PAPUA NEW GUINEA

NOSTALGIC TRAVEL


 

2002年8月に行ったパプアニューギニアの旅行記です。

海辺の町マダンに滞在し、町を散策したり、美しい海でスノーケリングをしたり、

とても素敵な時間を過ごせました。

何故か懐かしい、 PNGはそんな気がするところです。

 

パプアな日々(Aug. 2002)

 

Chapter

パプアに行こう  PNG  即席半日バスツアー  マーケット  ティキ

クランケット島  スノーケリング  フレンズ  パプアな日々  旅の終わり

 

 

パプアに行こう

 夏休みが近づくに従って、海外に出たい病が現れ始めた。今年は行けないかなと思っていたのだが、1ヶ月前には堪らずにやっぱり行こうと言う気になっていた。旅に出て、日頃堪ったストレスを発散するのは、精神衛生上からも大切なことなのである。そう理由付けして自分で納得したが、ただ海外に出たいがため と言うのが本当だ。行き先は初めケニアと考えていたが、既に航空券はキャンセル待ちの状況で、それも難しかった。6月の頭にはもう一杯になっていたそうだ。八方に問い合わせてみたが無駄であった。それで諦められれば良いのだが、一旦 旅行に行こうと思うともう止められなかった。さて、どこに行こうかと考えたが、結局、夏休みの1週間前になっても決まらない有り様だった。

 何処か良い所はないかなと買ってきた旅行雑誌を見てみるが、お盆休みは一番値段の高い時期であり、航空券だけ買って行くには資金的にも辛かった。今回、旅行に行けないと思っていたのも、その高価な時期にしか休みが取れないのが理由だったからだ。それで、安いツアーを探してみるが、なかなかこれはと思うものが見つからない。団体行動が無くてほとんど自由行動でのんびり出来るもの、そんなツアーを探していたのだ。

 目も疲れてきて、探す気力も衰えてきた。僕は神のみぞ知ると言う気持ちで、雑誌を閉じ、瞼を閉じてこれはと思うページを開き、指を指して目を開いた。「パプアニューギニア航空利用!!マダンリゾート泊フリー8日間」の文字があった。その瞬間「これだ!!」と思った。値段は手頃で、何よりもパプアニューギニアと言う響きが僕の好奇心をくすぐったのだ。すぐさま旅行会社に電話を入れると、あっけなく決まった。やはりマイナーな場所だけにこの時期でも空いているのだろうと思った。

 実はパプアニューギニアに関する知識はほとんど皆無に近かった。以前見たドキュメンタリー映像の面を被って踊る民族ダンスぐらいは知っていたが、そのままのイメージであるはずがないのは想像できる。日本をサムライ・ゲイシャの国と思うのと同じだ。しかし、映像で見たものは文化として今も残っているはずだ。さっそくWebで情報を集める。だが、それもほとんど無いのだ。これほど情報が発達しているのに、この情報の少なさに驚いた。逆に未知の場所に行くのはとてもエキサイティングな気持ちになった。以前セイシェルに行った時もそうで、知らないことが返って楽しかった。旅行会社の担当者に聞いた情報から、マダンは海沿いの町だった。リゾートと言うぐらいだからそうであろうことは予想していた。ダイビングですかと聞くので、ただのんびりしたいだけだよと答えると、珍しがられた。話を聞くと、旅行者はダイビングの他に、高地に住む民族の村に行くツアーや第二次大戦の戦没者の慰霊を兼ねたツアーもあるらしかったが、僕のように特に目的も無くのんびりしたいだけと言う奴はいないそうである。これがハワイやグアムなら別に不思議がられなかったと思うが、まだまだ馴染みの無い国でもあり、そこを選ぶこと自体に何か目的があると言うのが普通なのだろう。何だかワクワクしてきた。面白い旅になりそうな予感がしていた。

 

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PNG

 8月10日土曜日、いよいよパプアニューギニアに出発である。21:30発のフライトにはまだ早かったので、空港内にある無料のインターネット・サービスを使って暇つぶしをすることにした。これはとても便利で利用価値のあるサービスだと思う。なにし ろ無料なのが良い。ここで最後の情報収集するのも良いかもしれない。

 搭乗ゲートに行くと予想に反して沢山の人たちがいた。どうやら皆PNGに行く人達のようだ。1週間前にあれほど簡単に決まったので空いていると思っていたが、やっぱりお盆休み、そうは いかなかったようだ。実は、エア・ニューギニーは日本(成田)に就航したばかりで、それまでPNGへの直行便はなかったのだ。行くにはケアンズ経由が一般的らしかった。直行便が出たことで行きやすくなったこともあるのだろう。しかし、PNGは日本ではマイナーでまだ 良く知られていなく、僕の姉は「またアフリカに行くの?」なんて言う始末だった。PNGを知らない人もいるかもしれないので簡単に説明すると、PNGは南半球のオセアニア圏に位置し、ニューギニア島の東半分と周辺の島々からなる国だ。島の西半分はインドネシアである。島と言っても本州よりもずっと大きく、標高4000mを超える山脈もあるのだ。その為、地形も気候も変化に富んでおり、動植物にも珍しい種が沢山生息しているのだ。また、お年寄りなら第二次世界大戦で日本が戦った地としても記憶されていると思う。ラバウルもまたPNGの島のひとつである。

 ゲートが開くのを待っていると、出発が遅れるとのアナウンスがあった。それからサービスの軽食が出されたのだ。スポンジ・ケーキとオレンジ・ジュースだったが結構美味しかった。フライトが遅れるからと言って、このようなサービスを受けたのは初めてだった。しばらくすると、やたら元気の良い茶髪の 娘がやってきて、カウンターの前で何やら話し始めた。別段気にもならなかったが、静かになったので見てみると、話が終わったところだった。

 ようやく準備が整い機内に入った。飛行機はエアバスA-310で、シートごとにモニターも付いていて機材も悪くない。これで食事が美味しければ言うことない。そう思うのもつかの間、ボリュームたっぷりのキャビン・アテンダントのオバさんに驚いた。しかし、皆がそうだと言うことではなく、スリムな若い女性もいた。お決まりの脱出時の説明が終わり、A-310はPNGの首都ポートモレスビーに向けて飛び立った。

 ポートモレスビーに着いたのは、まだほの暗い翌日の午前5時過ぎだった。US10ドルを支払いビザを取得してから、イミグレーションで審査を受け入国となった。それから荷物を受け取り、150キナ分の両替をし、荷物検査も済ませた。そこまでは実にスムーズに進んだのであるが、それからがなかなか進まない。出口にずらりと並んだまま進まないのだ。どうやら先ほどの荷物検査はただの検査で、並んだ先が税関らしかった。係官はどんなに並んでいようと、のんびりとペースを崩さず、僕らはただただ順番の来るのを待つしかなかった。窓の外は既に明るくなって、部屋の気温も心なしか上がっているような気がした。時計を見ると、7時を過ぎていた。乗り換えるはずの便はとっくに出てしまった時間だ。乗り損ねた人は僕以外にも沢山いるのは明白だった。「まあ、なんとかなるだろう。これがPNG時間だ。」と特に気にもならなかった。

 ようやく税関を出て入国したのは8時を過ぎていた。国際線のロビーを出て、歩いて隣の国内線の乗り継ぎカウンターに向かった。入り口の前には警備員がいてチェックしていたが、僕ら外国人はノーチェックで入れた。治安の悪いポートモレスビーではチケットを持っていない人は空港内に入れないのだ。そのままカウンターに行き、乗継の手続きを済ませた。待合室で待つこと約1時間。ようやく飛行機に乗りこみ、一路マダンに向かった。

 マダン空港は本当に小さな空港で、滑走路と素っ気無いコンクリートの平屋の建物があるだけだった。出口はそのまま外に繋がっていて、3mも進めば外に出られた。その前に荷物を受け取る場所があるのだが、勿論ターンテーブルなどない。荷物を置く台と、内と外を分ける棒があるだけだった。何人かの日本人らしき人たちがいたのだが、どうもホテルの出迎えとは思えなかった。「お帰り!!」ふいに彼らが大声でそう言った。振り返って見ると、成田で見たやたら元気の良い娘だった。「ただいま!!」彼女は満面笑顔にしてそれに応えた。 実は彼女はヤヨイさんと言って、これから僕が泊まるマダン・リゾートで働いている日本人だったのだ。たまたま日本に帰省していて、丁度帰ってきたところだった。彼女は出迎えの仲間と再会を喜びあったのも束の間、さっそくホテルの一員となって僕らを誘導し始めた。右も左も分からない僕らには頼もしい限りであった。彼女は自分のホテル以外の人たちにも、親切に乗るべくホテルの送迎ワゴン車を教えてあげたりしていて、そのはつらつとした姿は見ていて実に気持ちよかった。僕らを乗せたワゴンはゆっくりと発車し、緑豊かなマダンを走りだした。ポートモレスビーに降り立った時には、乾季で土地が乾き茶褐色に包まれていたのが、ここマダンでは濃い緑に包まれていた。小さな屋根だけの小屋の下に子供たちがいて、僕らの車に手を振った。僕もそれに応えて手を振っていた。

