地下から4階までは大きなシュッピングセンターになっていて、伊勢丹や紀伊国屋書店も入っている。10時開店なので、店のシャッターは閉まったままだったが、館内は冷房が効いていて爽やかだった。気の早い何人もの客が既にいて、ベンチに腰かけたり、ぶらぶら歩いたりしながら開店を待つ姿があちこちに見えた。エスカレータを上がって地上階に出る。正面口に行ってみると、何人ものポリスの姿と、入口に向かって赤絨毯が敷かれているのが見えた。どうやら要人が来るようである。外に出てみると、TV局のクルーらしいカメラを携えたグループがいた。とは言え、それほど人が多い訳でもなく、少しばかりの野次馬が集まっていると言った程度で、ポリスの様子からも緊張感は伺えなかった。たぶん、来るのはまだずっと後なのだろう。僕は彼等を尻目に、ツインタワーを出た。

外に出ると、ぽつぽつと小雨が降っていた。初めは傘が要らないぐらいの降り方だったが、交差点を渡ってボリビア大使館の横を通り過ぎたぐらいに、急に雨足が強くなった。僕は折畳傘をディ・パックから取り出して差し、雨の中をツーリズム・センターに向かった。

ツーリズム・センターは白壁のコロニアル風の建物で、植民地時代は英国の陸軍オフィスに、第二次大戦中は日本陸軍本部として使われていた、歴史ある建物だそうだ。とは言え、真っ白な壁からは歴史は感じられず、むしろ新築の装いさえあった。中に入ってみると、弱めの冷房が入っていて、肺までカビてきそうな外の湿気た空気から逃れられただけでも気持ちが良いと感じた。床には大理石が張っていて、その冷たく無機質な色合いが、体感温度をほんの少しだけ下げた。右奥には幾つかのカウンターがあって、係員が座っているが、客の姿はなかった。左奥には、インフォメーションのビデオがTVから流されていて、その前のソファーに白人のカップルが埋もれるように座っていた。最奥には南国風の絵が飾られ、販売もしていた。僕はカウンターの前にある、幾つものパンフレットを差し込んだ回転式のラックから、適当に数枚選んで取り出し、それを持って柱の傍の長椅子に座った。パンフレットを見てみるが、選んだものには国立動物園の情報の載っているものは無かった。とりあえず、汗の引くのを待ちながら、ガイドブックを出してもう一度確認することにした。

汗が引いたところでカウンターに行き、国立動物園に行きたいのだがと聞いた。すると、向こうの回転式ラックにパンフレットがあると教えてくれた。それを取って戻ると、係員は説明しながら、パンフレットにある路線図のワンサ・マジュと言うLRTの駅名をボールペンで囲んだ。そこからタクシーで行けば良いと言う。幾らぐらい掛かるのかと聞くと、20リンギットぐらいだと答え、地図の空いている所に「taxi to 200」と書き込んだ。何故200と書いたのかと言うと、タクシー料金は、リンギットよりも下位の単位であるセン(マレーシアセント)刻みで加算されるからだった。僕は礼を言い、そのパンフレットを持ってツーリズム・センターを出た。外は幾分小雨になっていた。

KLCC駅に戻り、言われた通りにそこからワンサ・マジュまでのチケットを買った。LRTはKLCC駅を出てしばらく地下を走っていたが、その後地上に出て高架を走った。窓から見えるのは、熱帯植物の緑とオレンジ色の屋根の住宅街だった。目的の駅に着き、タクシー乗り場に行くと、そこには客待ちのタクシーが並んでいて、待つことなく乗ることが出来た。運転手は陽気な若い運転手だった。挨拶程度に「KLは始めてなの?」とマレーシア訛の英語で聞いてくる。「2回目だよ。」と答えた。「KLはどう?」「エキサイティングな街だね。とても面白いよ。でも、この辺りの方が好きだね。」「ここが?」運転手は何故なんだ と言う気持ちを抑えながら言った。「緑が沢山あって、リラックスできるよ。」「緑ねぇ…」まだ納得が行かない様子である。「それにKLは忙しすぎるからね。」「確かに忙しすぎるね。」ようやく理解してくれたようだ。「それで動物園に行ってみようと思ったんだ。緑や自然が好きだからね。」「俺も休みには 家族と公園に行ったりするよ。リラックスできるからね。KLには行かないな。忙しすぎるよ。」運転手は確かにそうだと頷いて言った。そんな会話をした。しかし、まさか観光客の口からKLよりも郊外のなんてことない場所の方が好きだ、なんて言葉を聞くとは予想もしていなかった のだろう。初め、そんな馬鹿なことがあるかと言うような驚きと疑いが、彼の言葉の抑揚に含まれていた。しかし話すに連れて、僕の話しに同意し、自分の暮らしているこの街もなかなか良いもんだ、なんて気持ちに変わっているのを感じた。

国立動物園の前に着き、20リンギットを払ってタクシーを降りた。ツーリズム・センターで言われた通りの値段だった。

 

動物園のゲートの斜向かいにあるチケット売り場で入場券を買った。10リンギットだった。チケットと一緒に3枚のリーフレットを貰った。1枚には園内地図が載っていて、もう1枚は料金 やショータイム、フィーディングタイムが書いてあった。あと1枚には「ZOO NEGARA BY NIGHT」と書いてあった。ここでは夜に来て動物達を見ることが出来るのだ。昼間は朝9時から夕方5時までやっているのだが、金曜と土曜、そしてパブリックホリデイの前日は、昼間に加え、夜7時から11時まで開いているようだ。これは動物を見る側にとっては楽しいと思う。夜に活動する動物も多く、昼間とはまた違った姿を見られるかもしれない。それに夜なら昼間よりも幾分涼しくなるだろうしね。夕涼みがてら、子供たちを連れて動物園に行くなんて、なかなか良いんじゃないの?日本にも、こんな動物園はあるのかな?動物園や水族館は好きなのだが、もうかれこれ10年近く行っていないかもしれない。何時行ったのか、思い出せないほどである。横浜の ズーラシアや八景島シーパラダイスなど、近くにあって行ってみたいと思っているのだが、結局まだ行ったことがないのだ。おっと、つい3日前アデレードのクーリーランドWPに行ったのを忘れていた。そこは普通の動物園とは全く違って、現地の動物達を放し飼いにしていた。そのコンセプトからも、動物園と言う感じはしなかった。(オーストラリア旅行記 Good Day!! アデレードに詳しく書いてます)

雨は止んでいたが、湿度100%ではないかと思われるほど蒸し暑かった。じっとしていても、汗が滲み出してくる。ハンカチーフなどでは到底拭いきれない。僕はタオルを手に持って、園内を回ることにした。入って左に進むと、橋があり、その下を小川が流れていた。橋の中央に立って川を見ると、両岸から濃い緑の熱帯の植物が川を覆うように伸びていて、園内であるはずなのに、自然の熱帯雨林に流れる川のように見えた。

その先には大きな池があり、ツルやサギがいた。上野の不忍池の鵜ような感じで、飼われているのか、自然にそこに居るのか分からない、半飼育と言うようなものなのだろう。少し進むと、池を背にゾウのエリアがあった。インド象が広い敷地に4頭いた。親子連れがゾウを見ている様子から、マレーシアでもゾウは人気があるような気がした。

池の周囲に沿う道を歩く。ダチョウのいる柵があり、そこにはカンガルーも一緒にいた。オーストラリアで見てきたばかりだったのもあり、その組み合わせが妙に思えた。確かにエミューとダチョウは似ていないこともないけどね。柵の前には、りっぱな大木があり、僕はそちらの方に興味を覚えた。幹は何本ものパイプの束を集めたような縦筋 が入り、太く、でこぼこしている。幾つもの蔓が垂れ下がり風格を感じさせる。大きな木と言うものは、何か一種の力と言うようなものを持っている。精霊が宿る、なんて言葉はそこから生まれているのだろう。植物もまた生物であるから、そこには静かな、しかし力強いエネルギーがあるのである。僕らはそれを意識して感じていないが、それは確かに在る。小学生の理科でも習ったが、光合成のことを考えてみれば納得できるはずだ。植物は(植物プランクトンも含め)光合成により成長し、しかも僕らの活動の源である酸素を大量に放出している。僕らはそれがあるのが当たり前のように呼吸しているが、それは植物があってこそなのである。たった一つ、光合成のことを取っても地球規模で、静かで大きな力を理解出来るのだ。彼らは決して静かにじっとしている訳ではないのだ。古木の宿る霊力のようなものは、エネルギーの蓄積と放出、成長と崩壊、それを繰り返してきた生物の持つ威厳のようなものだと思う。近頃ではあまり見かけなくなってしまい残念だが、老人にもそのような方がおられる。それは他の老いた生物においても感じられるものである。とは言っても、人間であっても百年足らずである。植物のそれは他の生物を遥かに越えた年数で、霊力と言うしかないような、静かな力である。僕は、そっとその幹に手を当てた。

鳥類の飼われているエリアを見て、アジアに棲むシカの仲間のいるエリアを見た。そのエリアには、何故かバクも一緒にいた。余談であるが、アフリカにはシカはいない。インパラやガゼルはレイヨウ類で、牛の仲間なのである。シカはユーラシア、アメリカ大陸に生息していることからすると、たぶん祖先はアメリカ大陸で生まれたのでないかと思われる。人類がアフリカで生まれ、アメリカまで広がっていったのと逆パターンである。オオカミもそのパターンで拡がったと考えられているらしい。餌であるシカが拡がるのに合わせて、捕食者のオオカミも移動して行ったと言うのも、まんざら変な考えではないと思う。もしかしたら、誰かが既にそんな研究発表をしているんじゃないかな?