 マダン・リゾートはマダンの先端に位置するホテル・リゾートだった。さっそくチェック・インしようとしたが、僕の部屋の用意がまだ出来ていないらしい。まだ先客がチェック・アウトしていないと言うのだ。後で知ったが、それは僕以外にも数人いたようだ。だからと言って、別段怒る気も全然起こらなかった。当たり前のことぐらいにしか意識していなかったのだ。ケニアのポレポレ時間に慣れてしまっていたからか、待っていれば済むこと程度にしか思わなかった。午後1時ぐらいになれば大丈夫だとのことで、荷物を預けてホテルの周りを散策することにした。ホテルの正面には大きな木があって、その上の方に何か生き物が沢山いた。良く見るとそれはフルーツ・バットだった。その名の通り果物を食べるコウモリである。その顔が狐に似ていることから、フォックス・バットとも言われるが、それが幾つも枝からぶら下がっているのだ。襟巻きをしたように首から胸にかけてオレンジ色をしていた。結構大きく 羽を拡げると1mぐらいあると思われた。現地では食用にもされると聞いている。以前行ったセイシェルでもフルーツ・バットを食べると聞いていたが、実際には現在ではほとんど食べることはなく、伝統料理として観光用に残っているぐらいだった。たぶん、 PNGでもそうではないかと言う気がした。敷地内には鳥小屋があって、そこには青白色のオオギバトが二羽飼われていた。オオギバトは世界最大のハトで、頭部に美しい冠のような飾り羽がある PNGの固有種である。

 ぐるりと敷地を回ってから、外に出てみることにした。ゲートを出ると広場のようになっていて、木々が丁度良い具合に日陰を作っていた。湾に面していて、穏やかな波がきらきら光っていた。少し歩くと、人々が広場で焼き魚や煮魚を作っている。石を組み合わせて小さなカマドを作り、そこに火を焚いて調理しているのだ。それはどうも売り物らしかった。周りには客らしき姿は全く見えなかった。冷やかし程度に覗いて歩くと、笑顔で挨拶をしてくれた。しかし、それは商売人の笑顔ではなかった。それと言うのも、外国人が買うことはほとんどないからである。買うのは、よほど好奇心旺盛な人ぐらいであろう。ヤヨイさんによると、食べたら必ず下痢になること請け合いだそうである。別の場所には敷物の上に、緑色の植物の実が置いてあった。二種類あって、一つはドングリ程の大きさで、もう一つは細長いインゲンみたいだった。どちらも美味しそうには見えなかった。その先は小さな橋があり、街に続いていた。しかし、先には進まず引き返した。ホテルの部屋が決まり、一息ついてから行ってみようと思ったからだ。僕は水際を眺めながら戻っていった。魚が見えるかもしれないと思ったからだ。丁度ホテルのゲートからまっすぐ下りた所に小さな桟橋があって、中型のボートが係留してあった。桟橋から海を覗くと青や黄色の小さな魚が見えた。それを見つけ嬉しくなった。

 桟橋のすぐ向こうに緑の芝生が綺麗な広場があって、その縁から見下ろすともっと多くの魚が見られるような気がした。僕はちょっと期待しながら広場に入った。思った通りだった。そこにはなんと珊瑚も繁殖していたのだ。すぐ目の前の、手の届きそうな所である。一匹の小さな紅い魚がよれよれと泳いでいた。良く見ると釣り針が掛かっていて、今にも死にそうだった。食べるには小さすぎ、魚にとってはまったくの不運だったに違いない。いっそ、釣り上げられた方がましだったと思う。そんなことを考えてしまった。珊瑚の間を小さな美しい魚たちが見え隠れし、僕は夢中になってその様子を見ていた。魚たちの動きを見ているのは本当に楽しく飽きない。以前、水槽で海水魚を飼育していたことがあったのだが、またやりたくなってきた。それも、セイシェルで豊かな海を感じたことがきっかけだった。しばらく続けていたが、引越しで仕方なく止めたのだ。今も水槽はあって、時折また始めようかなと思ったりするのだがなかなか実行せずにいた。それと言うのも、海水魚の飼育は結構手間が掛かるからだ。

 少し向こうに現地の女性がいた。「こんにちは。」僕は挨拶した。彼女も「こんにちは。」と笑っていった。サングラスを掛けた小柄な女性で、年齢は30歳前後かと思われた。彼女は「何処から来たの?」と聞くので、「日本からだよ。」と答えた。それから「何をしているの?」とまた聞いてくるので、「魚を見てたんだよ。」と言った。他愛ない会話を立ったまましていたが、さすがに直射日光の下では暑くなり、木陰に移動し芝生に座った。彼女はティキと言う名前で大学に行っていると言った。話をしていると、何人かの子供たちが集まってきた。皆彼女の知り合いだった。下着のまま海に入って雫を垂らしたまま白い歯で笑う子や、ちょっと気取った感じの子もいた。少し離れて編み物をしている年頃の女の子もまた仲間だった。名前を呼ぶが、彼女は加わろうとはせずに編み物を続けた。どうやら恥ずかしがっているようだった。僕はデジカメで皆の写真を何枚か取った。それを液晶に映して見せると期待以上の反応で喜んでくれた。子供たちはくったくのない笑顔で、肌がすれるぐらいに近づいてくる。その無防備で明るい顔を見ていると嬉しくなってきた。何故か懐かしい気がした。僕は日本に帰ったら写真を送ると約束した。しばらくわいわいやっていたが、午後1時になったのでホテルに帰ることにした。するとティキが明日町を案内してくれると言い出した のだ。僕はその申し出を快く受け入れた。そして、明日の午後1時にこの場所で待ち合わせることを決めホテルに戻った。

 

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即席半日バスツアー

 ホテルに戻るとまだ僕の部屋は用意されていなかった。これもまたPNG時間だ。まだケニアのホテルの対応の方が早いかもしれないと思うと何だか可笑しかった。上には上があるものだ。すると申し訳なく思ったのか、ヤヨイさんがマダン周辺の観光に行かないかと聞いてきた。人数が集まれば、近くの村でシンシンダンスを見せてもらえるのだと言うのだ。別段予定もなく少し興味を覚えたので、暇つぶしに行ってみることにした。

 ツアーには日本人ばかり20数人が集まっていた。思い思いに台のマイクロバスに乗り込みマダン周辺の観光ツアーが始まった。このツアーは初めから予定されていたものでは無かったようだった。暇を持て余していた人達の希望を聞いて、ヤヨイさんが即席ツアーを作り上げたのだ。添乗員の二人の女性はアルバイトで、彼女たちはマダンにある日本の製紙会社で働く夫の妻であった。時々空いた時間にツアーガイドのアルバイトをするそうだ。二人の内一方はまだPNGに来て3ヶ月だとのことだった。そのため、まだまだぎこちなさを感じるが、逆に素朴な手作りのツアーと言った感じで楽しかった。

 まず初めに行ったのは、博物館だった。さほど大きくなく、入ってすぐ大きな丸太が置いてあった。溝があり内側がくり貫いてあった。外側には手彫りの彫刻がほどこされていて、それは古代の電話だと係員が言った。つまり連絡手段に使用したと言うことだった。使い方は溝に棒を突っ込み、棒を内側の壁にぶつけて音を出すのである。叩き方によって、その音はかなり遠くまで聞こえるそうだ。博物館の中に入ると、不思議な民芸品や生活用品、カヌーや国宝級の壷もあった。木の皮で編んだワニ、極楽鳥の羽を使った飾り等があった。中でも木彫りの奇妙な人形は怪しい雰囲気をかもしだしていた。男性と女性のタイプがあるが、それ以外に魔物と言われるどちらにも属さないタイプのものもあった。似たようなものが御土産屋にも売られているが、どうも買う気にはなれなかった。妙にリアリティーがあって、不思議な魔力みたいなものが潜んでいそうな、そんな感じがしたからだ。

 博物館の敷地には鉄屑と化した戦闘機のなごりが置いてあった。言われてみればなるほどと分かるが、原型はとどめていなく、僅かにその骨組みの一部から想像することが出来た。ここは確かに太平洋戦争の戦場だったのだ。僕ら戦争を知らない人間にとっても、日本軍がはるか南のこの遠い地まで来ていたと思うと驚いてしまう。戦争なんてものは、結局一部の上層部にいる権力欲の異常に強い人間が引き起こすようなものだと思う。一部の思いが国対国に、そして世界中に拡がっていくのだから本当に怖い。人間は有史以前から戦いを繰り返し、その規模も大きくなっていった。そして近年になってようやく自らの力の脅威を感じ取り、パンドラの箱を閉じたのだ。そうは言っても、世界中のあちこちで紛争が続き、必死で箱の蓋を押さえていると言った感じである。そう言った紛争は戦争までには発展しないが、逆に一般の人々の、心の奥底にまで傷跡を残し、憎しみとなって紛争が繰り返され続けている。誰もが終わりを願いながらも、憎しみはそれを止められないのだ。そう思うと哀しくなってくるが、僕は悲観していない。僕ら人類はまだ微力であるが、確実にさらに高次元での世界観を持ち始めていると思うからだ。

 博物館を出て次に向かったのは国立自然公園だった。小さな空き地に停まり、バスから降りた。着いたと言うが、どこからが公園なのかさっぱり分からなかった。何人かの現地の人々が近寄ってきた。この公園を管理していると言うが、何をどう管理しているのかも分からない。唯一小さな檻が幾つかあって、そこで鳥や動物を飼育していた。檻の中には木登りカンガルーもいた。カンガルーと言うとオーストラリアを思い浮かべるかもしれないが、オセアニア圏のPNGにもいる。しかし、オーストラリアにいる草原の大きなカンガルーとは違い、小さなカンガルーのワラビーや、見た目はカンガルーには見えない短い足の木登りカンガルーである。勿論木登りカンガルーはピョンピョン跳ねたりしない。するどい爪で幹を移動するのだ。それでも、結構可愛らしい。もこもこした毛がヌイグルミみたいである。次にすぐ側を流れる小川の淵に行った。水面から湯気が立ち上っているのが見えた。川の上流に温泉が沸いているからだそうだ。ヤヨイさんが魚肉ソーセージを川の中に浸けてジャブジャブやりはじめた。ウナギがやってくると言うのである。なかなか 姿を見せなかったが、しばらくして大きなウナギが現れた。するとまた別の所からも次々に現れた。次に道路を挟んだ向かい側に行った。そこには大きな朝顔が数十メートルの高さにまで連なっているのが見えた。日本で知る朝顔の可憐なイメージはまったくなく、壁のようであった。その先に進むと小さな池のようなものがあった。そこは有名な映画(確か、ターザン)のロケ地で使用された場所らしかった。植物のツルが垂れ下がっていて、ヤヨイさんがそれに 摑まって池の上を往復してみせた。「やりたい人はいませんか?」の問いに何人かが挑戦するが、期待していた池ポチャは無かった。ここまで来て受け狙いをする方がどうかしていると思うのが当たり前である。奥にある温泉の沸きだしている洞窟を見て、その後周辺をぐるりと回ってバスに戻った。