次のエリアには大型のネコ科の動物、そう、ライオンとトラがいた。彼等は檻に入れられているのではなかった。高い壁に囲まれた広い敷地(とは言っても、彼らにとっては狭すぎるが)で、前方に水の張られた溝があった。僕らは溝を隔てて彼等を見る訳である。視線は普段と同じ高さで、それが面白かった。大型のネコ科の動物が大好きなので、勿論足を止めてじっくり見たね。そこには絶滅寸前種のインドライオンもいた。体型は殆どアフリカに棲むライオンと変わらない。彼らは、今ではインド西部・グジャラート州のギルの森におよそ三百頭がひっそりと生きているだけである。たったそれだけである。最近では徐々にではあるが増えてきていると聞く。勿論、今は保護されていて、周辺に住む人々の理解も深いようである。それが一番大事なのである。絶滅させるのも人間、それを守るのも人間なのだ。僕は感慨深く、敷地の中を行ったり来たりするメスライオンの姿を見ていた。

隣はベンガルトラがいた。彼等は他のネコ科の動物とは違って、水を怖がらない。むしろ大好きである。この日は、とても蒸し暑かったので、1頭のトラが水の中に入っていた。溝に溜められた水はとろりとした緑色で透明度が無く分からないが、たぶんトラ側の辺りは、浅くなっているのだろう。彼はお尻から水の中に入ると、しばらくじっとしていた。その後、水の中を歩いてから、再び岸に上がった。水に濡れた体は美しく、濃いオレンジ色と黒の縞が鮮やかだった。

大きな角を持ったウシや、小動物のエリアを見て、その先に進む。Ape Centerと書いてあって、道をちょっと上がると、チンパンジーやゴリラ、オランウータンがいた。その先には屋根だけの建物があって行き止まりだった。その建物の下、ベンチに2人の男性と一緒に小さな赤茶色のまんまるい動物がいる。近付いていくと、自然と微笑が浮かんだ。それはオランウータンの子供だった。男性2人は飼育員のようだ。2人に挟まれて、おとなしくベンチに座っている。すると僕が近付いているのに気付き、ベンチから降りると、左側にいた飼育員の手を引いて近付いてきた。かなりの好奇心の持ち主のようだ。僕が両手を差し出すと、片手は係員の手を掴んだままで、もう一方の手で僕の手を掴んだ。その手は、小さな体に似合わないぐらいに大きく、そして柔らかだった。屈んで彼を撫ぜてみると、天然のソバージュと言った感じの毛は、意外とごわごわしていて、麻のようである。手と言い、毛と言い、イメージとは随分違ったので、それが逆に嬉しかった。本当のことが分かると言うのは嬉しいものである。手は人間のような感じか、むしろ硬いのではないかと思っていた。それと言うのも、硬い木の枝や幹を掴むのだから、それなりの強度がなければすぐに傷付くと思っていたからだ。それが、とても柔らかでしっとりとしている。まるでハンペンみたいな感じなのである。

彼に手を握られて、そうだったのかと気付いた。あれだけ樹上で自由に動ける訳は、この手じゃなきゃ駄目なのである。しっとりとした手が僕の手を包むように掴む。まるで吸い付くような感じである。これが硬かったらそうはいかない。そして、その柔らかさが、むしろ傷付き難くしているのだ。柔らかな粘土と硬く干からびた粘土を想像してもらうと分かってもらえると思う。ふさふさの毛は柔らかいと思っていたのが、麻のような触感だった。これも瞬時に納得できた。彼等の住む熱帯雨林は雨が多い。そのため、彼等のその毛はレインコートのように雨を弾くのである。柔らかな毛では、べったりと体に張り付いて雨が降る度に不快な思いをすることになるだろう。やっぱり、自然ってすごいなって思う。僕らはもっと自然から学ばなければならないと本当に思う。いくら考えても答えが出てこない難しい問題も、自然の中ではあっさりと解決していたりすることだってあるのだ。自然科学と言うと、自然や生物など、あまり人間活動と関係しないようなイメージがあるが、そんなことはないのである。むしろ多くのヒントや解決策がそこにあるのだ。

彼はすぐに慣れたのか、飼育員の手を離れ、両手で僕の手を握ってぴょんぴょん跳ねる。止まったかと思うと、ゆっくりと手を伸ばし、抱きついてきた。結構重く感じたが、25kgぐらいではないかと思う。ひとしきり遊んで、飼育員に言われ、またベンチに戻った。ブドウを貰うと、唇を突き出して、美味しそうに食べた。彼は5歳だと飼育員が教えてくれた。オランウータンとは「森の人」と言う意味である。なので、彼は「森の子供」なのだ。オランウータンの子供は本当に可愛い。いたずらっ子そうな輝きを秘めている目はまんまるで、愛嬌がある。体も球のようにまんまるで、そこから長い手足が伸びていると言った感じである。若い二人の飼育員はきっと彼の親代わりなのだろう、大好きな様子で、よく言うことを聞いていた。

ブドウを食べ終わると、またベンチから降りて近付いてきた。今度は一人である。また手を伸ばし抱きついてくる。それから、地面に寝転び、僕の回りで、ぐでんぐでんとでんぐり返りをし始めた。「君が好きみたいだよ。」と飼育員が言った。それを聞いて、とても嬉しかった。でんぐり返りは彼の嬉しい気持ちの表現方法なのだろう。カメラを向けてみたが、とにかくじっとしていないので、ブレた写真ばかりになってしまった。でも、それで良かった。嬉しそうな彼の姿を見ていると、僕も嬉しくなる。優しく穏やかな気持ちが体一杯に拡がって、とても気持ち良い。自分に子供が出来たら、こんな気持ちになるのだろうかと、ふと思ったりした。

20分ほどそこにいたと思うが、彼等に礼を言い、そこを離れた。もっと居ても良かったのだが、暑さと湿気でかなりまいっていたからだと思う。これが、湿度50%ぐらいだったら、もっともっとそこにいて彼と遊んだに違いない。自分でも分かるぐらいに、湿気にやられていたね。とは言え、離れたから湿気から逃れられる訳ではない。気分的なもので ある。

サバンナ・ウォークと言うエリアがあり、そこには良く知っているキリンやシマウマの姿があった。しかし、何かが違う。そう、それは環境の違いからくる違和感だった。乾いたサバンナの大地ではなく、熱帯雨林のこの場所にいる、その違和感である。彼等のために広い敷地を取り、草は短く刈られているが、やはりそれは本来の姿とは程遠かった。日本の狭い動物園よりも遥かに素晴らしいと思うのだが、サバンナの野生の動物を見てきた僕にとっては、何故か哀しく目に映った。「こんなんじゃない、彼らはもっと美しいんだ。」と首を横に振る僕がいた。

その後、シロサイや熊を見て、お目当てでもあった水族館に行こうと思ったら、なんと水族館は閉館してしまっていた。閉館と言っても、ただやっていないだけではない。水族館自体が、もう閉鎖されていたのだ。残念である。ただ、動物ショーが行われるステージのある建物の、背面に大きな水槽があって、そこにはピラルクなどの巨大な淡水魚の仲間が何匹も泳いでいた。ピラルクは南米アマゾンに棲む古代魚で、体長3mにも達するぐらいに成長する魚である。食べても美味しく、その身は淡白な白味だそうである。鱗は、靴ベラにもなるそうで、それからも大きさが想像出来るだろう。2mほどのピラルクが数匹、ゆうゆうと広い水槽を泳いでいた。

動物園を出たのは午後2時前だった。

 

Zoo Negaraを出て、来た時に入ったゲートに近付くと、タクシーを斡旋するオジさんに声を掛けられたがそれを断り、そのまま真っ直ぐ駐車場を進んで行った。それと言うのも、貰ったリーフレットに動物園までの行き方が載っていて、パサール・セニからバスで行けるのが分かったからだ。と言うことは、反対にパサール・セニまで戻るバスもあると思ったのである。時間は十分にあるので、試しに乗ってみようと思ったのだ。やはり、庶民の足を使うってのが面白そうなのである。

駐車場を出た先には、片側3車線の広いハイウェイがあった。駐車場のちょっと手前で、動物園の横に入る支線があって、バス亭が本線と支線の両方にあり、どちらにバス亭で待てば良いのか分からない。もしかしたら、反対車線で待たなければならないかもしれない。時刻表なども無くどうしようかと思っていたら、学生らしい男の子と、30代ぐらいの女性が支線側のバス亭にやって来た。二人共どうやらバスを待っているようだった。僕はとにかく聞いてみようと思い、女性に近づいて声を掛けた。すると、彼女は質問も聞かずに、分からないと手を振った。どうやら、英語はあまり話せないらしく、頭から分からないと思い込んでいるようだ。そして、向こうの男の子に聞いてくれと言う。(身振りで、そう言っているのが分かった。)所が変わっても同じなんだなと、以前TVのお笑い番組で見た、日本人のオバさんが外国人に声を掛けられた時の反応を思い出した。そう思うと、がぜん彼女に尋ねたくなった。頭から拒絶しないで、ちゃんと聞けば分かるはずだと思ったからである。そして僕は彼女に「バスでパサール・セニに行きたい。バス亭はどこ?」とゆっくりと2度繰り返して言ってみた。すると、彼女はちょっと考えて、向こうだと指差してくれた。「やったね!」僕は心の中でそう思った。そして、彼女に礼を言って本線側のバス亭に行った。

待っていると、先に支線側のバスが来て2人を乗せて行った。その後、こちら側にもバスを待つ人が増えて7人ぐらいになった。その内、No.20のバスがやってきた。リーフレットに載っていたバスの一つで、それもパサール・セニまで行くものだった。偶然とは言え、本当に運が良い。何故か旅に出ると運が向上するような気がする。いよいよもって、僕の本来あるべき姿は旅人なのかもしれないと思いたくなる。旅に出るのは僕の必然なんだってね。

そのバスはイントラコタと言う会社のバスだった。その会社は広くKLとその周辺をカバーしている。僕の泊まっているチャイナタウンの近くにセントラル・マーケットがあって、その辺りには各地へ行ったり、各地から着いたりするバス乗り場が密集している。勿論、動物園に向かうバスもあって、それはNo.270のバスである。あまりの多さに、どれに乗ったら良いのか分からないぐらいである。地元の人だって、自分の利用する以外のバスのことは、あまり知らないのではないかと思われる。それほどなので、ぽっと来たばかりの観光客にはとても手に負えないのである。パサール・セニは、セントラル・マーケットにほど近い場所にあるのだ。