 本道を逸れて土が剥き出しの細い道に入った。道はでこぼこで、轍の跡が水溜りになっていたりした。ジャングルの中に分け入るように進むと、ちょっとした広場に出た。その先の小さな丸太を組み合わせた橋を渡って行くと、村があった。この村はビルビル村と言って、伝統的な素焼きの壷などを作っている村だ。ただその壷も観光用にデザインされ、昔ながらの物とは随分違うそうだ。バスから降りると、人懐っこい子供たちに囲まれた。村はそれほど大きくなく、一本の道が中を貫いていて、その両側に高床式の木製の家が建っていた。片側には熱帯林が生い茂り、もう片側は海が見えた。曇った空を映した海はどんよりとした灰色で波も高かった。子供たちを引き連れながら道を奥に進むと、小さな広場があった。此処で伝統的なダンス、「シンシン・ダンス」を見せてくれるそうなのだ。そこに簡単なベンチがあり、僕らはそれに腰掛けた。ベンチと言っても、ただ板に足を付けたようなものだ。そこにヤヨイさんが三角錐を二つくっつけたような太鼓を持ってやってきた。彼女は持っていた太鼓をポンと叩くと、太鼓に張った皮を僕らの方に向けて言った。「ここにポツンと丸い物があるでしょ。これはロウで、体温で暖めて、指先で位置をずらしてチューニングするんです。」それを聞いてなるほどと感心した。ただ単に太鼓を叩いているのではなく、音を合わせたりしているのだ。PNGの伝統はなかなかどうして、侮れないなと思った。

 しばらく待っていると、半裸で頭に大きな飾り、腰や腕に貝で出来たアクセサリーや黄色い葉っぱで装飾した人々が現れた。男性と女性が半数いて、広場に隊列を組んだ。そして、不思議な歌と共にダンスが始まった。男性の頭には帆船の形をした装飾が被されていた。その力強く踊る男性の周りを貝殻の装飾を身にまとった女性たちが踊る。女性も半裸で乳房が丸見えなのだが、それが自然に見えた。褐色の肌は艶やかであった。ダンスは太鼓の音色と歌声でなかなか迫力があった。それぞれの歌には意味があって、その詩や踊りは村のリーダーである長老が作るのだと言う。つまり、村の数だけダンスも存在すると言うことだ。PNGには約800もの言語が存在するらしい。そう言ったことも考えると、地域の独自性が強く守られてきた文化があるのを感じる。大人の中に まだ5、6歳ほどの少女が一人混じっているのに気がついた。目のぱっちりした可愛い少女だった。ダンス用に装飾を身にまとっていたが、踊ることは出来ないようだった。 彼女はお母さんの側を一緒について回っていた。

 ダンスが終わると次に素焼きの壷作りの実演を見ることになった。屋根と柱だけの実演場には既に焼きあがっている赤茶色の壷や木製の飾りが幾つも置かれていた。気に入ったら買ってくださいと言う訳だ。奥に体格の良いおばさんが座って灰色の土をこねていた。ヤヨイさんは横に立って説明を始めた。その土は近くから取ってきた粘土質の土に海水を混ぜ、1日寝かせたものらしい。良く練ったその土の塊を手に持って、両手の中でくるくると回し、親指で窪みを作っていくのである。轆轤と同じ原理である。みるみる手の中で形が出来てくる。丁度、急須のような形になった。並べられた壷を見ると、とても手の平に収まりきれない物もあり、どうやって作ったのだろうと思った が、それはそれで作り方が違い、椰子の葉をドーナツ状に編んだ土台に乗せて作り上げるのだ。実演が終わると、さっそく御土産販売コーナーに変わった。お決まりである。ここPNGでも現金収入が少ないので観光客に御土産を販売することで現金を得る村も少なくないそうだ。そのような目で見ると、このビルビル村は観光客がよく立ち寄る村で裕福だと言えるのかもしれない。

 僕は少し村の中を歩いてみることにした。子供たちが自転車の車輪に棒を当てて転がして遊んでいた。以前、日本の子供たちもそうして遊んでいたのは知っていたが、僕の世代では既に消えてなくなっていた。年頃の娘が 3人の弟妹と一緒にいたので、写真を撮っても良いかと尋ねたら快く承諾してくれた。撮った後、彼女が写真を送ってくれないかと丁寧な言葉使いで言ってきた。勿論僕は送ることを約束した。彼女はマダンの大学生だと言った。マダンまでは結構距離があるが、バスで通っているらしい。そうやって教育にお金を掛けられるのも御土産販売のお陰なのかもしれない。帰る時間となったが、その人懐っこい子供たちとの触れあいが楽しくて、皆 の足がなかなかバスに向かなかった。ようやくバスに乗り込み出発した。僕はバスの中から写真を撮った姉妹たちに手を振った。

 こうして、即席半日バスツアーは終了した。

 

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 マーケット

 目を覚ましたのは午前8時過ぎだった。昨日の夕方ツアーから戻り、案内された部屋は2階建ての建物の一室だった。窓からはロッジの庭が見え、木々の間の向こうにプールと海が見える部屋だった。部屋で少しぐずぐずしてから、9時過ぎ頃になって朝食を取りにレストランに行った。人はまばらにしかいなく、朝食自体も片付ける一歩手前ぐらいで、食べる物と言えば果物とパンぐらいしか無かった。ダイビング客が多いので、レストランはかなり早くから開いていて、食欲旺盛なダイバーたちが平らげてしまったようだ。確かボート・ダイビングの集合時間は午前6時だとか言っていた。僕はメロンやパパイヤ、パッション・フルーツを皿に取って、オレンジ・ジュースを持ってテーブルに着いた。普段は朝食を取らないので、むしろこのぐらいが丁度良かった。

そそくさと朝食を済ませ、部屋に戻った。朝のマーケットを見てみたかったからだ。カメラを持ってさっそくロッジを出た。昨日少し歩いた辺りでは、支度が始まった頃で、火を起こしたり、サゴ椰子で編んだ敷物を広げたりしていた。小さなほとんど橋とは気がつかない程の橋を渡り、道路を渡って進んだ。前を歩いている現地の人が草ぼうぼうの空き地を横切って進むのを見てその後に続いた。そこは初めから道でも何でもなく、ただ近道できるので皆が歩き、獣道のようになって出来た道だった。左手に大きな木が見え、その上部に鈴なりにぶら下がっている黒い物が見えた。目を凝らすとフルーツ・バットだった。その数はロッジの比ではなかった。それはまるで木の実のように枝と言う枝にぶら下がっていた。進む方向にBEST BUYと言うかなり大きなスーパーマーケットがあって、道を挟んでその向こうにマーケット(市場)があった。

マーケットは鉄網で囲まれた広場で、その一帯は町でも一番賑やかな所に思えた。市場の入り口(鉄網が無いだけであるが)を入ると、ピーナッツをピンポン玉ぐらいにラップに包んで売っていた。見た目はキャラメル か何かでピーナッツを固めているように見えた。食後のおやつにと1つ買ってみた。しかしそれは何てことのないピーナッツそのものだった。ピーナッツの茶色い皮がラップを通してキャラメルのように見えたのだ。甘さを期待していたのは裏切られたが、それなりに美味しかった。小腹を満たすには丁度良いと思う。5トイヤだった。その先には、茣蓙に殻付きのピーナッツが一握り大の山で並べられて売られていた。それを見ると、1日分があれば良いと言った現地の生活ぶりが感じられる。たぶん普通の家庭には冷蔵庫など無く、マーケットはまさにその日の食材を買い求める場所なのだろう。ピーナッツの次にはタロイモやバナナ、大きなパパイヤ等が売られていた。野菜はその向こうにある屋根と柱だけの建物の下で売っていた。日陰になる屋根の下は直射日光が当たらないので野菜も長持ちするのだろう。ふと、乾燥させたこげ茶色の細長い植物の葉を売っているのに気がついた。「これは何?」と聞くと、タバコだと教えてくれた。タバコの葉っぱをそのまま売っているのだ。現地の人はこれを新聞紙などの紙に包んで巻タバコにして喫うそうだ。フィルターなど付いていないのだから、まさにタバコ本来の味(?)が分かるのだろう。僕はタバコを吸わないのだが、そのありのままのタバコ本来の味と言うものがどんな物なのだろうと興味を覚えたのも確かだ。しかし、やはり吸いたいとは思わなかった。タバコの匂いはとても好きになれないからだ。そうかと言って、別に他人にそれを強制しようとは思わない。他人や環境に迷惑を掛けなければ、それは個人の嗜好であるからだ。僕が酒を飲むのと同じである。

市場の中程に、魚獲りの網に使う、色鮮やかなナイロン糸で編んだ網目の大きな袋があった。それを一つ購入した。濡れた物を入れたりするのに良い感じだった。ブロックを積み上げて建てられた小さな小屋があり、中に入ってみた。そこには生魚や焼いた魚 や海老や烏賊、幾つも串に連なって刺された貝の身の焼き物、小動物の姿焼き等が売られていた。売り子たちはその後ろに座って、緑色の葉っぱを優雅に振って近寄ってくるハエを追っ払っていた。興味を覚えたが、さすがに食べる気は起こらなかった。しか し奥に進むと、新鮮そうな丁度手頃の大きさのハタが売ってあった。わずか12キナである。それを買って清蒸にしたらどんなに美味しいだろうと想像してしまった。マーケットに足を踏み入れると、いつも自分で買って調理したくなる。僕は別に料理学校に行った訳で はないが、基本的に食いしん坊なのと、一人暮らしが長いのも手伝って、大概美味しいものを食べようと思ったら、店に行くよりも食材を購入してきて調理することが多いのだ。それに、日本で見たことがない物など売られていると、とても興味が沸くのである。

市場の奥には民芸品が売られていて、色鮮やかな糸で編まれたビルムと言う袋や貝を繋げたアクセサリー、木彫りの置物や動物の骨で作られた飾りが売られていた。前日のバス・ツアーのガイドさんたちが持っていた鮮やかなビルムを見て欲しいなと思っていたので、見てみることにした。袋は木々の枝に吊らされ ていて、カラフルな彩りが楽しい。色んな形や色のパターンがあり、なかなか面白い。中でも一番後ろの市場の鉄網に掛けられた袋が気に入った。赤や黄、緑や茶が段々模様の物だ。ちょっと高い気がしたがそれを購入した。それを肩から下げると、ちょっとだけ現地の人達に近づけた感じがした。その向こうの木陰で、ビルム作りをしているオバさんがいた。器用に両手の指に太い糸を絡ませて、お喋りしながら編んでいた。そう言えば、昨日広場であった子供たちの中で、ただ一人加わらなかった女の子もまたビルムを編んでいた。それに比べると流石に年季が違い、余所見をしながらみるみる編んでいく。その様子 に感心し、カメラを向けてシャッターを押したらフラッシュが焚かれた。オバさんはちょっと驚いて僕を見たが、次の瞬間笑いながら、片手を額に当て恥ずかしそうにした。僕は笑って手を振ると、彼女も笑って恥ずかしそうに手を振ってくれた。

マーケットは本当に面白い。色々な食材や、そこに集まってくる人々を見るのも楽しい。何よりも現地の人々と同じ視線に立てるのが嬉しい。マダンのマーケットは、それに加えて人々が皆優しい笑顔で迎えてくれた。PNGは治安が悪いなどと言われているが、ここマダンに限ってはそんなことは無いと思えた。

マーケットの帰りに、向かいのスーパーマーケットBEST BUYの軒先にある酒屋さんでビールを6本買った。PNG産でアイスビールと言う名だ。それをさっそくビルムに入れてホテルに持って帰った。PNGにはアイスビールの他にも数種類のビールがあって、僕が良く飲んだのは、このアイスビールとSPと言うグリーンのラベルのビールだった。どちらもなかなか美味しい。それ以外に、ゴクラクチョウ描かれたラベルのビールもあって、そのデザインからエア・ニューギニーのドリンク・サービスにも取り入れられている。

 ホテルに戻るとすぐに冷蔵庫にビールを入れた。午後にはティキが町を案内してくれる。何か妙に嬉しかった。初めて訪れた場所で、すぐさまこんな素敵なことが起こるなんて思いもしなかったからだ。僕は もう既にマダンが好きになっていた。

 

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ティキ

 午後1時。僕は昨日ティキと会った広場で彼女を待っていた。彼女はまだ現れていない。しかし、気にはならなかった。それと言うのも、学校が終わってから来ると言っていたので、遅れても仕方ないと思っていたからだ。しばらく、海を眺めたりして待っていると、彼女が現れた。昨日とは違ってサングラスはしてなく、足元まであるスカートを履いていた。何処か行きたい所はあるかと聞くので、町をぐるりと回ってみたいと言った。彼女は軽く頷いた。小さな橋の手前まで来たところで、彼女がどっちに進みたいかと聞くので、マーケットに向かう方向とは逆の左手に進むことにした。並んで道を歩く。両側には立派な木が一杯に枝を広げて道路に影を落としていた。少し行くと木々は無くなり、民家が両側にまばらに見えた。何処からか音楽が聞こえてきた。聞き覚えのある旋律だった。きっと誰かラジオでも聞いているのだろう。「フィル・コリンズの曲だね。」と彼女に言うと、彼女は微笑んだ。彼女と並んで歩きながら話している内に、僕は彼女に対して最初に持ったイメージが間違いだと分かった。彼女はてっきり30代ぐらいだと思い、大学に行っていると聞き、先生をしているのかと思っていたが、実は学生だったのだ。そう言われて良く見ると、確かに若い。肌なんてツルツルしていた。女性に年齢を聞くのは失礼だと思い聞かなかったが、二十一、二ぐらいかもしれない。そう言えば、昨日のバス・ツアーの時、ガイドの方が「PNGの人達は見た目よりも老けて見える。」なんて言っていた。逆に彼女は僕の歳を聞いて驚いたようだった。僕は彼女よりもずっと年上だったからだ。

道の向こうに白い塔と海が見えてきた。コーストウォッチャーズ・メモリアル・ライトハウスだ。沿岸警備記念灯台である。高さは30mもある。側にある大きなガジュマルの木も小さく感じる。灯台の周りは芝生の公園になっているが、僕ら以外に人影は見えなかった。海は波が高く、岸壁に当たると白い飛沫を高く舞い上げていた。僕はその光景を見ていると、ティキが「海を見るのが好き?」と言ったので、「そうだよ。」って答えた。

それから僕らはのんびりと海岸線を歩いた。道路の右側はゴルフ・コースになっていて緑の芝生が植えられているが、プレーしている人はいなかった。特に柵で囲まれている訳でもなく、僕らは中を横切って近道した。僕らは歩きながら色んな話をした。ティキの家族の話も聞いた。実は彼女の国籍はPNGではなく、インドネシアなのだと言う。彼女の家はニューギニア島の山間部で、国境を越えてマダンの大学に来ていると言うのだ。山道を何時間もバスに乗ってやって来たそうだ。年に数回、実家に帰るのだとも言った。国籍はインドネシアであるかもしれないが、彼女も確かにパプア人なのである。パプア人特有のプアプアな髪型なのである。天然のアフロヘアーと言えば分かってもらえると思う。パプアと言う意味は、その髪型のことだそうである。つまり、パプア人の住むアフリカのギニアに似た場所と言うことで、パプアニューギニアと言う国名が生まれたのだ。ティキ の両親は教育熱心なようで、兄は大学を出て今はビジネスマンに、姉は看護婦になっていると言った。それを聞いて、きっとティキは良い所のお嬢さんなのではないかと思った。それと言うのも、普通の家庭では兄弟全員に教育を受けさせる余裕はあまりないからである。ここPNGでは、子供の中で、これはと思う子に集中的に教育を受けさせ、良い所に就職した後に家族の面倒を見てもらう、と言ったことが当たり前らしいのだ。そのような中で、子供全員に教育を受けさせると言うのはかなり珍しいことなのである。

彼女にボーイフレンドはいないのかと聞いてみたら、マダンの男は真面目じゃないから嫌いだって言った。真面目に働く気のある男はあまりいないそうなのである。とは言え、いくらなんでも全てのマダンの男達がそうだとは思わない。しかし、それも確かにそうなのかもしれない。それと言うのも、日中からぶらぶらしている人がかなりいるからである。昨日のガイドさんの話にもあったが、PNGは助け合いの精神が古くから強く根付いていて、余裕のある者が貧しい人に施しをするのが当たり前と言う感覚があると言う。助け合って生きていくと言う精神は素晴らしいと思えるが、逆に悪い意味で言えば、裕福な人に寄生して生きていけると言うことでもあるのだ。PNGには他の発展途上国のように物乞いの姿を見ることが少ない。それは、そう言った精神が深く根付いており、物乞いをしなくても生きていけるからなのである。良いとか悪いとか言う前に、そう言った文化が育ったこのPNGがとても魅力的に思えた。

海岸線は椰子の木がまばらに生えて、南国を感じさせる。風が強く波が高かったが、海が穏やかであれば、もっと素敵な風景になると思った。しかし、この辺りは人があまりいないこともあって、観光客だけが単独、或いは数人だけで歩くのはとても危険な場所なのだとティキが言った。ラスカルと呼ばれる、窃盗集団に襲われる危険性があると言うのだ。銃を持っていることもあるそうである。治安が良いと思われたマダンでも、そのようなことがあるらしいのだ。実感こそ無かったが、そうなんだと思った。

ティキは日本の経済や政治は素晴らしいと言って、僕の同意を求めたが、僕は素直にそれを受け入れることが出来なかった。その様子を見て、彼女は何故なのと言わんばかりに僕の顔を覗いた。僕は今の日本の政治や経済の状況は必ずしも良いとは言えないと言った。そして、先進国が全て良いとは思わないと付け加えた。「これまで、先進国は自然を破壊して発展してきた。それ故に、今は逆に自然を守る義務があると思う。そして発展途上国が同じ過ちを犯さないよう、また自然を維持していくための支援をしていく義務があると思うんだ。」と僕はティキに話した。それを聞くと彼女は嬉しそうに微笑んで言った。「コンサベーション。」「イエス!!」僕は頷いた。意見の一致がとても嬉しかった。