最後に乗って、パサール・セニに行くのか一応確認した。料金は先払いで、20リンギットだった。ワンサ・マジュから動物園までのタクシー料金と丁度同じ値段だった。冷房の効いた車内は気持ち良かった。僕はバスの中腹の座席に座り、車窓から外をながめることにした。ハイウェイをしばらく進んだ後、支線に入った。道の両側に工場や住宅が建っているが、その間隔はゆったりとしていて、まだまだ郊外だと感じる。バスが止まり、3人の小学生の女の子が乗り込んできた。皆、明るいブルーのワンピースで、頭から真っ白な頭巾を被っていた。イスラムの風習で、女性は髪を隠しているのである。それが清楚に感じた。郊外の道を進んでいると、向こうにビル群やLRTの橋架線が見えてきた。子供たちが降りたバス亭から先は急に車の数が増え、建物もぎっしりと詰まって、シティに入ったのが分かる。ビルの合間からツインタワーも見えた。道幅も狭くなり、渋滞して、なかなか進まなくなる。そうなると、街の様子をじっくり眺められるので面白い。でも、それにも飽きてきたのか、うつらうつらと眠たくなってきた。そして、ふっと何度も短い眠りに落ち込んだりした。

1時間ほどで、セントラル・マーケット周辺の見たことのある場所に辿りついた。僕はパサール・セニまで行かず、そこで降りることにした。ひどい渋滞だったし、別にそこまで行かなくても良かったからだ。そして、まずはシャワーを浴びにホテルに戻ることにした。全身にかいた汗を洗い落としてから、マッサージに行こうと考えていた。

 

LRT、モノレールと乗り継ぎ、ブキ・ビンタンに行った。目的はマッサージを受けるためだった。友人から聞いたマッサージ店に行ってみようと思ったのだ。しかし、その前に確認しておきたいことがあった。それは、去年入った怪しいマッサージ店の名前を確認することだった(クアラルンプール1日滞在記を参照されたし)。場所は分かるが、名前など全然覚えていなかったのだが、これまた友人が知っていて教えてくれたのだ。入る気はないが、そこが確かに友人の言う店なのか確かめたかったのである。スンガイワン・プラザの裏に歩いていくと、歩行者の数が急に少なくなった。搬入口の向こうに入口があって、その上にマッサージの看板がある。「Green Elephant」と書かれた看板を見て確かに友人の言う店であると確認した。入口の回りにはクリスマス・ツリーに飾るような電飾が散りばめられていて、派手さが一層増していて、明らかに怪しい雰囲気である。去年は表の入口に装飾などなく、分からずに入ってしまったが、今は間違って入る人はいないだろう。店としても完全にスペシャル・マッサージに特化したのかもしれない。僕は遠くからそれを確認し、そこから離れた。

屋台街のアロー通りなど散策し、それからマッサージ店に行った。ブキ・ビンタン通りのスンガイワン・プラザのすぐ近くにある店だ。その通りには何件かマッサージ店があって、それはどれも正当な店で、グリーン・エレファントのような店ではない。友人に教わった1件の店に入ってみた。全身マッサージがお奨めと聞いていたが、足裏マッサージだけにすることにした。マッサージの前に熱いお茶を飲んだ。どうやら、何処でもそうするようである。お茶を飲んで気持ちをリラックスさせると言うことだろう。確か、お茶にはそのような効果があると聞いたことがある。オジさんに連れられて行くと、白いシーツを張ったベッドがあって、裸足になってそこに横になった。タオルケットを体に掛け、オジさんがベッドの向こう側に座った。僕はさあ、やってくれと軽く目を閉じた。

まず初めに、足にクリームのようなものを塗った。滑りを良くするためだと思う。それから、足の指からマッサージが始まった。マッサージは時折痛みを伴うが、それが気持ち良い。痛いのが気持ち良いのである。随分以前にシンガポールでも足裏マッサージを受けたことがあるが、それは殆ど痛みを感じず、ちょっと不満が残ったのだが、そのくらいが丁度良いのだろうと、自分で勝手に思い込んでいた。しかし、このマッサージを受けてみて、それは違っていたのだと分かった。時々、痛みに「ウッ」と息を止めることもあるが、次の瞬間には、ふっと気持ち良くなるのだ。あまりの気持ちよさに、いつのまにか眠りに引き込まれてしまう。足の裏を念入りに、しかも45分もマッサージしてくれるのだ。終わった後は、もちろんすっきりした気分だった。値段はそれで、たったの 20リンギットだった。これは気に入ったね。次回は全身マッサージを受けてみようと思ったのは言うまでもない。

その後、スンガイワン・プラザやロッテン、KLプラザなどのデパートに入って店を眺めたりしたのだが、スンガイワン・プラザがやはり一番面白い。伊勢丹が入っているロッテンはお洒落で綺麗なのだが、僕はスンガイワン・プラザのごちゃごちゃした感じが気に入った。色んな店が幾つもひしめき合って並んでいて、人も多い。その雑多な感じが面白いのだ。しかも、何度歩いてもフロアー図が頭に描けない。ちょっとやそっと此処に来ても、その全体はとうてい把握できないのである。

チャイナタウンに戻ったのは午後7時過ぎぐらいだった。その頃にはもうプタリン通りは大賑わいで、屋台と人がひしめき合っていた。僕は屋台と屋台の間の僅かな隙間を、人と肩を擦りあいながら、バッタ物の並ぶ屋台を覗いて歩く。下着から時計まで色んなものが売られているが、どれも怪しく見えてしまう。もしもブランドの本物が並んでいたとしても、そうは見ないだろう。とは言え、売られているのは偽ブランド品というよりはノーブランド品のほうが遥かに多い。それにしたって、品質がどうのって言えるものではないような気がする。ここで買い物を楽しむ人は、買うこと自体を楽しんでいるように思われる。商品を見比べたり、値切ったりするのが楽しいのだろう。

賑わうプタリン通りから、市場小路に入ってみると、全ての店は閉店し、薄暗い通りがあるだけだった。歩いて行くと、何かがひょこひょこ動いている。よく見ると大きなネズミだった。ドブネズミである。夜の薄暗い通りで、市場に落ちた肉片などを食べているのだろう。僕は通りを足早に抜けた。

プタリン通りから横道に出ると、両側に食堂が立ち並んでいて、その前にも幾つも屋台が出ていた。その先のスルタン通りに出る手前には、テーブルが幾つも道路に出され、多くの白人観光客が、そこで食事をしていた。それを見ると、やはり住み分けと言うものを感じる。そこにはあまりアジア系の人は座っていなく、その手前のフードコートにはアジア系の人ばかりだった。値段も違うのだろうけどね。でも、やはり似たもの同士が集まるのは人間の特性の一つであるのは間違いない。人と言う生き物は、互いに共通のものを持つことで安心する生き物なのである。食事をする人たちの姿を見て、僕もそろそろ食事をしようと思った。

前に入ったフードコートを覗いてみると、テーブルは満杯になっていたので諦め、ぶらぶら歩きながら店を探すことにした。スルタン通り出た所で、向かい側の駐車場に屋台が幾つも出ていて、その一つでパクテー(肉骨茶)を供していた。以前から食べてみたいと思っていたので、それにすることにした。テーブルに付くと、若いまだ10代と思われる青年が注文を取りに来た。どうやら家族経営のようだ。注文と言っても、売っているものはパクテー以外にない。別にスープを付けるかと言った程度である。ビールはないかと聞くと、それもないと言った。なので、冷たいお茶をもらうことにした。パクテーは漢方薬を調味料として使い、ブタの肉やモツを煮込んだ薬膳スープである。小さな土鍋に入れられて、持ってこられ、温かいまま食べられる。勿論ライス付きである。こってりしたものかと思っていたのだが、スープを飲んでみると以外にあっさりしていた。また、漢方薬独特の臭みを感じることもなく、すっと飲める。肉や一緒に煮込まれた厚揚げも、あっさりとしていて、思った以上に健康食なのだなと思った。パクテーは朝食に食べられると聞いていたが、食べてみて納得した。パクテーは肉の煮込み料理ではなく、スープだったのだ。ご飯もパクテーも綺麗に食べ終えたが、ちょっと物足りない感じがした。健康にはそこで止めておくのが良いのであろうが、せっかくKLに来たのだから、もっと庶民の味を味わおうと思った。

フードコートに行くと、テーブルに空きが出ていたので、中を覗いてみることにした。するとすぐに声が掛かった。エプロン姿の元気なオバさんだった。日本人かと聞くので、そうだと答えたら、ワンタンミーを食べろと言う。どうやら多くの日本人がここでそれを注文しているのだろう。天邪鬼な僕は、皆と同じものを食べるのはどうかと一瞬思ったが、自信たっぷりなオバさんの顔を見て、食べてみようと思った。それから、なにやらもあるがどうかと聞く。良く分からないが野菜のようである。じゃあ、それも食べてみるかとお願いした。

テーブルに座ると、別のオバさんが近付いてきた。そして、家の料理は美味しいから食べろと、かなり強引に迫るのである。何があるのと聞いたのが運の尽きだった。オバさんは半ば強引に「ナントカ」と言って、勝手に注文を取る始末だ。そんなに食べられるかどうか迷ったが、そのオバさんの迫力に負け、「えい、こうなったら食べてみるぞ!」とそれを頼んだ。今回の滞在では、庶民の味を楽しもうと思っていたので、こうなったら勢いである。そして、黄色のTシャツを着た可愛い女の子が飲み物はどうかと尋ねてきたので、カールスバーグを頼んだ。一応説明しておくが、フードコートでは食べ物と飲み物を売る店は違っていて、別々に注文しなければならないのだ。

先ほどのTシャツの女の子がすぐにビールを持ってきて、それをグラスに注いでくれた。僕は礼を言って、まずは咽を冷えた液体で洗うことにした。ビールの苦味が旨い。熱いと尚更旨いと感じる。その内、ワンタンミーと青菜をさっと炒めたものが出てきた。レンゲを取って、まずはワンタンミーのスープを啜ってみた。あっさりした咽越しの良い上品な味である。魚介のダシのようであるが、でもそれだけではないような感じだ。シンプルなのに深い味わいなのである。ワンタンもジューシーでなかなか美味しかった。青菜はピリッとトウガラシの利いた味付けで、これも美味しかった。

最後に強引オバさんが持ってきたものは、肉団子入りのスープ麺だった。もっと違うものを期待していただけに、ちょっと残念だった。やられたなと思いながら、そのスープを啜ってみると、ワンタンミーとは全然違う味だった。ほんのりとショウガの効いた、肉系のスープである。これもなかなか美味しいじゃないの。見た目は似ているが、全く違うのだ。強引オバさんもなかなかやるなと思ったね。僕はあれよあれよと、なんとそれらを全部食べてしまった。満腹感に満たされ、本当に満足だった。アジア飯、まだまだ奥が深そうである。