どのくらい歩いただろうか、海岸線の切れる辺りに、黒い物体があるのに気付いた。近付いていくと、それは高射砲だった。土台が壊れ、傾いたまま外海に向かって立っていた。黒く鈍く光るそれは、今や戦争の跡としてオブジェと化していたのだ。荒々しく波しぶきを上げる海を睨みそこに位置する高射砲は、もの言わぬ物体としてただそこにあった。

道は右にカーブし海岸線から離れた。確か、昨日行った博物館はその向こうにあるはずだ。ティキに聞くと、やはりそうだった。道は大きな通りにぶつかった。モディロン・ロードだった。そのずっと向こうに大学があるらしかった。行ってみたい気がしたが、あまり彼女に甘えるのも良くないと思い町へ戻ることにした。海岸線の道路とは違い、幹線道路だけあって車の通行量は多い。大きなタバコ会社の工場が見えた。PNGの会社かと聞いたら、そうではなかった。そして、PNGの大きな会社は全て外資企業なのだと、少し悔しそうにティキが言った。通りを歩いていると、ふいに停まっているバスから声が掛かった。彼女の友達のようだった。僕には分からない言葉で何か話すと手を振って分かれた。そんなことが、町に戻るまでに何度かあった。大聖堂の先にサッカー場があって、試合をしていた。PNGにおいてもサッカーは人気スポーツなのだろう。少し行くと学校があって、休み時間なのか子供たちの姿が見えた。皆グレーの制服を着ているが、小学生ぐらいの子もいれば、中学生ぐらいの子もいた。構内には高床式の建物が幾つも建っていて、それが、それぞれクラスであり教室なのだろう。ティキは低い柵の前に立ち止まり、誰かを探しているようだった。すると、向こうにいる女学生の一団を大きな声で呼んだ。彼女の声に気付き、一人の女の子が走ってこちらに向かってきた。とても可愛い中学生ぐらいの女の子だった。ティキは嬉しそうに何やら話し、手に持っていた椰子の実をその子に渡した。彼女が椰子の実を持っていたのは、それが水筒代わりだからである。椰子の実はミネラル・ウォーターよりもずっと安く、表皮も固いので、まさに天然の水筒なのである。

学校を離れしばらく行くと、緑に囲まれた公園が広がっていた。そこには蓮の葉が広がる池もあった。ティキは公園の中を歩こうと言った。勿論僕もそうしたかった。緑の中を歩くのは好きだし、なにしろ直射日光の下をずっと歩いてきたのだから、木陰が恋しくなって当然だった。「この池にはワニが住んでいるのよ。」とティキが言った。「冗談でしょ?」と言うと、本当だと真剣な目で言った。とても信じられなかった。落ち葉の溜まった土はふわふわしていた。すると彼女はサンダルを脱いで裸足になって歩き始めた。土の上を裸足で歩くのが好きなのだと言った。きっと子供の頃から裸足で走り回って遊んでいたのだろう。僕も裸足になってみたかったが、靴の生活に慣れたやわな足では、たちまち怪我してしまいそうだったので諦めた。

町を案内してもらうのも、もうすぐ終わりだった。僕は何かお礼をしたくて、何か欲しいものは無いかと聞いたら、気にしないでと彼女は言った。何かと対価を求めることが当たり前となってきたこの世の中で、親切心だけで僕を案内してくれたと思うと本当に嬉しかった。それで飲み物でもどうかと聞いたら、快く受けてくれた。そして僕らはBEST BUYでパイナップル味のファンタを買った。その他に欲しい物はないかと聞いたが、彼女は「これだけで十分よ。」と笑って言った。

冷たく甘いファンタを飲みながら、一緒にロッジの方向へ歩いた。僕は大丈夫だったが、彼女は最後まで僕を送り届けようと思ってくれたのだ。そして、ロッジ手前の橋のところまで一緒に歩いてくれた。僕は本当に彼女に感謝していた。彼女の親切心がとても嬉しかったのだ。温かく優しい気持ちに触れて、忘れかけていたものを思い出したような気がした。別れる前に、彼女に写真を撮りたいと言ったら快く承諾してくれた。すると、彼女は橋の反対側で露天を出しているお兄さんに声を掛けた。一緒の写真を撮ってもらおうと言うのである。露天のお兄さんは快くそれを受けてくれ、カメラを渡すと、僕ら二人に向けてシャッターを押した。僕はこの写真も必ず送ると約束した。そして、ティキと握手し別れたのだ。

心がとても軽やかになっていた。清々しい、爽やかな風が僕の横をすり抜けていった。「此処に来て良かった。」

 

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クランケット島

 クランケット島はマダンの対岸に見える島で、ホテルからも良く見え、その島に行ってみることにした。遅い朝食を取った後、ホテルを出て、露天の準備をする姿を眺めながらのんびりと船着場に向かった。橋を渡ってそのまま少しまっすぐ歩くと、左手前方に大きなガジュマルの木がある。その大木の枝からは、幾つものツルが垂れ下がっていて、幹の部分もツルが重なりあって出来ているように見える。それまで見たことがない不思議な木だった。精霊が宿る木だと言われれば、素直に信じたくなるような木である。大きな木と言うのは種類に関わらず、何か神秘的な雰囲気がある。このガジュマルの木もそうであった。

 大木の立つ広場とは反対の右の道に入る。そこをまっすぐ進むと小さな船着場に出た。船の姿は見えず、木陰に座って待つことにした。15分ぐらい待ったであろうか、小さなボートが穏やかな海面にV字型に波紋を作りながらやってきた。僕は立ち上がり、ボートの停まる小さな桟橋に行った。ボートから男女8人ぐらいの降りるのを待って、船頭さんに「クランケットに行くか?」と聞いたら、「行くよ。」と言うので、ボートに乗り込んだ。僕の他に二人の現地の人が乗っていたが、遅れて二人の白人のカップルが走ってきて乗り込んだ。ボートはゆっくりとバックし、向きを変えてクランケットに向けて走り出した。白人のカップルと簡単な挨拶をした。彼らはオーストラリアから来たと言った。日本には馴染みの少ないPNGであるが、さすがにオーストラリアは近いこともあって、訪れる人は少なくないようだ。そう言えば、ホテルのステーキはオージービーフだったし、ワインもオーストラリア産のようだった。

 湾を出ても海面は穏やかで、海の上は実に爽快だった。天気も良く、空気は澄み渡っており、青い海に浮かぶ緑のビリアウ島やクランケット島が見えた。手をボートの外に伸ばして水しぶきを受けてみる。冷たく気持ち良かった。丁度中間ぐらいの所で、一艘の木製のアウトリガーが見えた。釣りをしているようだった。島に近付いていくが、桟橋のようなものが見当たらない。どこに着くのかと思ったら、僅かに海面から石が出ている場所があり、そこに船を寄せた。よく見ると、それは石ころを積んで作った桟橋であった。僕とオージーのカップルはボートを降り、石の桟橋を伝って島に上陸した。島 に上がるとすぐ向こうに木陰の間から水面が見える、行ってみると、そこは池のようになっていた。しかし、それは池ではなく、ラグーンなのである。つまり海水なのだ。葉っぱの積もった底を見るとそう思えないのだが、そうなのである。右と左に道は伸びていた。さて、どちらに行こうかと思ったが、左に行くことにした。オージー達はバッグを開けて何やらしていたが、二人の邪魔をするほど僕も馬鹿ではないのでそこで別れた。

 左にしたのは特に訳は無かった。緩やかに昇る土の道の両側には美しい花々が咲いていて、その奥に家が建っていた。家は木造のものやレンガを組み立てたものなどあったが、必ず庭があって、どの家の前にも花が美しく咲いていた。とても綺麗な島だと感じた。村はとても静かだった。どこからか、ギターの調べが聞こえた。たぶん若者がいて弾いているのだろう。花の小道を進んで行くと、数人の人の姿が見えた。「おはようございます。」と言うと、「ご機嫌如何?」と言ってくれたので、「とっても良いですよ。」と応えた。此処に来て思うのだが、本当に此処の人達は気さくで、何かほっとするものを感じる。さらに進むと緑の広場に出た。向こうには大きな木が両腕を一杯に広げて涼しそうな木陰を作っていた。その向こうには海が見えた。道が切れてどうしようかと思ったが、そのまま進んだ。すると小さな家があって、子供たちの姿が見えた。その向こうに年配の女性の姿もあった。挨拶をするとびっくりしたような様子を見せたが、すぐに笑顔になって近付いてきた。「何処に行くの?」と聞くので「島をぐるりと歩きたいと思ってるんです。」と応えた。それから、「この先を歩いて行けますか?」と聞いた。「ええ、行けますよ。」彼女は言った。子供は5人いて、興味津々と言った顔つきで僕を見ていた。その腕白な笑顔が気に入ったので「写真を撮っても良いですか?」とその女性に聞いたら、「勿論どうぞ。」と言ってくれた。そればかりか、そこでは場所が良くないからと僕を呼んでくれた。そこは緑の絨毯の小さな木陰で、子供たちは一列に並び、満面笑顔で写真を撮らせてくれた。勿論、それは彼らの自然な笑顔だった。二人の小さな子は昔懐かしい洟垂れ小僧だった。今や日本では見るのも難しい洟垂れ小僧である。急に賑やかになったからか、何事かと女性が現れた。それは子供たちの母親だった。そして、その向こうに大工仕事をしている男性の姿も見えた。つまり年配の女性はお婆ちゃんで、子供たちの母親と父親を僕に紹介してくれたのだ。男性はその手を止め、僕の方を向いて手を振ってくれた。僕も手を振ってそれに応えた。それから作業をやめて、僕を道のある所まで案内してくれると言ってくれた。僕が踏み入っていたのは、彼ら家族の敷地だったのだ。