僕はテーブルを離れる時、黄色のTシャツの女の子に手を上げて挨拶した。彼女はグラスにビールが少なくなるとやってきて、何度もビールを注いでくれたからだ。サービスの一環なのかもしれないが、他の客にはしていなかったように思う。そう思うのは僕の考えすぎだろうか?現地人ではないので、興味を持ってくれたのかもしれない。僕が手を上げると、彼女は笑顔でそれに応えてくれた。とても明るく、無邪気な笑顔だった。

今回のKLでの短い滞在は、自分自身、それなりに満足いくものだったと思う。傍から見ると、名所に行くわけでもなく、かと言ってショッピングを楽しむわけでもなく、つまらないものに思えるかもしれないが、僕にとっては街やそこに住む人たちを、ちょっとだけかもしれないが、感じられたことがとても楽しかったのである。その中でも、なんと言っても嬉しかったのは、森の子供、そうオランウータンの子供と遊んだことだった。これは本当に予期せぬことでラッキーだった。こんな偶然が、旅の楽しみなのかもしれないと思う。そして、安く美味しい庶民の味もまた、僕を楽しませてくれた。もっともっと食べてみたいと思うのは何故なんだろう。ワンタンミーのスープ一つ取っても日本ではなかなか出会えない味である。その辺のレシピ、これから調べてみようかな、などと思っている。

もしも誰かにKLでお奨めはと聞かれたら、きっと僕はこう答えるね。「森の子供とワンタンミー」ってね。

 

終わり

8/7/2005

TOPに戻る


 

一期一会

 

旅の間には、色々な人々との出会いがある。道を教えてくれた人や、カフェで言葉を交わしたウェイトレスと言った人たちも含めると、本当に多くの人と出会っていると感じる。そして、その何気無い親切が、何時までも忘れられないのである。ふと過去の旅を思い返してみると、人との出会いが真っ先に思い出され、それがとても大切なもののように思うのだ。

一人旅ばかりしてきた僕であるが、それはきっと、新たな出会いを求めていたのかもしれない。確かに僕は我侭で、自分のペースで旅するには一人の方が良かったのだろうが、ただ単にそれだけの理由だけではないような気がする。今だから分かるのだが、新たな出会いが楽しくて一人旅を続けてきたような気がするのだ。旅の目的は、確かに大自然を感じたい、異文化に触れてみたいと言ったものだったが、もしも人との出会い、触れ合いと言ったものがなければ、僕の旅はたちまち色褪せてしまっただろう。むしろ、目的はきっかけに過ぎなかったのかもしれない。現地に行くと殆どガイドブックを開かないのもそうで、何かを見たいと言うよりも、偶然を求めていたような気がする。ふとした人との触れ合いがとても新鮮で、それが異国であるから尚更楽しくなってくるのだ。そして、肌の色や、文化や宗教が違っても「皆、同じ人間なんだ。」と感じる。それが何故だかとても嬉しい。

大切な友人でもある、スイスで出会ったベルギー人のカップルは、今では結婚し娘もいる。その出会いは、別段特に変わったものでもなかった。滞在したホテルが同じだっただけである。食事時にいつも顔を合わせ、挨拶をするぐらいだった。話しをしたのは最終日で、それも帰る直前だった。一緒に写真を撮り、アドレスを交換した程度である。それが、何故かお互いに気が合ったのか、次の年 にはまた同じ場所で会う約束をし、一緒にハイキングを楽しんでいた。そして、今でも連絡を取り合う仲である。

友人とまではいかなくても、素敵な出会いもある。これもスイスでの出来事である。一人でハイキングして村に帰る道を歩いていた時だった。いつしか僕はオジさんと一緒に歩いていた。「いつしか」と言ったのは、何処で出会い、一緒に歩き出したのか思い出せないからである。それも挨拶をした程度で殆ど話すこともなく、ただ同じ道を下っていた。しばらく歩き、村に近付いた頃、僕はちょっとオジさんに声を掛けてみた。すると彼は笑って言葉を返してきてくれた。それから僕らは、言葉は少ないけれど、話しながら歩いたのだ。それが不思議だったのは、彼は英語を、僕は独語を殆ど解さないのに、互いに言っていることが通じていることだった。確かに通じないこともあったが、しかし、そ れが当たり前であって、気にもしなかった。今考えると、全く言葉が通じない相手であるはずなのに、分かると言うことが不思議で仕方がない。身振り手振りは勿論だが、何よりも目が一番多くを語っていた。 それは彼にしてもそうだった。目を合わせることで、言っていることが何となく分かるのである。彼はスイス人で、幾つか山を越えた場所に住んでいると言う。そして、奥さんと一緒に来ていて、今は村で自分の帰りを待っているらしいのだ。山でマーモットも見たなんてことも言っていたね。そして、僕らは、そんな不思議なお喋りをしながら村に戻ったのだ。村の駅に着くと奥さんが待っていて、そこで一緒にお茶をすることになったのも嬉しかったよ。本当に不思議で素敵な出会いだった。僕は言葉が分からなくても友達になれるとそこで知った ね。心が通じればきっと友人になれる、そう思うよ。

他の国でも、素敵な出会いが沢山あった。その一人一人の顔は、今でも鮮明に覚えている。セイシェルの子供たちの笑顔、パプアニューギニアで町を案内してくれたティキ、オーストラリアで本来の路線を外れて僕を目的地にまで連れて行ってくれたバスの運転手、ケニアの擁護施設で僕を歓迎してくれた子供たち、マサイマラで出会った友人たち、そして感動を分かち合った仲間たち…。多くの出会いがあった。それらは旅で得た一番の大切なもののような気がする。そして、これからも出会いを大切にしていきたいと思う。

 一期一会。この言葉が、素直に素敵な言葉だと感じる。

 

終わり

1/21/2006

 

TOPに戻る


 

香港

 

香港にはトランジットで何度か立ち寄っているが、旅の目的地だったことはまだ一度もない。しかし、立ち寄る度に好きになる場所である。騒がしい都会はあまり好きではないのだが、香港には他の都市とは違った何かがある。近代的なビルが立ち並んでいても、そこには人が生きていると感じるからなのかもしれない。老若男女がそれぞれの生き方で都市に溶け込んでいる。ビルの谷間で朝粥を食べ、スーツ姿のビジナスパーソンの行き交う道端に、お腹を出したオジさんが、のんびりと椅子に座っていたりする。そんな光景が妙に面白く、楽しくなる。東京やシンガポールで感じる孤独感はなく、一人でいても、人々の間に溶け込んでいけるような、妙な安心感が生まれてくるのが不思議である。僕は広東語を話すことなんて出来ないのだが、何故かそんな気分になってくるのだ。

香港と言うと「食」と言われるが、僕の場合一流レストランはおろか、レストラン(酒家・酒樓)と呼ばれる類の店には一度も入ったことがない。たまにはそう言った所で美味しい物でも食べたいと思うのだが、一人旅の身ではなかなか入り辛いからである。やはり中華と言うと大勢で食べる感じがするし、また他の料理店であっても、一人で取るディナーほど孤独を感じる時はないからである。せっかく入っても、早々に引き上げたくなるのだ。なので、僕が入るのはいつも庶民的な麺屋、粥屋、中華のファーストフード店などばかりである。しかし、それでも馬鹿に出来ないのが、流石に香港である。これがまた、なかなか美味しいのだ。所謂、B級グルメと呼ばれるものだが、その味はなかなか奥深かったりするのだ。

「雲呑成麺食」と言う麺屋では、たった十元(日本円にして150円!)で麺を食せるのだが、その味はなかなかどうして、その安さもあり、「う~ん」と唸るほどである。「雲呑麺」を注文し、スープを一口啜ってみると、あっさりしているのだが、コクがあり、しかも単一な味ではなく、微妙、精緻、奥深いのだ。これに比べると、日本で食べるラーメンのスープは、かなり単純で野蛮な感じがする。それもまた良いのだが、若いと呼ばれる年代から少々(?)遠ざかった身には、香港のスープの方により魅かれるのである。麺は日本で食す中華麺とは違い、細麺でかなり歯応えがある。悪く言うと、口の中に入れるとモサモサしている感じだ。しかし、食べている内に、それが良くなってくるのだから不思議だね。そして「雲呑」である。エビの入った大きな肉団子が半透明の皮に包まれていて、それを口に入れると、つるりとした皮の食感があり、噛むとエビの香りと肉汁が口の中に拡がるのである。これこそ「雲呑」だと言いたくなる。実に美味しいのだ。日本で食べる「ワンタン」は皮ばかりで、ほんの気休め程度にちょっぴり具が入っているって言うのはどうゆう訳なのかね?確かに「雲を呑む」と言うのなら、そんな感じかもしれないが、とは言っても明らかに本場と違っているのだから、それはやはり日本でそうなったと考えるのが妥当だと思う。香港のプリプリの雲呑を食べたら、日本のワンタンなんて食べられないね。雲をいくら呑んだって腹の足しにはならないのだ。

十元麺には他にも何種類ものメニューがある。ざっと十数種類あったと思う。「沙爹牛肉麺」も食べてみたが、これもまた美味しかった。サテー味のスープがエスニックな感じがして、「雲呑麺」とは違った味である。僕が食べたのはこの2種類だが、これからまた香港に立ち寄った時には、他の麺も食べようと考えている。

たった十元の麺でそうなのだから、香港の「食」への興味は増すばかりである。中華ファーストフード店である「大家楽」の味もかなり好きである。これまた沢山のメニューがあるので、何を食べようかと選ぶのも楽しい。そんなことでB級グルメばかり食べている訳だが、そうなると、レストランで食べる料理はさぞかし美味しいのではないかと興味がどんどん膨らんでくる。そして、そのためには、まずは同伴者を連れて行くことだなと思うこのごろである。

 

終わり

3/5/2006

TOPに戻る


 

アルプスの春

 