 僕が彼に続くと、子供たちは嬉しそうに僕と一緒に歩き出した。自然に、僕の手を取り一緒に歩くのだ。少し行くと違う家が見えた。そこにはお爺さん夫婦が住んでいると言った。その二人を見つけて僕は挨拶した。優しい笑顔の老夫婦だった。その先の道を進んで行けば良いと教えられ、僕は彼と別れた。しかし、子供たちは違った。まだ僕を案内してくれると言うのだ。子供たちは僕にまとわり付くように一緒に歩いた。笑いが絶えず、両手は常に誰かの手に握られていて、何か懐かしい気がした。ずっと以前の日本もきっとそうだったのではないかと思えてくるのだ。子供たちの家から随分離れたところで、一人の若い男性と出会った。彼は子供たちと知り合いのようだった。彼は僕と挨拶してから子供たちに帰るように言った。僕に悪いと思ったようだった。子供たちは僕らが案内してあげているんだと言わんがばかりに言い返したが、結局そこで引き返すことになった。僕は皆で飲むんだよと念を押し、一本のミネラル・ウォーターの入ったペット・ボトルを一番大きな子に渡した。子供たちはとても喜んでくれた。そして、大事そうに両手で持って引き返した。

 子供たちがいなくなると、一変して静かな空気が僕を包んだ。岸壁に時々現れる小屋はトイレだった。排便はそのまま海に落ちて、色んな生物の餌となるのである。これこそ自然のサイクルに沿った生活なのだと思った。島の反対側はバナナを栽培している場所が結構あって、その中を道が続いていた。バナナの花はとても大きく、その上に実が付いていた。とても奇妙な形である。木陰の中を進んでいると、小さな家が3件建っていて、その前に海に入っていける場所があった。クランケット島の外側の海岸線はほとんどが崖になっているので海に入るのは難しいのだ。僕は火照った体を水に浸けたくなり、その家の住人の姿を見つけたので、泳いでも良いかと聞いてみた。返事は勿論OKだった。僕は水着に着替え、海に入った。とても気持ちが良かった。海から島を見て見ると、濃い緑の木々が海岸線を覆っているのが分かる。ビーチが少ないと聞いていたが、その通りである。椰子の木が真っ青な空に向かって伸びていた。南国の風景そのものである。僕は程よい水温の海の中にしばらく身を置くことにした。

 お腹も空き、帰ることにしたのは午後2時頃であった。上陸した場所に行ってみると、若い男の子たちが角材を横にしただけの椅子に並んで座っていた。高校生ぐらいの一番年上らしい子がギターを弾いて歌うのを聞いたり、みんなで歌ったりしていた。僕が側に行くと、寄って長椅子の隅を空けてくれた。僕はそこに座り、彼らの歌を聞いていた。

 ふと、以前行ったタイのサムイ島のことを思い出した。夕食にはいつもロッジの側にあるレストランに行っていたのだが、そこにギターがあったのでちょっと借りて弾いてみたのだ。すると、従業員の男の子が小さな太鼓を持ってきて一緒に叩き出した。タイの曲も弾いてみてくれと言い、コードだけを書いた歌の本を持ってきたので、分からないなりにもコード進行通りに弾いてみた。彼はそれに合わせて太鼓を叩きながら歌った。いつの間にか彼の知り合いの女の子たちも集まってきていて、もう一人の従業員の男の子もやってきた。実はギターは彼の物だったのである。彼に勝手に使ったことを謝ると、そのまま続けてくれと言ってくれた。勿論、その後彼にも弾いてもらったのは言うまでもない。そして、僕らは閉店時間までずっと歌い続けたのである。その自然発生的に始まったジョイントはとても楽しかった。

 しばらくすると、がっちりとした体格の男性が来た。彼は僕に興味を持ったのか、「自分はジョンと言う名前だ。」と言って、握手を求めてきた。当然こちらも名前を言って手を出した。固く、乾燥した手だった。そんな手に触れると、何もしていない自分の手がちょっと恥ずかしくなる。ジョンは子供たちをさらに向こうに寄らせて僕の隣に座った。それから、何処から来たのかとか、マダンはどうかとか聞いてきた。学生かと聞くので、ビジネスマンだと応えると驚いたようだった。彼からすると僕はまだ学生ほどの年齢に見えたようだ。逆に僕と同じくらいの年齢に見える彼が、本当は年下である可能性も高かった。そうこうする内に、彼が「明日また島に来ないか?島を案内してあげるよ。」と言い出した。特に予定も無かったし、道の右方向は歩いてなかったのでそうすることにした。そして彼は「家は左手奥にあるから、島に着いたら声を掛けてくれと。」言ってくれた。ティキに続いてまたもや案内人が出来てしまったのである。

話している内に、ボートがやって来た。僕はジョンと固く握手し礼を言った。ジョンはボートが出るまでそこにいて、手を振って見送ってくれた 。僕はボートの上で美しい海と島を眺めながら、此処の人達は本当に親切なんだなと思った。その笑顔に下心など微塵も感じられなかった。なんて素敵な所なのだろうと思った。

青い海の上をボートは快適に走っていた。

 

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スノーケリング

クランケット島のジョンを尋ねて行くつもりであったが、昨日の夜に急遽予定が変更した。それと言うのも、ロッジの日本人ダイバーたちと自然発生的に仲良くなって、夕食を一緒に取っていたところに、ヤヨイさんも加わって、お昼に皆でバーベキューをしようと言うことになったからだった。僕は当初ジョンとの約束があり、彼の親切な気持ちを裏切りたくないので断った。しかしヤヨイさんが、ロッジのスタッフにクランケット島から来ている人がいるから、行けなくなったと伝言してもらえば良いと、レストランのスタッフの中から見つけ出して伝言を頼んでくれた。予定としては、早朝に集まってボートで出て、ダイビングライセンスを持たない僕をスノーケリングの出来る島に残し、他の人達はダイビングをした後、僕を再びピック・アップしてからクランケット島でバーベキューをすると言うものだった。スノーケリングをしたいと言う気持ちはずっとあったので、僕はその話に興味を持った。ジョンには申し訳ないと思ったが、伝言を伝えてくれる人が見つかったので、そうすることにしたのだ。もし、伝えてくれる人がいなかったら、僕は諦めたと断言できる。好意を蔑ろにすることなど出来ないからだ。とは言え、やはりジョンには済まないと言う気持ちがあった。

朝、6時に集まり、出航したのは7時を過ぎていた。僕以外にもスノーケリングだけをする人は2名いた。しかし港を後にして、僕らのマスクとスノーケル、フィンを乗せていないのが分かった。こちらは当然用意しているものと思っていたのだが、そうでは無かったのだ。初めに着いたのはクランケット島の先端で、海に向いてラグーンが口を開けている場所だった。この付近でダイバーたちは一旦潜って機材のチェックをすると言う。スノーケリング組3人は島に降り、その間島を散策することにした。降りた場所は、昨日歩かなかった所だったので丁度良かった。道を奥へと進むと、小さな川のような場所に出た。しかしそれは川ではなく、ひょうたん形をしたラグーンのくびれの部分で、浅くなっているのである。それが潮の満ち引きによって水流をつくっていたのだ。両脇に青々と茂る植物に、本当に海水なのかと疑ってしまうほどであったが、大きな青いヒトデを見つけ、海水なのだと納得した。2本の丸太を置いただけの小さな橋があった。橋の上から見ると、小さな魚が沢山いた。橋を渡って、水際まで近付く。赤や黄色の魚に混じって、不思議な形をした魚がいた。体色は薄い灰色に黒のラインがあって、地味であるが、マンジュウイシモチのような感じだった。とは言え、そうではない。美しい赤色をした魚は、ヤッコの幼魚と思われた。また美しく色を散りばめたベラの姿もあった。僕は水中カメラを持ってくれば良かった思った。実はデジカメと専用の防水ケースを持ってきていたのだが、仲良くなったダイバーに海中の様子を撮ってきてもらおうと渡していたのだ。無いものは仕方がない。僕は夢中になって魚たちの動きを目で追いかけていた。ふと時計を見ると、約束の1時間が来ようとしていた。夢中になって時間を忘れていたようだ。僕は元いた場所に駆け足で帰った。

ボートは僕らをピックアップし、次の場所に向かった。そこでスノーケルをするのである。クランケット島でも出来たのだが、前日に降った雨のせいで透明度が悪く、他の人のマスクを借りてまでしなくても良いと思ったのだ。ボートは波を切って進んだ。さすがに、波風が強くボートが揺れたが、酔うことはなかった。岩礁があるためだろうか、海を二つに割るように、白い波が海面に立っていた。小さな島が見えてきた。海抜1、2メートルぐらいしかないようなその島に、住居があるのに驚いた。海が荒れればたちどころに吹き飛んでしまうのではないかと思われたからだ。その先にもう一つ島が見えてきた。どうやらそこに向かっているようである。島の周りは波が白くうねっているのが見えた。ボートは迂回するようなコースを取って、島の風下に入り近付いていく。すると、波と風が急に穏やかになった。島は風下に向かってコの字形をしていて、内側に入ると波はほとんど無かった。小さいが白いビーチがあり、一本の木が海に向かって倒れていた。ずっと以前に倒れたもので、幹や枝は白く乾燥していた。ここで、スノーケルをするのである。機材がないので、ロッジで友達になったダイバーの一人にマスクを借りた。本当は僕ら3人を島に置いて、ダイバーたちはバラクーダ・ポイントと言うダイビング・ポイントに向かうはずだったが、僕らのスノーケル のためにしばらく待ってくれることになった。

この一帯は珊瑚が群生しているのだとヤヨイさんが説明してくれた。岸辺から10メートルぐらい進んだ辺りにはエダサンゴがあってとても綺麗なのだと言った。僕は借りたマスクとスノーケルを着けエントリーした。

顔を水中に入れるなり僕は息を呑んだ。そこには珊瑚が不思議な造形を作り上げ、その中を沢山の色鮮やかな魚の泳ぐ姿が目に入ってきた。今までに見たことのない世界がそこにはあった。水面から覗くのとは全く違う世界だった。浅瀬だったので、僕は思わず立ち上がって咥えたスノーケルを離して言った。「凄い!! とても綺麗だよ!!」するとヤヨイさんはそれを見て嬉しそうに言った。「向こうにエダサンゴが群生してるので、頑張って泳いでみて下さい。」僕は 水中写真を撮りたくなって、ボートに乗っている友達からカメラを受け取った。そしてスノーケルを咥え直してゆっくりと泳ぎはじめた。色々なサンゴの間をゆっくり進む。チョウチョウウオが優雅に僕の前を横切った。クマノミが僕に近付いてきた。これは僕を歓迎しているわけではない。テリトリー意識の強いクマノミは怪しいものが近付いてくると、追い払おうとするのである。しかし、それは僕にとっては嬉しいことであった。何故ならクマノミの顔のアップを見ることが出来たからである。こんなことは水中にいなければ出来ない体験である。ダイバーたちの気持ちがとても良く分かる気がした。彼らは多くの感動を得るために潜っているのだ。

急に深くなり、サンゴが眼下に移動した。周りをぐるりと見ると、壁のようにサンゴが取り囲んでいた。その向こうに、無数の小さな青い光が見えた。エダサンゴだった。エダのように伸びたその先端のひとつひとつが青く光っているのだ。その青はとても神秘的な不思議な色だった。僕は水中カメラを持っていたのを思い出し、夢中になって写真を撮った。しかし、水中ではなかなか体制を保つのが難しい。それでも、とにかく撮った。

15分後ぐらいして、終わることになった。内心は残念だが仕方がない。いつまでもマスクを借りるわけにはいかないのだ。僕は礼を言って、マスクを返し、一緒にまたカメラを手渡した。そして、僕らを残し、ボートはダイビング・ポイントに向かった。僕には既に明日の予定が決まっていた。勿論スノーケリングである。

島から見る海はとても綺麗だった。良く晴れた青い空が水面に映って、より青を際立たせていた。

 

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フレンズ

 ディナーの時には、ホテルに滞在しているダイバーたちと一緒に食事をした。僕はライセンスを持っていないのだが、陽気な彼らはそんなこと気にもせず、仲間として迎えてくれた。僕が魚や海、自然が好きだったからかもしれない。もしかしたら、ぶらぶらと1日マダンを歩き廻っている僕を不思議に思ったのかもしれない。しかし、やはり底抜けに明るい彼らの性格なのだと思う。彼らにしてもまた、グループで来ている訳ではなかったからだ。 それは個人やカップルが自然と集まって出来あがった仲間だった。それだからか、一人一人個性的で面白い。エネルギッシュなオジさんダイバーはいつしか皆にリーダーと呼ばれ慕われ、二組のカップルはそれぞれ タイプは違うが、見ていて羨ましくなるほど仲が良かった。単独で来ていた若い男の子はイアン・ソープ似で、どことなく愛嬌があり、その食欲はさすがに若いと思わせるものがあった。同じく単独で来ていた女性がいて、彼女は3000ダイブ以上の強者だった。もう一人、一人で来ていた女の子がいて、彼女は実はヤヨイさんの知り合いで、ダイブの腕を上げるために 態々PNGまでやってきていたのだ。彼女はその可愛い顔に似合わず、かなりの毒舌で笑わせてくれた。それから、二人の聾の男の子もいた。障害を持っているにも関わらず、自分たちだけでPNGに来ていた。その行動力と 冒険心には感服した。彼らもまた、楽しい仲間である。そこに、更にヤヨイさんも加わるのだから面白くない訳がない。色んな個性が集まると実に楽しい。僕らは毎夜、遅くまで食べて飲んで笑った。

 4日目ともなると 、僕らはもう半オープンのレストランを独占したように、幾つもテーブルを並べ、その存在を知らしめていた。と言うのは言い過ぎだが、かなり目立っていたのは確かだ。しかし、それは他の人達に決して迷惑を掛けるものではなく、逆に場を楽しく盛り上げていた。注文を取りに来るウェイターたちもにこやかで、たまに冗談を言っては笑っていた。その日の話の主役は二人の聾の男の子たちだった。 「即席手話講座」が始まったのである。確かに考えてみれば、海中の中では誰よりもこの二人は意思を通じ合えるのである。環境が違えば一変にハンディキャップは無くなり、僕らよりも優位に立てるのだ。ダイビングをしている時、彼らが誰よりもお喋りだったと想像すると何だか嬉しくなる。そして違いはあれ、皆同じ なのだと感じるのだ。

 手話は世界共通では無く、日本においても地域で少しずつ違うと言う。所謂手話にも方言があるらしいのだ。それを聞いて思わず「へぇ~」って声を出してしまった。文法の違いとかあるので世界共通ではないのは分かるが、言語としては新しいものであるはずなのに、既に方言があると言うのに驚いたのだ。彼らが読唇術を身に つけていたことや、筆記を使って、僕らは次々に質問した。それを手話で表現してもらうのだ。それを見ていて、手話と言うのは感性から生まれた言語ではないかと思った。手や指を使ってそれを上手く表現したりするからだ。ダイビングと言う手話の表現はまさにぴったりだった。どのようにするか考えてみて欲しい。「う~ん」と感心するのは僕だけではないはずだ。回答はこうだ。片手を水平線を表すように 水平に手の平を下に向け、もう一方の手でVサイン(チョキ)を作り、水平線をイメージした手の上から、人差し指と中指を交互に動かしながら下に降ろして行くのである。言語や文字、絵や音楽以外にもまだまだ表現する方法はあるのだと、目から鱗が落ちるようだった。ヤヨイさんは年頃の女の子らしく、「結婚する」と言う手話を 尋ねた。それは、片方の親指ともう片方の小指を立てて、それを合わせることだった。つまり親指が男で小指が女を意味し、それを合わせることで結婚と言うことになるのだ。そうかと、ヤヨイさんが指を合わせたら、それは小指と小指だった。「それはレズだ。」「それはヤバイよ。」と大爆笑。それじゃあ、親指と親指を合わせたらホモだと、これまた大爆笑になった。

 いつしか、客の姿は僕らだけになっていた。しかし誰もがそんなことに気がつかなかった。話は次から次に止め処も無く続き、笑いが絶えなかった。すると、もう時間だとウィエターの一人が言いに来て、お開きにすることにした。その前に、皆で揃って写真を撮ることにした。僕らは真っ黒な海を背に、ガッツポーズを作った。本当に楽しい夜だった。そして、その続きは翌夜にも続くのである。皆でバーベキューと日本食を出してくれるレストランを借りて、最後の夜を楽しむことにしたのだ。

 

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パプアな日々

 いつもの遅い朝食を取り、何度も通ったマーケットに行く。マーケットはいつも穏やかな空気が流れていて、日本の市場にある活気は感じられない。売る方も買う方も、皆が自分のペースでやっているのだ。しかし、賑やかな雰囲気があってとても楽しい。きっと此処は物の売買だけでなく、コミュニケーションの場としてもあるのだろうと感じた。冷やかし程度に、これは何かと尋ねても、嫌な顔せずに教えてくれた。海が近いので多くの魚介類があると思っていたのだがそうでは無かった。確かに売ってはいるが、それ程でもないのである。もしかしたら、人々は簡単に魚が手に入るので、態々マーケットに行かなくても良いのかもしれない。確かにマーケットで売られているのは中型の魚が多かった。この位のものになると、そうは簡単には獲れないと思うのだ。そう言えば、ホテルの側の湾でも釣り糸を垂らして魚を取っている人の姿を見かけた。勿論、竿など使わず糸に餌を付けて投げ入れるだけである。それだけで、小魚が獲れるのだ。野菜や根菜は沢山売られていた。日本ではおよそ売り物にはならないような人参も売られていた。きっと日本だったらウサギなどの家畜の餌になるような小さな人参だった。でも、その人参を食べたくなった。もしかしたら、僕が知らない本当の人参の味がするのではないかと思ったからである。大量消費を続ける先進国では野菜も改良が進み、食べやすくなっていると聞く。本来の味が失われつつあると言うのだ。確かにそう思うことがある。子供の頃食べた大根の辛味は、今の大根ではほとんど感じられないからだ。それは大根だけではない。苦く不味いと思ったピーマンは食べやすくなり、生で食べても全然平気になってしまった。それは大人になって味覚や嗜好が変わっただけではないと思う。 トマトもそうだ。青臭い中に酸味があるトマトは姿を消してしまっている。果物のようなトマトが今では主流だ。毛の生えたトゲトゲのキュウリもスマートになってしまった。食べ易い物を望む一方で、本来の味が消えていくような気がして哀しい。

 苦味と言うのは、本来生物は生理的に拒否する味だと聞いたことがある。つまり苦味があるものには毒性があるものが多く、生理的に拒否反応を示すと言うのだ。それは酸味にも言える。腐ったものは酸味を帯びるからなのだ。それで、子供は苦味や酸味は特に嫌いなのである。逆に言うと、苦味や酸味を美味しいと味わえるのは大人の味覚を持ったと言えると思う。大人だから分かる味と言う訳だ。ビールの苦味を思い出せば分かると思う。子供の頃、美味しそうにビールを飲む父親を見て、さぞかし美味しいのだろうと思って口を付けたが苦くて不味いと思った経験のある人は沢山いると思う。それから、サザエの肝もそうだ。今では壷焼きの際には肝が一番のご馳走になっている。そのほろ苦く潮の香りのする肝は実に美味しい。しかし、やはり子供の頃は理解し難い味であったのは事実なのである。野菜もそんな気がする。今は糖度や甘味ばかりが持て囃されているが、本来の癖や味を感じられたらと思うのである。きっと、PNGにはまだそんな味があるのだろうと思った。