梅が咲き、桜が花弁を開き始めると、本格的に春になったのだなと感じ、何時になく、外に出たくなる。特に目的がある訳ではないのだが、春の暖かい日差しに誘われて、そぞろ歩きでもしたくなるのだ。春は、消沈した冬の灰色を一気に振り払い、鮮やかに、新鮮に輝きだす。その活き活きとした生の躍動が感じられ、自らもフレッシュになるような気分になる。そんな大好きな春ではあるが、とは言え、10年ほど前からなった軽度の花粉症に、心から喜べないのが少々口惜しい。目を擦り、鼻を啜りつつ、時にはくしゃみを交えながら、春を迎えているのである。余談であるが、環境省だか何処だかが、杉を伐採したら花粉の量が減ったと言う報告をHP上でしていたのが、実は殆ど効果が無かったと言うことで削除された、なんて言うことがあったが、あまりに短絡的な方法と考えに、思わず苦笑したね。ただ単に杉を間引きすれば良い訳ではないのである。間引きすれば、太陽光をたっぷり浴びられるので、花粉もたっぷり作れると言う訳なのだ。それには、どうしたら良いのか?効果的なのは、広葉樹林を植えることだと思うね。所謂、雑木林を作ることである。雑木林は花粉の飛散を防ぐ効果があるし、なんと言っても多彩な動植物を育むことが出来るしね。豊かな森が復活するかもしれないと思うと、なんだかワクワクする。林業との兼ね合いもあると思うが、要はバランスだと思うな。

春の草花を眺めていると、どうしてもスイスアルプスで見た光景を思い出してしまう。スイスの3、4月はまだ雪に閉ざされているが、6月から7月中旬にかけて一気に華やぐのである。短い春に合わせて、草花が一斉に開花し、それがお花畑状態になるのである。そんな中をハイキングするのはとても楽しい。他の季節も素晴らしいが、やはりこの季節が一番である。

リフトで高山に上がると、そこはもう森林限界を超えていて、杉などの背の高い植物は生えておらず、背の低い高山植物の緑色の絨毯が拡がっている。そして、その上に黄色や赤、青や紫がエアブラシで吹かれたように、散りばめられているのだ。そして、それを覆うように白い残雪が優雅な曲線を描いている。程よく冷たい空気は澄みきっていて、坂道を登る体を適度に冷やしてくれる。ふと立ち止まって、前方に聳える雄大な山脈を仰ぎ見たり、後ろを振り返って、緑一杯の深い谷を見下ろしてみたりする。道端には、小さな可憐な花が咲いていて、何故か自然に口元に笑みが浮かぶ。生を体全体で感じ、自らも浄化されるようである。体の内側にある泉がにわかに活性しだし、冷たく透き通った清水が止め処も無くあふれ出て、それまで淀んでいた水をどんどんと押しやっていくのだ。まさにリフレッシュとはこのことかもしれない。

歩き疲れたら、遊歩道を外れて花咲く緑の絨毯に座って休むのも良い。新緑の青臭い香りもまた気持ちを和ませる。傍らに、薄紅色の小さなサクラソウを見つけ、そっと指で撫ぜてみたりする。その可愛い可憐な花は、生花店などで見る花のような派手さはないが、その美しさはむしろそれ以上である。この過酷な環境で精一杯花弁を拡げるその姿に、感動と愛着さえ覚える程である。スミレやキキョウ、アザミなど色々な花が咲いていて、希少な高山植物も比較的簡単に見ることも出来る。まるで苔のように分厚い葉を広げて岩にへばりついていて、そこからピンク色の小さな花が幾つも固まって咲いていたりするのだ。それを見つけると、何故か嬉しくなったりする。その指先ほどの小さな花が愛しくなってくるのである。

なんだか春を感じたくなってきた。なので、ここらでペンを置いて、フィールドに出ることにしよう。

 

終わり

3/25/2006

 

TOPに戻る


 

Bula! フィジーの青い空と海

 

Bula!」はフィジーの挨拶の言葉で、真っ白い歯を見せながら、屈託の無い笑顔でそう言われると、初めて出会ったのに警戒心を解き放ち、むしろ親しみを感じる。その明るい笑顔は、南国の輝く海の青と、透き通った空の青によく似合う。僕はまた、それらに会いたくて、再びフィジーに訪れることにしたのだ。そして、その旅にはもう一つの目的があった。これまで旅はいつも一人だったのであるが、初めて伴侶を伴っての旅だったのである。そして、その目的とは、その伴侶にフィジーの海を見せてあげたいと言うものだった。

僕らが滞在したのは「マナアイランドリゾート」と言うところで、そこは、僕が前回初めてフィジーに行った時に滞在した場所だった。ママヌザ諸島に位置するリゾートアイランドである。当初は同じママヌザ諸島の別のリゾートにしようと考えていたのだが、目当てのリゾートは既に予約で一杯だったのである。スノーケリングが主な目的でもあったので、それなら勝手の知っているマナが良いと思ったのだ。後になって気付いたのだが、そうして良かったと思った。それと言うのも、マナ島に行くの は空路 で到着が早いので(勿論、海路もあるが)、移動の疲れも少なく済むし、何と言っても、その海の青さを空から感じて貰えるからである。そして、それはその通りだった。

空から見る海は深淵を湛えたアクアマリンで、所々、島の周りや環礁で浅くなっている部分がコバルトブルーに色を変えている。それはサファイヤの輝きで、その美しさに目を見張るばかりである。ふと彼女を見ると、唇に微笑みを湛え、子供のような瞳で見詰めていた。そして、僕の視線に気付いて振り返り、「綺麗!」と顔一杯笑みにして、きらきらの輝きを瞳に浮かべた。

リゾートでは特に計画などなく、気ままにのんびり過ごす、と言うのが僕らのリゾートライフだった。泳ぎたかったら泳ぎ、眠くなったら寝る。そんな過ごし方である。それでも、リゾートでは日替わりでイベントがあり、それだけはチェックしていた。面白そうなものがあれば参加しようと思ったからだ。二人だけの時間を過ごすと言うのも良いが、イベントに参加し、他の人たちと遊んだり話したりするのも楽しいからだ。知らない人との出会い、触合いは、旅を何倍も楽しくさせるからね。それは僕も彼女も同じだった。

初日の夜に「ボンファイヤーパーティー」があった。焚火パーティーと言っても、日本でするようなキャンプファイヤーのように、火を取り囲んで歌い、踊るってものではない。とは言え、趣旨は似たようなものである。焚火を燃やし、その明かりの下、ゲームなどして遊ぶのである。僕は前にも楽しんだことがあるが、ゲームはその時々で変るようである。前回は国ごとに分かれてゲームをしたが、今回は一緒である。

まず始めに、男性参加のムカデ競争である。彼女にそそのかされて、僕は出ることになってしまったのだが、途中で脚を上げるリズムが合わず、転倒、撃沈となってしまった。勝てば、勝者は賞品としてTシャツを貰えるのである。次に、女性参加のおんぶ競争である。二人一組で、一人がもう一人をおんぶして走るのだ。それには彼女が出た。組むのは彼女よりも背の低い女の子だったが、結局、体の細い彼女が上になった。他のチームを見ると、これは分が悪いかなと思ったが、いざスタートしてみると、一気にダッシュを決めみごと勝利。いやあ、その速さには驚いたね。今考えると、確かに彼女が下なら、絶対に負けていたと思うよ。なんて言ったって、自他共に認める鈍足だからね。そしてみごとTシャツをゲットした訳である。

最後のゲームは「ゾウとキリンのゲーム」(?)だった。それは3人一組でするゲームだった。3人が1列に並び、エレファント(ゾウ)と言われると、両側の二人が中に立つ人の耳を引っ張り、ジラフ(キリン)と言われると、中の人が鼻に合わせた両手を乗せるのである。つまり、イメージとは反対の仕草をするゲームである。(但し、耳を大きくするのはキリンよりもゾウのイメージが強いような気がするけどね。)これは各国対抗戦となり、また彼女が参加することになった。勿論、日本チームである。相手はオーストラリアとニュージーランドだった。結果は我ら日本チームの優勝。とは言え、日本チームには少々有利な面があったようだ。それと言うのも、英語で言われるので、必ずしもイメージと直ぐに結びつかなく、機械的に反射対応が出来たと彼女が言っていたからである。そして、またしてもTシャツをゲットである。

そんな中、オージーチームに出た11、2歳ぐらいの女の子がとても残念にしている姿を見て、彼女はTシャツをプレゼントしたいと言った。女の子はちょっとはにかむ素振りを見せたが、両親と共に満面に笑みを見せて、それを受けてくれた。何気無いことであるが、何となく嬉しい気がした。その後、その親子とは滞在中よく出くわし、それが何とも不思議に思えた。ゲームであっても家族で真剣に取組むその姿が、とても微笑ましく、そして素敵だった。もし僕に子供がいたら、あのお父さんのように振舞えたろうかと考えると、「No」である。きっと、おちゃらけて真剣には取組まなかったと思う。そんなことを思うと、その姿勢は見習うべきことだなと、感心した。子供は親の姿を見て育つのだ。僕はそのお父さんをちょっと尊敬したね。

マナ島の最大の魅力は、やはり海にある、と僕は思う。マスクをして海に入るとすぐに、色とりどりの魚が見られるのだ。そしてドロップオフの周辺には色鮮やかな珊瑚の群生が繁栄しているのである。特にノースビーチ沖にある珊瑚は素晴らしく、スノーケルを銜えてぷかぷかと浮かびながら、いつまでも海中の世界を見続けてしまうほどである。珊瑚も魚も色々な種類がいて、見ているだけで本当に楽しくなる。しかも、ビーチからそのままエントリーできるのである。なので、初心者でも、それほど怖さを感じないでスノーケリングを楽しむことができるのだ。

僕らがエントリーした時、幸運にも珊瑚礁にイワシの群れがいた。その群れはまるで一つの生物のように、動き移動する。長大な塊となって移動する様に、一種の感動を覚える。ふいに塊が方向を変え、その中に包み込まれると、右も左も、上も下も分からなくなる。視界に入るのはイワシだけで、その視界不良と圧迫感に苛まれる。そのくせ、群れの中から出ようと腕や足を動かしてみても、触れるのは柔らかな南国の海水だけで、嘘のようである。改めて、その小魚の感覚の鋭さに感嘆する。

勿論、珊瑚礁に棲む色とりどりの熱帯魚の美しさも忘れてちゃいけない。可愛らしいチョウチョウオの仲間はその名の通り、珊瑚の間を舞う蝶のようだし、ベラの仲間では、何故こんな色取になったのかと思うほどのものがいたりする。小さなテングカワハギは、お茶目で可愛く、珊瑚の上を群れて泳ぐデバスズメダイは、コバルトブルーに輝き宝石のような美しさである。数え上げたら切がないくらいだ。そして、その魚たちを育む珊瑚礁の素晴らしさ、美しさには感嘆するのみ。どんなに深く考えて発する言葉であっても、それを言い表せず、口を噤んでしまいたくなる。何か言おうとして、口を開けたっきり、言葉が出ないのだ。言葉ではなかなか伝わらないので、写真に撮ってみたりするのだが、それもまた一部しか現されておらず、「こんなものじゃない。もっともっと素晴らしいのだ」と首を横に振ってしまう。それでも、その一部でも持ち帰りたくて、何枚も写真に撮るのだ。そして、このような素晴らしい環境がずっと在って欲しい、守っていかなければならない、と強く思うのである。

最後にマナアイランドリゾートについて話しておこう。前回の滞在では、食事面に不満があったのだが、今回ではかなり改善したようで、食事もまずまず美味しかったことを言っておきたい。とは言え、一流レストランの味を期待してはいけないけどね。食事と言うものは、やはり旅の楽しみでもあるからね。そう言った意味でも、リゾートとしての価値は高まったのじゃないかな。リゾート側の努力も見えるってものだ。そして、これならまた来たいと思うようになるね。そして、親しみを感じるリゾートとして、これからも在って欲しいと思う。

今回のフィジーの旅は、本当に楽しかった。初めての二人旅としても、文句の付けようがないくらいである。それはやはり、美しく素晴らしい環境があったからだと思う。同じ ものを共有し、美しいものを美しいと感じる。共有がさらに感動を増幅し、「幸せ」を感じさせてくれるのである。二人旅も良いものである。そして、これからは二人旅をしよう と思っている。

 

終わり

07/30/2006

 

TOPに戻る


 

砂漠のシャンデリア

 

朝にはまだ早いが、深夜と言うには遅すぎる頃、エミレーツ航空の機体は、母港であるドゥバイへ降下を始めた。窓から見えるのは、小さすぎるほどの星の輝き以外には黒色しかなかった。

 

あれから、もう既に6年が経とうとしている。初めてケニアに行った時、この中東の都市にも初めて降り立った。それから、毎年のようにケニアに行くようになり、そして、その殆どがドゥバイを経由した。しかしながら、空港を出ることは無く、僕にとっては、ただ単に中継地でしかなかった。それは何もドゥバイが退屈極まる場所と言うわけではなく、より多くの時間を、ケニアのマサイマラに費やしたかったからに他ならない。この都市、或いはその周辺にも、魅力的な場所があるかもしれない。ただ、それを知らないだけかもしれない。

前にエミレーツのキャビン・アテンダントに聞いたことがあるのだが、ドゥバイと言う都市は、UAEの中でも特異な所らしい。それと言うのも、その都市の40%が外国人のため、かなりオープンなのだと言う。なので、ドゥバイから一歩出ると、その違いに驚くほどなのだそうだ。そこにはイスラムの戒律や習慣がその根底にあるのである。僕は実際に行ったことがないので、その違いと言うのが、どんなものなのか伺い知れないが、多少見聞きした程度の知識でも少しは想像出来る。

その少しの知識だけであっても、現在、世の中(主に日本や欧米)のイスラムに対する偏見がはびこっていると感じる。確かに世界を震撼させているテロリスト・グループはイスラムを掲げているからかもしれないが、それがイスラムの全てと思うのは間違いである。むしろ少数であり、僕の見る限り、それは大義名分でしかないと思う。それは歴史が多くを物語っている。過去の戦争・紛争・内紛などを見てもそうだ。その大義名分が宗教であったり、開放と言う名の侵略であったりする訳である。そして、もしかしたら今は、自由もまた、争いの大義名分となっているのかもしれない。争いを正当化するには、大義名分が必要なのである。それが、たまたまイスラムだっただけである。イスラムの信仰は、世界に大きく拡がっている。それは、その考えが素晴らしいからだと思う。キリスト教や仏教もそうだと思う。宗教を持たない僕から見ると、そう言った宗教の教えには、かなりの共通点があるように思う。それはただ単に無知からくるものかも知れないが、無知であるからこそ、見えるものもあるような気がする。

 

飛行機はかなり高度を落としたと感じるのだが、まだ窓から見えるのは漆黒の闇ばかりだった。そして、しばらくするとオレンジ色の明かりが点々と続いているのが見えてきた。飛行機は光の続く方向に飛んでいる。目を凝らして見てみると、それはハイウェイを照らす灯だった。その光に照らされ、真直ぐな道路が伸びている。走っている車の影は無かった。そうこうする内に、視界は再び暗黒になった。飛行機は一旦海上に出て、海側から滑走路に進入しようとしているからだった。ふと気付き、機内に設置されている大きな画面を見詰めた。そこには、オレンジ色に輝くシャンデリアがあった。真っ暗な空間の中に突然煌々と輝く都市が現れたのだ。シャンデリアのように輝くドゥバイが近付いてくる。滑走路に誘導する、連続して点滅する明かりが見えてくる。市街地が分かるようになり、窓からそれを見下ろすと、そこには砂漠の上に作られた都市があった。砂漠のシャンデリア。それがドゥバイだった。

 

終わり

8/16/2006

TOPに戻る


 

アントワープ(ベルギー)

 

かねてから友人に「ぜひ、いらっしゃい。」と言われ続け、その度に「必ず行く。」と言い続けていたが、気が付けば8年が過ぎ去っていた。なかなかその機会を見つけ出 せず、否、行こうと思えば行けたのだろうが、他に行きたい場所があったからと言うのがその理由の大半だった。しかし友人は、少なくても年に一度はそう言い続けてくれ、僕は僕で、何度もそれを裏切り続けていた。今思うと、そう言い続けてくれた友人に対し、感謝の気持ちで一杯になる。そしてこの度、その友人の住むアントワープに行くことにした。そうしようと思ったのは、結婚したことがきっかけだった。僕のパートナーを紹介したかったのである。

アントワープはベルギーの北部、オランダとの国境にもほど近い場所に位置する、貿易都市である。ダイヤモンドの取引量は世界一らしい。日本からベルギーには直行便は出ていないため、アムステルダムから鉄道を利用して行くことにした。

午後7時半にセントラル・ステーションに着くと、友人たちが以前と変わらぬ笑顔で出迎えてくれた。駅を出ると、月の終わりと言うこともあり、辺りは日本の午後4時頃のそれで、傾いた陽光が明るく街を包み込んでいた。ベルギーは緯度が日本よりも高いため、夏は午後10時ぐらいにならないと暗くならないのだ。駅のすぐ裏には動物園があって、それだからか、前の広場にはゾウのオブジェが並んであった。

友人宅はアントワープから車で20分ほどの郊外の、緑の沢山ある静かな町にあった。家は、まるで森の中にあるようで、とても素敵だった。こんな場所で育ったら、きっと情操豊かになるんじゃないかなと思った。何故そう思ったのかと言うと、友人と会う目的がもう一つあったからだ。それは、彼らの子供に会うことだった。写真を送ってくれたり、こちらからも誕生日のプレゼントを贈ったりしていたのだが、まだ会ったことがなく、とても楽しみにしていたのである。もうすぐ4歳になろうとする、美しいエメラルドグリーンの瞳を持ったその子は、想像通りに、明るく朗らかだった。

翌日は、アントワープの街を案内してくれた。友人は、知合いのポーランド人の家族も呼んで、皆で楽しく街の散策をすることになった。驚いたのは、友人とその家族夫婦の知識の広さである。アントワープのことをとても良く知っていて、現地にいなければ分からないような、小さな路地の古い建物や、城壁の跡などを丁寧に教えてくれるのである。何も知らずに漠然と見ていただけでは、とても分からないのだ。観光ガイドそのものと言えるぐらい、否、普段ガイドが連れて行かないような場所まで連れて行ってくれるのだから、それ以上と言えるぐらいのものだった。そこには、歴史を通して、この街 への親しみや、愛着が感じられた。もしも彼らが日本に来た時、果たして同じように案内や説明が出来るだろうかと考えると、答えは「NO」である。僕がいかに自分の暮らしている場所のことを知らないかが痛感された。これを機会に、少しは日本や住んでいる場所の歴史などに興味を持って、そ こを訪ねたりするのも良いかもしれないと思ったりした。

アントワープにいると、チョコレートやクッキー、果てはカフェやバーのグラスにまで手の形を見付けることが出来る。それは、アントワープと言う名の語源に由来しているからだった。そこで、友人から聞いた、その由来をここで話しておこうと思う。

 

アントワープに流れる川の傍に、アンチゴンと言う巨人がいた。その巨人は、城の近くを航行する船に厳しい通行料金を課し、支払いを拒んだ者に対しては、その腕を切り落として、それを川に放り投げていた。ある時、ローマの若き兵士ブラボーがそれに怒り、巨人が寝ている隙を狙って、巨人の手を切り落とし、それを川に投げ捨てた。そこから、Hand(手)―Werpen(フラマン語で投げる)がアントワープ(Antwerpen)の由来となった。

 

マルクト広場でそれを聞かされた時、「なるほどね」と思った。広場には、手を投げ捨てようとするブラボーの像があるのだ。

忘れてはいけないのは、やはりカテドラルである。日本では「フランダースの犬」で有名なネロ少年が憧れたルーベンスの絵がある教会である。余談であるが、その物語を知っているベルギー人はあまりいないそうである。近くに記念碑があるのだが、それを 作ったのはTOYOTAだと、友人が教えてくれた。それはともかく、勿論、教会に行ったのは言うまでもない。外観も内観も歴史を感じさせる壮麗かつ厳粛で、これを作った人々の信仰心を深く感じるような気がした。ステンドグラスの美しさや、細やかな装飾物、聖書を基に描かれた宗教画が、高い天井から、静かに、重く迫ってくるようである。現代の重機などの無い時代に、このような壮大な建造物が生まれたのも、信仰心があったからなのかもしれない。高層ビルや近代建築とは明らかに違う「何か」がある。有名なルーベンスの絵も当然見たが、それはこの教会の一部であり、際立つことなく、むしろ教会と言う肉体の一部として、そこにあった。それがむしろ素晴らしく思えた。

 