 マーケットの側のスーパーマーケットBEST BUY は小奇麗な店で、観光客ご用達と言った感じだったが、それなりに現金を持っている現地の人達も結構入っていた。とは言ってもやはり現金収入の少ない多くの人にとっては高嶺の花であるのは間違いない。その中の出入り口付近の一角にフード・コーナーがあって、僕は時々昼食をそこで取っていた。店の中にはテーブルと椅子があり、そこで食べられるようになっていたが、店先はオープンになっていて、外からでも注文を受けテイクアウトできた。そこはカイ・バーと呼ばれるファースト・フード店で豚や鶏、魚のローストや煮込みがあって、それを米と一緒に食べるのである。所謂ぶっかけご飯である。その味はなかなか美味しく、日本人ならホテルの食事よりも合っていると思うのではないかと思う。僕はその日、鶏の半身のローストと、オイスターソース風味の豚肉の煮込みとご飯を頼んだ。それらは全て一つの皿に乗せられた。オイスター風味の焼き飯は美味しかった。これは文句無くお薦めである。しかも安いのだから言うこと無い。もしPNGに行くことがあったら、是非試してみると良い。

 午後からは待望のスノーケリングだった。昨日と同じ場所に降ろしてもらい、ダイバーたちが潜っている小一時間ほど、スノーケルを付けて海中の様子を眺めて楽しむのだ。今回はマスクとスノーケルをちゃん と借りて、準備万端であった。しかし、あいにく昨日とは違い曇っていた。ボートとしばし別れを告げ、その間スノーケリングを楽しむことにした。曇りは明らかに水中にも影響を与えていた。昨日と違い色がクリアーでないのだ。とは言っても、その世界は目を見張るものであったのは間違いない。しかし、僕にトラブルが発生していた。それと言うのも、マスクとスノーケルが合わなかったからである。マスクはフィット感が無く、鼻の辺りから水が入ってくるし、スノーケルは弁が無く、海水が流れ込んで くるのである。僕は当惑して、何度も水中から顔を上げた 。昨日友達に借りたものとは全然違うのである。ようやくこつを掴んで泳げるようになったが、マスクの水の浸入を防ぐことは出来なかったので、片手で鼻を摘んでいた。昨日と比べてこれほどの違いに驚いたのは言うまでもない。機材の良し悪しで大きく違うことが認識された。このことで、自分のマスクとスノーケルを持とうと思った。

 珊瑚の海はとても美しかった。時間は十分にあり、僕は一心に海中を眺めていた。美しい魚たちは自由に軽快に泳いでいた。自分の重鈍さが嫌になるほどだった。彼らのように軽快に水中を動けたらと思った。エダサンゴの神秘的な青い光は曇っていても健在だった。その光は太陽光によるものではないのが分かった。その生物から発生しているのである。ティキはこの色を知らない。彼女は山間部の出身で、スノーケルの経験はないと言っていた。いつか、彼女にこの美しい色を見せてあげたい。そう思った。珊瑚はそれぞれが美しかった。その不思議な形が組み合わさって壮麗な建造物を作っていたのだ。僕はその水中の造形美の間で、水に落ちた蟻のように四肢をもぞもぞ動かしているのが精一杯だった。

 その美しさは、やはりその場で感じて欲しい。言葉よりもその実体験が多くを語ってくれる。確かに言葉で表現することは、ある程度できると思うし、それを表現出来たらどんなに素晴らしいかと思うのだが、それはやはり作られた物であると思うし。その感じ方は人それぞれ違うと思う。その一瞬を切り取ることも、言葉として意義のあるものと思うのだが、そのリアリティは写真に敵わない気がする。しかし、内面に及 ぶものはやはり写真よりも言葉なのかなと思ったりする。しかし、それもまた個人的な ものに過ぎないのである。何故なら皆が皆、同じ感覚を持つとは言えないからだ。ただ、それを見てどう感じたか。それが共有出来たら、きっと僕らは友達になれる、そう思うのだ。また違った思いを知ることによって、僕らは領域を確実に拡げていける、そんな気がする。

 何時しか日が現れてきていた。太陽光の下で、さらに美しく世界は輝いていた。魚たちはまるで生きている宝石のようだった。黄色に黒いラインのヒフギアイゴや、その名の通りの虹色のニジハギが珊瑚の間で遊んでいた。仲良く泳ぐツガイのツノハタタテダイもいた。その先にはミスジチョウチョウウオがいた。このツガイの柔らかなフォルムと美しい色彩が、僕の心を捉えていた。 此処は天国かもしれない・・・。

  自分が自分らしく生きる。自然に生きること、それこそがパプアな生き方なのではないかと思ったりする。このPNGにおいても近代化の波は押し寄せているが、いつまでも民族の誇りと 生き方を自負し、上手く発展して欲しいと思う。ただのパッセンジャーでしかない僕は、恥ずかしくて何も言えないと言うのが本当のところだが、確かに感じたこのパプアの日々は僕の中に在り、何かを与えてくれたのだ。それは自然や伝統、歴史や文化と言ったものなのか、それはまだ分からないが、僕の内面に影響を及ぼし、僕の中にPNGのインプレッションを刻んだのは間違いなかった。そして、さらに大きな高みへと連れてい ってくれる。 そんな気がした。

 僕は心の中で遠く海を見つめていた。

 

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旅の終わり

マダンからポートモレスビーに戻り、最後の1日をそこで過ごした。ポートモレスビーはPNGの首都でもあり、それなりに栄えている。車の交通量はマダンの比ではなかった。ホテルは空港のすぐ側で、街から離れており、街にはバスかタクシーで行くしかなかった。荷物を置いてから、さっそくバスで行ってみようとホテルを出た。すると、ホテルのゲート付近に見慣れた顔があった。マダンで一緒だった。若いダイバーだった。声を掛けると彼もこれから街に行くのだと言う。そして、他のメンバーも一緒に行くので待っているところだったのだ。そう言うことならと、僕も一緒に行くことになった。タクシー代をシェアすればそれなりに安くなるからだ。メンバーは僕を入れて4人だった。

守衛さんにタクシーを呼んでもらい、街に向かった。舗装された道は広く、立体交差などもあり、さすがに首都であると思わせた。街に着くと、さすがに人の数が多い。まずは御土産屋に行ってみた。御土産屋は急な坂道の中腹にあって、その向かいにはホテルがあった。ここは観光客の来る定番になっているのか、店の前に4、5人の日本人らしい姿が見えた。店の中に入ると、店員以外は誰もいなかった。中には大小さまざまな木彫りのマスクや人形、置物やストーリー・ボードがあった。貝を繋いで作ったアクセサリーや、Tシャツ、ポストカード等も売られていた。しかし、どれもかなり高い。マダンと比べると5、6倍はすると感じた。結局僕は何も買わなかったが、他の人達もあまり買わなかったようだった。

車に乗り込み街を走る。人々の表情は冷たい。マダンの人々の笑顔に慣れたためか、目つきがきつく感じられた。何処に行きたいかとのドライバーの質問に、高台に行きたいと同乗する女性が言った。ドライバーは怪訝な顔をして、どうしても行きたいかと聞いた。すると、その女性は行きたいと言ったので、行くことにした。その高台に向かう道はかなり急で、おんぼろタクシーのエンジンは、途中でエンストするも、あっぷあっぷしながら昇っていった。ようやく頂上に辿り着き、僕らは車を降りた。確かに見晴らしは良かった。ワルター湾の青い海とエラビーチが見えた。その高台とはバガ・ヒルと言って、街を見下ろせる絶好の場所なのである。しかし、実はその絶好の場所も今ではラスカルと呼ばれる強盗団の根城で、ポートモレスビーでも特に危険な場所だったのだ。それで、ドライバーが怪訝な顔をしたのである。市内観光ツアーに行った人の話を後で聞いたのだが、バガ・ヒルに昇る前に銃を持った警備員が乗り込んで来たと言う。それほどに危険な場所だったのだ。知らないと言うのは怖いもので、僕らはその場所でのんきに写真を撮った。するとドライバーが、料金を上げてくれと言い出した。坂道でガソリンも使ったのだから、まあ少しは良いだろうとドライバーの言い値をディスカウントして、合意となった。しかし今思うと、怖い思いをしてまで連れて行ってくれたドライバーには危険手当として、もう少しぐらい払ってあげても良かったなと思う。とにかく無事に帰ってこられて何よりだった。

8月17日。PNG旅行ももうすぐ終わりだった。しかし、フライトが遅れて、定刻の14時30分から約1時間近く遅れての出発になった。その間、冷やかし程度に御土産屋を覗いていたら、木製の魚の置物に目が止まった。なんとも愛嬌があり、PNGの記念として購入することにした。

PNGの旅は何かとても懐かしい気がする旅だった。初めてなのに何故か懐かしい、そんな感じがするのである。僕は飛行機の中でマダンの笑顔を思い出していた。そして、また帰りたい場所が一つ増えたなと思った。僕はゴクラクチョウの描かれている、PNG産のビールをキャビン・アテンダントに頼んだ。

 

終わり

07/19/2003

 

 

PNGの旅行記は如何でしたか? 挿絵も入れてみました。もし、これを読んでPNGに行ってみたいなと思ってくれたら嬉しいですね。

 

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