アントワープの街並みは、規律だった、昔ながらの景観を維持している。とは言え、それには市民が協力し、そうしているからに他ならない。新しいビルを建てるにしても、高さや外観など、雰囲気を壊さないよう、街に合ったものを建てているのだ。そんなことを知らずに聞いてみると、「これは新しい建物なんだよ。」と友人は笑って言った。ヨーロッパに行くと、そう言った街は少なくないが、伝統や芸術だけでなく、心地よい空間を維持しようとする市民の気持ちが感じられる。それは個人ではなく、コミュニティとしての民意からくるものに違いないが、そのようなものが日本にあるのかと考えてみると、ほとんど頭に浮かばないのである。古都と言われる京都にしてもそうである。また土日には殆どの店が休みになるのも、伝統的な宗教観からくるものと思うが、そのようなことは日本では考えられないことである。僕らは、今一度、自分の生活を見直しても良いのではないかと言う気がする。功利や利便ばかりに捕らわれ、休息や心の安らぎを忘れてしまっているような気がしてならないのだ。過剰な情報に浸され、感覚さへ麻痺しているのかもしれない。友人の家の居間にテレビがないことに気付き、改めてそんな気がした。僕らは、その居間で、本当にくつろいだ気分と、温かな会話を楽しんだのだ。

夕食後、近くの森を皆で散歩をした時、友人夫婦と子供が手を繋いで歩くその後ろ姿を斜陽が照らしていた。その光景に、温かく幸せな家族を感じ、僕らはとても穏やかで優しい気持ちになった。

アントワープはとても素敵な場所だった。それは友人の親切なもてなしがあったからに他ならないが、僕らはまた来たいと思っている。そして、友人もまた、「ここは君たちの家だから、気がねせずに、またきてね。」と言ってくれた。その言葉は本当に嬉しく僕らの心に響いた。そして、これからも親交を深めていきたいと思っている。

 

終わり

8/19/2007

 

TOPに戻る


 

グリンデルワルト

 

4年ぶりにスイスの村、グリンデルワルトに滞在した。僕はこの周辺がとても好きなのだ。雪を頂いた雄大な山々と、麓に拡がる緑のシャレーの美しい景観が、気持ちを和ませでくれ、何時来ても、本当に心が休まるのである。

再びこの地に来たのには理由があった。昨年結婚したのだが、結婚する前に、スイスに連れて行ってあげると、パートナーに約束をしていたからだった。彼女はまだ一度もスイスに行ったことがなく、それを楽しみにしていたのだ。

村に着いた時は、あいにくの曇り空だったが、雄大な山々が聳える光景を見て、彼女はとても気に入ってくれたようだった。そして僕は、晴れ渡った日の美しさを早く見せてあげたいと思った。
 泊まったホテルはいつものゾンネンベルグだった。高級ホテルとは言えないけれど、家庭的な雰囲気と、部屋から見える美しい風景が素晴らしく、彼女も気に入ってくれたようだった。勿論、ホテルのオーナーや、いつもお世話になっているメイドさんに、彼女を紹介したのは言うまでもない。皆、それをとても喜んでくれたのが嬉しかった。

翌朝は晴れていたのだが、ハイキングを始める頃には再び曇り、冷たい雨まで降ってきた。僕らは雨に濡れながら、メンリッヘンからクライネシャイデックまで歩いた。僕は歩きながら、堪らず、「晴れていれば、すごく綺麗なのに・・・」と何度も零した。すると彼女は気遣うように「ううん、今だって十分に綺麗よ。」って言ってくれた。その心遣いは嬉しかったが、彼女と初めて歩くには、とても納得出来るものではなかった。彼女にもっともっと素晴らしい風景を見て欲しかったからだ。雨の中を歩くのも、趣があって楽しいものなのだが、青空の下、彼女と歩きたかったのだ。

そんな思いが通じたのか、次の日からは、ほぼ晴天に恵まれた。さんさんと降り注ぐ太陽光、緑の草原、雪を被った山々。透き通った空気を胸いっぱいに吸って歩くのはとても気持ち良かった。色とりどりの小さな花は、光を受けて輝いている。雨の中で見たのとは違って、活き活きと生を輝かせているように感じた。

僕らは、毎日のんびりと自分たちのペースでハイキングした。ホテルの朝食のパンとチーズ、ハムで作ったサンドウィッチを持って行き、お昼はそれを食べた。それはとても良いアイデアだった。バッハアルプゼーの湖畔で聳え立つシュレックホルンを見ながら食べたことも、ユングフラウヨッホに行って万年雪の上で食べたことも、そして、ミューレンからのハイキングの途中の緑の草原で食べたことも、それぞれが新鮮で楽しく、そして優雅だった。

「また来たいな。」彼女のその言葉が全てだった。僕はその言葉を聞いて、本当に嬉しくなった。一緒に此処に来て良かったと思った。明るい日差しが僕らを包み、雪を頂いた蒼い山々が大きく手を拡げている。小さな花々は、緑の草原を渡る風にそよそよと揺らぎ、時折ミツバチが飛んできて、その花弁にとまった。青い空はどこまでも透き通り、真っ白な雲がゆっくりと流れている。目に映る全てが穏やかに開いていた。

 

彼女と旅をするようになって、必ず旅先でジャンプする写真を撮ってもらうようになった。初めて一緒に旅した時、面白い写真を撮ってもらおうと、ジャンプした写真を撮ってもらったのだが、それが自分でもとても面白く、それ以来、あちこちでジャンプしている。もちろん今回も、色んな場所で跳んでみた。当然、ユングフラウヨッホでも跳んでみたよ。
 一人旅ばかりしてきた僕にとって、自分が被写体になるなんて考えもしなかったことを思うと、随分変わったのかな、などと思ったりするが、よくよく考えてみると、そう言う素養は子供の頃からあったようで、一人暮らしが長かったために、それを封印していたようだ。一人で生きると言うのは、何かと自制的になるものなのである。そしてある意味、それが自分の中のストイックな格好良さみたいなものと感じられるのだ。しかし、そのことを彼女に言ってみたら、「馬鹿みたい。」と一笑されたのは応えたね。まあ、男の美学なんてものは、独り善がりみたいなもののような気もする。どちらにしろ、それもこれも僕自身であるってことには変わりないと言うことだよ。だから、僕がジャンプしようが、皆を笑わせようが、それは僕が変わったってことではないってことである。
 話が逸れてしまったが、なかなか良い感じのものが撮れたので、1枚掲載してみようと思う。二人旅の楽しい記録として、これからも跳び続けるつもりである。

二人旅を始めて、まだ1年が過ぎたばかりである。これからも、ずっと二人で旅を続けて行こうと思う。そう思うと、雨の日のハイキングも良かったのかもしれない。様々なことがあるからこそ、面白く、素晴らしいのだ。晴れの日も、雨の日も、曇りの日でも、一緒に旅を続けて行こう。そして、またグリンデルワルトに一緒に行こう。

 

終わり

11/24/2007

 

TOPに戻る


 

アンコールワット

 

 熱帯森の中をまっすぐ伸びる道を進んでいると、ふいに大きな川とも思われるような濠があり、その向こうに緑の木々に覆われた石の塀が見えた。水と木々に包まれた遺跡、アンコールワットだった。乾期にあっても水が豊かに湛えられた濠に沿って、僕らを乗せたトゥクトゥクは走る。その先が直角に曲がっているのは濠が四角形をしているためだった。濠のその1辺は1km以上もあり、遺跡に足を踏み入れる前から、その巨大さに嘆息が漏れた。そして曲がったずっと先に、濠を渡る石橋と大きな門が見えた。そこは西側の正門で、石橋は参道になっていた。

 僕と妻はトゥクトゥクを降り、参道へ脚を向けた。石橋はかなり広く、対岸には灰色の高い塀が左右に広がっている。その中央に三つの門があり、一際高い真ん中の大門が、参道を飲み込むかのように口を開けていた。その巨大さに圧倒される。大門の前にはコブラを模った石造があったが、良く見ると、頭部の扇状の部分には九つの頭がある。バラモン教の神蛇ナーガである。アンコール遺跡を見るために、ほんの少し下調べをしておいたのが役に立った。深く遺跡やその歴史を知っている訳ではないのだが、少しだけでも知っていることで、遺跡を何倍も楽しめると言うのを、これ以後も実感することになった。

参考までに、「アンコール遺跡とカンボジアの歴史(フーオッ・タット 今川幸雄【翻訳】)」と言う書籍は非常に役に立ったことを書いておこう。内容には、間違いだったことが、その後に分かってきている部分もあるようだが、歴史の流れや、個別の遺跡に関する詳しい説明がなされていて、とても分かり易く書いてある。その本を片手に現物を見たり探したりするのも面白かった。宝探しでもしているかのようである。また、歴史や背景を知っていることで、ただの石の巨大な建造物から、活き活きとした当時の情景を想像する楽しみが生まれたりするのである。

門を潜ると、中には8本の腕を持つ3メートルほどのヴィシュヌ神像があり、オレンジ色の布を体に巻いていた。こちらの僧侶が巻いている布と同じものである。その神像の足元に跪いて祈っている家族がいた。現在のカンボジアでは広く仏教が信仰されているのだが、もともとバラモン教の寺院であるアンコールワットであるが、今では仏教寺院としての聖地となっているようである。左右を見ると回廊となっていて、ただの塀ではないのが分かる。良く見ると窓枠や柱に浅い彫刻が施されていた。

門を出ると、そこには広大なスペースが広がっていた。門から本殿に真っ直ぐ伸びた参道が続き、その左右に経蔵がある。三つの大きな塔を持った本殿がどっしりと構え、その規模に驚嘆する。これまで見聞きした情報を超えた存在がそこにあった。此処に来なければ分からない存在感があった。乾期の太陽が明るく照りつける中、灰褐色の巨大な石の建造物が、重厚な、威厳を持ってそこに在った。

「凄い!」僕らはそう発した後、言葉を見出せなかった。

アンコールワットは、修復作業のためか、左右の塔の根元がグリーンのシートに覆われていた。写真を撮るに際し、それが邪魔に感じられ残念だった。しかし、修復されないまま放置されるよりはずっと良いと思えたし、今ある遺跡を撮ることが大切なのだと思い直した。体裁良く飾り立てるよりも、あるがままを撮る。それが僕の写真だと思うからだ。とは言え、目立たないように角度や位置を変えて撮ったりしていたけどね。

参道が終わり、石段を上がると広いテラスに出る。テラスはナーガを模った欄干に囲まれていて、きっと昔は此処で様々な行事が行われていたのではないかと想像された。

テラスの先はいよいよ本殿の入口である。アンコールワットは3つの層で構成されており、第一の層は回廊になっている。中に足を踏み入れ、先の本に書かれたように、回廊を右に進むと、左の壁一面にぎっしりと彫刻がされている。戦いの場面のようで、槍を持った人々が整然と行進し、その上には馬車に乗った高位の人物が弓を引いている姿が彫られていた。それはマハーバーラタにある大戦争の図であるらしい。マハーバーラタとはインドの大叙事詩であり、その名は中学生の時分に学んだ歴史で知ってはいたが、その内容は全く知らなかった。壁の彫刻は、隙間がないほどに戦いに臨む人々の姿が描かれていて、見ていると威圧感のような息苦しさを覚えた。

回廊のどの壁にも彫刻が施され、角の柱の周りや窓枠にもあった。その質と量の膨大さに圧倒される。南面には天国と地獄の図があって、上への道が天国へ、下に向かう道が地獄に繋がっている。さらに天国の上には神々の国があって、上中下の三部からなっている。神々の国、そして天国は穏やかで慈愛に満ちた様子が描かれていたが、僕は下部に描かれた地獄絵に興味を持った。そこには様々な罪と罰が描かれていて、おどろおどろしい様子なのだが、どこかユーモアが感じられるのだ。

その地獄絵を見ながら本の説明を読むと、その意味が分かり面白い。例えば、悪事を行った金持ちの地獄や、行いが悪く、他人の悪口を言い、禁じられた悪い肉を食べた者の地獄、飲酒して他人の妻を盗んだ者の地獄、品行が悪い女人の地獄、肥満の大食漢が打たれている地獄なんて言うのもある。そう言った地獄が32もあるのだ。

そう言うものを見ていると、宗教的な意味合いのある物は別として、今も昔も善悪の区別は似たようなものだと感じる。宗教などが生まれる以前から、基本的に善と悪の違いはあって、それは生理的なもの、集団で生きる生物にとっての生得的な基準があるからなのではないかと思う。その基準は原始的な営みの中でもあったに違いない。僕らはそう言った意味では、それほど進化している訳ではないのかもしれない。人類が生まれて高々15万年ぐらいだと言われている。地球の歴史で見るとほんの一瞬でしかないわけで、進化と言うには短すぎる期間だと思う。文明や文化の凄まじいほどの発展や衰退に比べ、人類と言う生物の本来的なものは、それほど変っていないのだと思う。

 東面南側には、壮大な綱引きの図が描かれていた。実際に描かれているのは、バラモン神話の「乳海攪拌」の図である。本の説明を読んでいなければ「乳海攪拌」なんて聞いても、何のことだかさっぱり分からなかったと思う。そう言った意味でも、アンコールワットを訪ねる前に、少々ガイド本などを読んでおくと、さらに楽しめるはずである。たぶん予備知識があるとないとでは雲泥の差があると思う。普段は必要以上に予備知識を持たないようにしているのだが、この旅は違った。そして、それが正解であった。歴史好きな妻のお陰である。もし結婚前に僕が此処に来ていたら、壮大な彫刻の意味も知らず、遺跡は遺跡のまま、石で創られた巨大な建造物としてあっただけだったかもしれない。「乳海攪拌」にまつわる神話については、ここでは話さないでおこうと思う。まだ行ったことがない人の楽しみを奪うことにもなりかねないからね。

回廊を進むと、様々な彫刻が次から次に現れる。神鳥ガルーダに乗ったヴィシュヌ神、孔雀に乗った軍神スカンダ、聖象イラヴァンに乗った雷神インドラ、太陽神ソーリヤ。西側南にはラーマーヤナ物語の猿王ハヌマンがラーマ王の妃シーターから指輪を受取る場面が描かれて、そして、最後の西南北側には、約50メートルにおよぶ全壁面に、ラーマーヤナ物語のクライマックスの場面である、ラーマ王子軍と魔王ラーヴァナ軍との大合戦が荘厳かつ壮大に描かれていた。

緻密に彫り上げられた絵が、整然と、しかし混沌として、あちらこちらから襲い掛からんばかりに動き出しそうな気配に包まれる。異様な息苦しささえ感じる。戦闘の場面を切り取ったその彫壁には、終焉は決してやってこない。戦いそのものが、壁に閉じ込められているのだ。息苦しさはそこから来ていた。

回廊を一周してきて、ひどく疲れを感じていた。それは、周るだけで2時間以上を要していたからだけではなかった。壁の壮大な物語はどれも素晴らしいのだが、戦の激しさや、人の業の強さが強烈に感じられ、穏やかに心休まる気がしないのである。それが息苦しさの原因だったのが後になって分かった。

回廊から外に通じる急な階段を下りて、その向こうの芝生の生える木陰で休むことにした。昼をとっくに過ぎていたので、そこで簡単な昼食を取ることにした。持ってきていた、パンと水だけの簡単なものだけどね。

食事が済んでから、芝生に体を横にした。向こうに見える本殿入り口近くの石段に、オレンジ色の衣を纏った若い僧侶の姿が見えた。乾期の爽やかな風が草の匂いを運んでくる。小さな蝶がひらひらと飛んできて、樹の根元にとまった。僕はそれを見て、ふっと体を起こし、その蝶に近付いた。蝶はくすんだ色でそれほど綺麗ではなかったが、何かで読んだ伝説がふと頭の中を過ぎった。確か蝶に導かれ、その後を追っていくと神殿に辿り着いたと言うような話だったと思うが、実のところは定かではないけどね。そんなことを思いながら蝶を見詰めていた。

それにも飽きて、周りを眺めたり写真を撮ってみたりしていたのだが、妻はかなり疲れたと見え、瞼を閉じて横になったままでいた。僕としては、第二回廊、中央神殿へと早く行きたかったのだが、急かすのは忍びなかったので黙っていた。向こうの参道を大勢の人が歩いている。団体旅行者達のようだ。そう言えば、第一回廊を見ている時、大勢の人達が列になってやってきた。そして立ち止まると、先頭のガイドらしい人が、なにやら壁の彫刻について説明を始める。それを神妙に耳を傾けて聞いているのだが、列の後ろの人には聞こえていないようだった。でも、だからと言って再度説明を求めることもない。遺跡を眺めているだけで十分と言うような、他人事のような目をしていた。そして、説明が終わると、ゆっくり眺める訳でもなく、あれよあれよとどんどん進んで行ってしまった。そんな団体旅行者のグループが何組もいて、僕らを次々に追い越して行った。限られた時間で見て回らなければならないのは分かるが、あれではただ慌しさだけが残り、遺跡については、何の印象も残らないのではないかと思われるほどだった。

1時間ほど休み、再び本殿に入った。前に入って入口から第二回廊に向かう階段を上った。第二回廊には四本の腕を持つ神像があったが、それ以外は特に印象深いものはなかった。第二回廊を出て、第三層の中央神殿との間の広場のような通路に出ると、驚いた。まるで天に向かうように、神殿に登る傾斜のきつい階段がそそり立っていたのだ。そして、第二回廊の内側の壁には、幾つものデバター(女神)像が浮彫り にされていた。それは同一の女神像ではなく、一体一体が違っていた。そして、そのどれもが美しく滑らかな体の曲線で描かれていた。第一回廊の時とは違い、そこにはあまり人の姿はなく、第二回廊の壁と壁のような階段に挟まれた空間にいると、厳かな、神聖な場所に来ている雰囲気に包まれる。静けさが、時が止まったように感じられ、今にでも天空から何者かの声がしてきそうな感じさえしてくる。階段を見上げると、そこには第三回廊がまるで石橋のように見えた。本を見ると、急な階段を登って行けると書いてあったのだが、東西南北に各3つづつある階段のどれもに「立入禁止」の札とロープが張られてあった。本には第三回廊から見る景色はとても素晴らしいと書いてあったので、とても残念に思えた。しかし、遺跡を守るための規制や修復なのだから、そう思えても納得していた。本によると、第三回廊の神殿には仏像が納められていると言う。それは後世になって収められたもので、それ以前にはバラモン教のヴィシュヌ神像があったであろうと記述されていた。アンコールワットはヴィシュヌ神に捧げられた神殿であったのだ。

僕らはしばらくそこに留まって、静かな、厳かな空間に身を置いた。第一回廊で感じた息苦しさや疲労感は此処にはなく、冷たいはずの石で造り上げられた建造物が、まるで体温を持っているかのように温かく感じられた。

本殿を出てから、敷地の北側にある露店に行った。お腹が空いていたので、簡単な物でも食べようと思ったのだ。冷やかし程度に土産物屋を覗き、それからパラソルを立てたテーブルと椅子が並べられてあるフードコートに行った。

大きな樹が枝を伸ばし、その影の落とすテーブルの一つに着き、注文を取りにくるのを待っていたら、7,8歳の男の子がやってきた。愛嬌があり、ちょっと生意気そうな感じの可愛い子だった。僕らは温かいスープヌードルを2つ頼んだ。少し待っていると、先ほどの男の子が2つにプラスチック製の椀を持ってきた。見てみると、それはインスタント・ラーメンに、具を乗せたものだった。フォーのようなものを期待していたのだが、やはりこのような所では、それは無理だったようである。しかし食べてみると意外に美味しかった。このような場所で店番をするからなのか、男の子は片言の英語を話せた。おそらく学校で教わったのではなくて、接客しながら覚えていったのであろう。くったくの無い笑顔の中に、逞しさが感じられる。そんな彼に、カンボジアの挨拶の言葉を教えてもらった。「チョムリアップスォー」と言う言葉で、意味は「こんにちは」である。それに続けて同じように言ってみると、語尾は「ソー」ではなく、「スォー」だと何度も訂正された。そのお陰で、カンボジア語の「こんにちは」は完璧にマスター出来た。とは言っても、ぼくが知っているのは、その一言だけだけどね。

その後、散歩するように西門まで戻った。石橋には来た時以上に人が大勢いて、もう午後4時になると言うのに、まだまだ観光客がやってきていた。橋を渡った先には、今朝のトゥクトゥクの運転手が、ちょっと恥ずかしそうな笑顔で待っていてくれた。

トゥクトゥクに乗り込み、シェムリアップのホテルに帰ることにした。少し傾いた日差しを受けて、アンコールワットが濠に浮かんで見える。心地よい疲労感に包まれながら、二人で此処に来て良かったと思った。爽やかな乾期の風がやるやかに流れていた。

 

終わり

10/05/2008

 

 TOPに戻る


WALKABOUT

 

【PR】